真宗大谷派 円光寺 本文へジャンプ

  ニューエイジ・スピリチュアル・精神世界 4

1,ニューエイジ・スピリチュアル・精神世界とは何か
2,私とニューエイジ
3,ニューエイジ・スピリチュアル・精神世界の問題点
4,ニューエイジの霊魂観
 
 ニューエイジの霊魂観は、階層的霊界観といのち・こころの実体化ということがあります。

  1,階層的霊界観

 ニューエイジでは、人間は生まれ変わりをくり返しながら霊的に成長し、霊性を完成させるのが目的です。しかし、試練に耐えられない場合は下の階層に落ちてしまうと説きます。つまり、霊性のレベルが階層となっているわけです。これを階層的霊界観とよぶことにします。

 幸福の科学の霊界観を例にして説明しましょう。(幸福の科学やオウム真理教といったニューエイジ系の新宗教は、教義にニューエイジの考えを取り入れており、格別目新しいことを言っているわけではありません)

「あの世とは、天国と地獄というような簡単なものではなくて、実はピラミッドみたいな階層構造になっているのです。いま私たちが住んでいるこの世界は三次元の世界。あの世は四次元から九次元まであって、九次元が最高で、最低は四次元。この四次元の一部が幽界といって、地獄があるのです」(米本和広『大川隆法の霊言』)



 十次元惑星意識は地球神。九次元宇宙界には大川隆法、キリスト、高橋信次らがいます。八次元如来界は三つに分かれていて、最上段階・太陽界(谷口雅春、老子、ヘーゲルら)、金剛界(アインシュタイン、福沢諭吉、ナポレオンら)、荒神(出口王仁三郎)、七次元菩薩界は四つに分かれていて、というふうになっているそうです。五次元霊界は精神界・善人界で、毛沢東、レーニン、清少納言がいて、地獄界にはマルクス、佐々木小次郎、ダーウィン、ニーチェらがいるそうです。

 この段階は将棋や囲碁で初段の人と九段の人と違っているというようなことではありません。それぞれの霊界は実体的に実在するそうです。霊性が上位の人は身体がこの世界にあっても、霊性はいろんな世界に行くことができます。しかし、低位の人は自分が今いる世界しか知りません。

 この霊界観について、島薗進は毎日新聞に次のようなコメントを述べています。
「大川主宰に会ったことがあり、内外の新しい宗教動向にくわしい東大宗教学研究室、島薗進助教授。霊的な神秘体験もさることながら、この宗教の教えが①現代的な霊界観にもとづく体系的宇宙観を持ち②新宗教の重要な要素だった『心なおし』の面もまた体系的に整理されている―の二点に着目し、こう言う。
『幸福の科学が相当大きな宇宙観、普遍倫理的な生き方を説いているのが魅力になっているように思える』」
(米本和広『大川隆法の霊言』)

 東大の先生が幸福の科学をほめているものですから、私も幸福の科学はまともなことを説いているのかと思ってしまいました。もっとも、大川隆法の本を一冊(『太陽の法』)読んで、それは間違いだと気づきましたが。

 ニューエイジ系の新宗教では、信者の霊性がどの段階にあるかによって信者のランク付けをします。ある人がどの段階にいるか、そのモノサシの一つが神秘体験です。どういう神秘体験をしたかによってその人のレベルが判断されます。オウム真理教ではこういうふうでした。

「体験したビジョンについても自己申請なのね。こういう色が見えました、こんな光でしたって」
「それも教祖に言うんじゃないもんね。僕なんか村井秀夫さんに言ったからね「赤いのが、まだ見えないんですが…。あっ、見えてきました。見えました!」。そうしたら、「おお、そうか、そうか」ってメモして「ハイ、キミ成就だよ」だって」
「自動車の免許みたいに、「こういう体験をしたから成就。解脱だ」ってヘンな意味づけを行った。そこに致命的な過ちがあると思います」
(カナリアの会編『オウムをやめた私たち』)


 階層的霊界観は個人の霊的成長と人類の進化とが結びつけられます。人類の進化にも段階があり、人類の進化は個人の霊的成長と関係があるというわけです。

 臨死体験を経験したキルデ医師が立花隆とのインタビューでこういうことを言っています。
「人類はいま新しい進化の段階に入ったのです。(略)いずれ全人類が、新しい次元へ、新しい世界へ移行していくことになるでしょう。臨死体験者は、この新しい人類進化の先がけなのです。臨死体験において、人はこの三次元世界を超越して、時間にも空間にも縛られない高次元の世界に入っていきました。死というものが存在するのはこの三次元世界だけで、その次元を抜けると死はないのです。肉体が存在するのは三次元世界だけです。人はそこを抜けると、肉体の束縛を脱して本来のエネルギー体に戻り、時間に縛られた世界から時間がない永遠の世界に入っていきます。その世界は、全て愛に満ち、調和しています。そこでは全ての真理が一瞬にして把握できます。究極の真理は、全ては一つであるということです。全ての存在が本当は一つの存在なのです。この全宇宙が一つなのです。そういう全一的な宇宙意識をみんな獲得するようになるのが進化の新しい段階なのです」(立花隆『臨死体験』)
 そして、「(宇宙人は)
高次の意識世界の住人」だとキルデ医師は言っています。

