真宗大谷派 円光寺 本文へジャンプ

  ニューエイジ・スピリチュアル・精神世界 2
 
1,ニューエイジ・スピリチュアル・精神世界とは何か
2,私とニューエイジ
3,ニューエイジ・精神世界の問題点
4,ニューエイジの霊魂観

  1,私とニューエイジ


 私は小学生のころ、怪奇現象に興味を持つオカルト大好き少年でした。超能力とか、世界七不思議、ミイラの呪いや空飛ぶ円盤など、そういったたぐいの本をゾクゾクしながら読んだものです。
 そして、死んだらどうなるのかが気になっていたので、死後の世界やら幽霊がどうしたといった話も好きでした。未知の世界、神秘の世界への憧れがあったわけです。

 成長するにつれて、そういったオカルトじみた話はどうもウソっぽいと思うようになりました。死者の霊魂と会話ができるのなら、未解決殺人事件の被害者に犯人を教えてもらえるはずだし、スプーンを曲げることができるのなら、紙を折るといったもっと簡単なことをどうしてしないのかというような、誰でもが考える疑問が浮かんだわけです。しかし今でも、その手の話は気になります。

 それともう一つ、私には「何かいいことがあるんじゃないか」とか、「願っていることはいつかかなうんじゃないか」という甘い期待や、「私はこんな人間じゃない。もっと違った人生があるんじゃないか」という思いがどこかにあります。
 だからといって、そのために何かするというわけではありません。そんな夢みたいな話はあり得ないのはわかっているつもりですが、それでもやっぱりそういう妄想はなくなりません。

 そして中学生になると(60年代末)、カウンター・カルチャーというか、ヒッピーやドラッグ、瞑想といったものに惹かれました。植草甚一が絶賛していたカスタネダの本(全くの作り話だそうです)も興奮して読んだものです。

 そのころは公害が大きな問題となっていましたから、環境問題には関心がありました。また、ベトナム戦争の激化ということでアメリカ的なものへ反発を感じていました。

 私はニューエイジにはまる要素を兼ね備えていたわけです。

 60年代末、大学紛争などの反体制運動が盛んだったのは、多くの人が社会に対する不満や行き詰まりを感じていた時代だったからなのでしょう。科学の発達はバラ色の未来をもたらさないかもしれない。ものの豊かさが幸せを表わすとは限らない。未来に対するそんな不安を人々が持ち始めた時期だったと思います。
 そういう時代だからこそ、「物質主義から精神主義へ」「ものから心へ」というメッセージがうけたわけです。ニューエイジはそうした流れの中で生まれたものです。

 科学技術、近代西洋文明、人間中心主義に対する批判から出発しているニューエイジに私も魅力を感じました。けれども、よくよく考えてみると、どうもおかしいんじゃないかというところがあるわけです。論理の飛躍や矛盾が多いわけです。新しい時代に入るんだといっても、人類が変化したようには思えません。

 ニューエイジ系の本には、道(真理)を求める私(書き手)が指導者に出会い、さまざまな苦難を乗り越えて真理に到達するという、魂の成長物語というか、一種の教養小説というスタイルをとるものがたくさんあります。
 しかし現実には、サイババを例に挙げるまでもなく、多くの指導者は金や女性などの問題がある人、権力欲の強い人が多いようです。そんな俗世間のことには超越しているはずなのに。

 お釈迦さまからすでに二千五百年たっていますが、人間そのものがさほど進歩していないということは、そもそも人間は精神的に向上しないのではないでしょうか。

 あるいは、ガイア理論です。地球を一つの生命体と考える仮説です。たとえとしてならもっともな考えです。人間、動植物、環境、地球、お互い関係しながら存続しているわけですから。しかし、地球全体が一つの有機体であり、意識を持った生命体であると言われたら、ちょっとねえと一歩引いてしまいます。

 それとか、ニューエイジ一般に言えることですが、あまりにもお手軽で安易なところも気になります。美しい音楽を聴いたり、いい香りのするオイルでマッサージしたぐらいで癒される程度の問題なら、そう大した問題ではないわけでしょう。

 そういった感じで、ニューエイジ関係の本やスピリテュアル、あるいはチャネリングの本(さすがにこれは一読してアホらしくなる)などを読むと、結局は愛と平和がどうしたこうしたといったありきたりのお説教が説かれているにすぎなかったり、波動理論がどうのこうのというわけのわからない戯言だったりするわけで、すっかり白けてしまいました。

 死後についてもそうです。「かいま見た死後の世界」「前世療法」といった本には、正直なところ衝撃を受けました。こりゃ、もう宗教はいらんなと思ったほどです。
 しかしこれまた、おかしなところがいくらでも見つかります。ご都合主義としか言いようがありません。

 そうした本の一つが飯田史彦の「生きがいの創造」シリーズです。ある人から飯田史彦をどう思うかと聞かれ、読まなくてもだいたい中身の想像がついたのですが、一応読んでみますと、いろんな本からの寄せ集めにすぎず、やっぱりねという内容でした。
 ところがネットで検索してみると、批判的に紹介されているサイトがあまり見あたらない。それならということで、飯田史彦批判を書いてみました。

 ニューエイジ・精神世界のどこがおかしいのか、飯田史彦批判と重なる部分が多いし、また私自身整理できていませんが、思いつきをあれこれと書いてみたいと思います。