 ある寺院のHPを見ますと、地獄、餓鬼、畜生、修羅、天、人、菩薩、仏というふうに生物は進化していくんだと説かれていました。これも同じ発想です。
 こうした霊界観は大川隆法やキルデ医師の独創ではありません。どうやらブラヴァツキー夫人(1831~1891)が創設した神智学協会が言い出しっぺのようです。

「人類の進化の過程は七つの根幹人類に区分され、それぞれの根幹人類は特定の意識のパラダイム、あるいは意識のレヴェルを表わしている。現在の私たちは第五根幹人類のアーリア人であり、この時代に人間の意識が霊的な性質を獲得するに至る。第七根幹人類に至ると、現在の人間には想像もできないような至福を体験する」(レイチェル・ストーム『ニューエイジの歴史と現在』)

 ニューエイジで言う「進化」とは通常の進化の概念とは違います。人類の霊的成長という意味で進化という言葉が使われます。ニューエイジでは個人、そして人類の霊的完成が究極の目的ですから、人間中心の進化観なわけです。

 しかし、進化には一定の方向性はありませんし、個人の記憶、経験、獲得形質は遺伝しません。このように根拠のない理論にもとづく世界観はニューエイジの特徴の一つです。

  では、どのようにして進化するのでしょうか。
 アセンションという言葉がはやっているそうです。Wikipediaによると、
「ニューエイジ、新興宗教などにおいて、人間もしくは世界そのものが高次元の存在へと変化すること」
とあります。

「...But I wouldn't mind!!!」というブログの「アセンションは麻原彰晃のいないオウム真理教となるか」という記事にアセンションについての説明があります。
・地球は「アセンション」に向かっていて、2012年にピークを迎える。
・「アセンション」とは、次元上昇である。
・地球がアセンションすると、人類も肉体的・精神的に高次元(四次元説、五次元説あり)へとレベルアップする。
・人間が高次元へ進むと、テレポートできたり、テレパシー送ったり、思い描いたものを目の前に出したり、思考したことが即座に現実になったりする。
・人間がアセンションするためにはチャクラを高め、想念(物事の尺度を測る感覚らしい)を解放し、自らを浄化する必要がある。
・瞑想するとチャクラが上がりやすい。
・他の惑星は既にアセンションを完了して、高次元の世界に突入している。地球のアセンションは利己的な意識を持った人間のせいで遅れをとっている。
・チャクラの低い人間はアセンションの時に高次元に昇れず、地球を出て他の星で暮らすことになる。
・2000~2005年は「混乱の時」、2006~2010年は「浄化の時」であり、世界で起きている様々な社会現象は全てアセンションへのプロセスである(イラク戦争は「混乱の時」に始まったらしい)。
・地球はアセンションしないともう既に滅びる一歩手前。
こんな感じ。マヤ暦の日付が2012年の12月22日で終わってるのは、12月23日にアセンションが起こるかららしい。


 新しい時代の到来ということですから、まさにニューエイジ。1960年代に、アクエリアス(水瓶座)の時代が始まると言われました。魚座の時代に終わりを告げ、水瓶座という新しい時代(ニューエイジ)に入ろうとしているというわけです。アセンションはその二番煎じです。

 つけ加えますと、なぜ2012年に人類が高次元に進化するのか、それはフォトン・ベルトによってだそうです。Wikipediaによりますと、
「地球が次に完全突入するのは2012年12月23日で、その時には強力なフォトン(光子)によって、人類の遺伝子構造が変化し人類が進化するとも言われている」
「フォトン・ベルトとは、銀河系にあるとされている高エネルギーフォトン(光子)のドーナッツ状の帯。一部の疑似科学信仰者やオカルティストが存在と影響を主張するが、科学的根拠は皆無であり、フォトンベルト実在の証拠として上げられたデータや写真も捏造又は誤りが明らかである」

ということです。

 はなはだ楽観的な未来像ですが、「チャクラの低い人間はアセンションの時に高次元に昇れず、地球を出て他の星で暮らすことになる」とか「地球はアセンションしないともう既に滅びる一歩手前」というところがミソ。アセンションしなかった時の言いわけをちゃんと考えているわけです。しかも脅し付きですからね。
 amazonで「アセンション」や「2012」で検索したら、やたらめったら関連本があるのに驚きました。こういう嘘を垂れ流すことで儲けている人が大勢いるということです。

 人類の進化ということでは「百匹目のサル」ということも言われています。ニューエイジでは個人の意識レベルが向上し、レベルの向上した人間が一定数を超えると、人類全体が一挙に進化すると説きます。現在、スピリチュアルブームと言われ、多くの人がスピリチュアルなものに関心を持つようになったのは人類の意識が進化していく表れの一つだとされます。

「超能力や神秘体験を経験することによって自分を、心のレベルつまり霊的なステージを高い地平へ持っていく、その結果として世の中は変わっていくんだという考え」(芹沢俊介『オウム現象の解読』)

 意識レベルが向上する者が一定数誕生することで、人類全体が進化するということは、「百匹目のサル」という事実によって証明されていると主張されます。
 宮崎県の幸島に棲息するサルの一匹がイモを海で洗って食べるようになり、やがて他のサルたちもその行動を真似するようになった。同じ行動を取るサルの数がある数(百匹とは比喩的表現)を越えた時、その行動が群れ全体に広がり、さらには他の群れや幸島から遠く離れている大分県高崎山にいたサルの群れでも自然発生するようになった。(『
トンデモ超常現象99の真相』)

 百匹目のサルとは、このように「ある行動、考えなどが、ある一定数を超えると、接触のない同類の仲間にも伝播する」という現象を指すわけです。しかし、これは残念ながらライアル・ワトソンが創作し、船井幸雄が広めた全くのでたらめ、作り話です。つい信じたくなる魅力的な物語ではありますが。

 オウム真理教でも、悟りを得る者が誕生することで世の中が変わると説いていました。
「オウムの場合は、精神を変えれば社会が変わるという発想なんですよ」
「結局、僕が麻原さんについていけば大丈夫なんだって感じたのが、壮大な救済ドラマだったわけ。三万人の成就者が出れば、世の中の人たちを救済できるって言ってたけど、そこなんですよ」
(カナリアの会編『オウムをやめた私たち』)

 TM瞑想(超越瞑想)のマハリシ・マヘーシュもマハリシ効果なんてことを言っていますが、百匹目のサルと同じ理屈です。
「人口の一%が同時に超越瞑想を実践すれば、それによって生じた脳波が重なり合って干渉し合い、残りの九十九%の意識を変化させる」(レイチェル・ストーム『ニューエイジの歴史と現在』)

 このように、個人の変革が世界の変革をもたらすというのがニューエイジの信念です。ということで、ニューエイジのキャッチフレーズは次のようなものです。
「自分が変われば世界は変わる」
「意識が変われば世界も変わる」
「意識の進化が世界を変える」

 こういった霊界観は霊性のレベルによって人をランク付けし、霊性の高いエリートが一般大衆を導くというエリートの発想です。霊性を上昇することによって人類を進化させようという利他的な願いだったはずなのに、高い霊性を持つ少数のエリートが人類全体を引き上げるんだ、目覚めている私は世界を変えるエリートなんだ、という独善的な特権意識になってしまったわけです。(中には、少数のエリートのみが終末を生き残ると説く教えもあります)

「自己は、個を超えて、超人間的な全体に達する。はじめは少数の選ばれた人にのみ与えられる。つまり、エリートなのである。彼らは一般の人々を導かなければならない」(海野弘『世紀末シンドローム』)

 オウム真理教の元信者はこう語っています。
「一般の人をすごくバカにしていた」
「私も、一般の人に対して、自分は修行をしているから、あなたたちよりも上なんだって感じるようになってしまったし、みんなそうでした」
「「こーんな素晴らしい体験できた私というものは実は特別な使命を持って生まれてきた選ばれた民なんだ」という気持ちにさせてくれるのです」
(以上『オウムをやめた私たち』)


  2,実体的いのち・こころ観

 ニューエイジ、スピリチュアルは、いのち・こころを実体的なものとし、実体的いのち・こころの深層ではあらゆる存在とつながっていると考えます。(「いのち・こころ」としているのは、いのちとこころが同じ意味として使われていると思うからです)

「私たちが意識水準を深め、より深い立脚点に置き、そこから世界を眺めたとするならば、すべては違った様相を見せてくる」
「意識の水準が極限まで深められたその地点においては、もはやすべてのいのちは本来一つであるという、という“いのちのつながり”の相がありありと浮かび上がってくる」
(諸富祥彦「個とつながり トランスパーソナルをめぐって」「アンジャリ」8号)
 図で説明しましょう。



 意識の部分ではAさんとBさん、Cさん……と、一人ひとりはバラバラです。自分と他者は別の存在です。しかし、無意識の奥深い領域ではあらゆる存在はつながっています。ですから、AさんとBさん、Cさん……は一つにつながっているわけです。あらゆる存在は根底でつながっており、本来一つなのです。

 そして、存在の根底にあって、あらゆる存在がつながっている世界が本当の世界、リアルな世界と言われるものです。集団的無意識、梵、九識、道(タオ) 阿弥陀のいのちなどはこの本当の世界のことだとニューエイジでは説明します。

 いのち・こころがつながっている領域に至るには、臨死体験や瞑想、ドラッグなどによって意識が変容する必要があります。意識が表層から深層へと変化していく過程の中で世界が違って見え、以前は見えなかったり感じられなかったいろんなものが見えたり感じられたりするようになります。そうして、他の存在の意識と一体化します。そこで体験した世界こそリアルな世界であり、本当の世界なわけです。それに気づけば、楽に安心しておだやかに生きることができるようになるそうです。

 いのち・こころの根底ですべての存在がつながって、他者の意識と一体化しているわけですから、その領域に至れば他人が何をし、何を考えているかがわかることになります。
 オウム真理教の元信者は薬物によってトランス状態に入った時のことをこう言っています。
「私と麻原とのつながり―オウムではそれをパイプというのですが―がこのヴィジョンでは具体化されました。そこには他のさまざまな人びとがいて、その中心に明るく輝く麻原がいました。……私は底にいましたが、底の人びとは引き上げられていましたので、私も引き上げられました。それは抗しがたい力でした。私が引き上げられるにつれて、周りが少しずつ明るくなっていきました。「私はだれですか」と、私は麻原に問いました。引き上げられるにつれて、私は麻原と一つになりました。すると、彼と私をつないでいたすべての連鎖やきずなが突然消え失せて、私は光に取り巻かれていました。すべては明るい白になっていきました。
最後には幻覚が消えて何もなくなっていました。そこには無があったのです。私は肉体感覚を失い、意識だけがありました。すばらしい感覚でした。それから、奇妙なことに、私が麻原に聞きたかったことがありました。そして、問いのことを思い浮かべると、すぐに答えが返ってきました。そのとき、私は麻原だったんです」
(ロバート・J・リフトン『終末と救済の幻想』)

 さらに言いますと、今、生きている人たちとだけつながっているわけではありません。
「この世界の万物は、そのそもそものはじめから、常に、すでに、したがってまさにいま、ここにおいてもおなじように、“一つの同じいのちのはたらき”の異なるあらわれでしかなかったのだ」(諸富祥彦「個とつながり トランスパーソナルをめぐって」)

 現在生きている人たちばかりでなく、過去や未来の存在、すでに死んだ人、これから生まれる人ともつながっています。ですから、過去にどういうことがあり、未来がどうなるかまでわかることになります。

 丹波哲郎も同じようなことを言っています。
「霊界では、過去・現在・未来というのが全部現在だから。未来に起こることは全部現在として現れてくるんだ。過去も現在。だから予言ていうのが成立するんだよ。だからノストラダムスなんか当たり前の話なんだ」(『大俳優丹波哲郎』)

 生まれ変わり、そして過去世を知ることも同じ理屈です。死後の世界とは本当の世界のことです。死後の世界に生まれるとは、いのち・こころがつながっている本当の世界と一体化したということです。そうして、本当の世界から再びこの世界に生まれてくるわけです。
 Aさんが死んでBさんとして生まれ変わったとして、AさんとBさんは実体的につながっているのですから、Bさんが前世であるAさんのことを思いだしても不思議でも何でもないということになります。
 だったら、歴史の謎はすぐに解けるし、未解決の殺人事件なんてなくなって冤罪は起こりようがないことになると思うのですが。

 そして、本当の世界では、本来すべての存在が共有し、与えられていながら、知ることがなく、使うことのできなかった根源的エネルギーを実感できるようになります。それは無限のエネルギーということにニューエイジではなっています。超能力はそこから得られるということらしいです。

 こうした考えはグノーシス主義やインド思想の梵我一如と通じる部分があると思います。また、手塚治虫『火の鳥』の最後、火の鳥にすべての生命が一体化するのもそうです。あるいは日本の宗教観では、死んだら霊魂となり、霊魂が次第に清まってやがて先祖霊と一体化し、さらに清まると氏神になります。これも同じ発想ではないでしょうか。

仏教は梵や我といった実体を否定します。ですから、いのち・こころを実体化したら仏教ではなくなります。しかし、こうした実体的いのち・こころ観を説く宗派もあります。

 日蓮宗に霊断師会というのがあります。霊断師に相談するとすべての悩み事に答えが与えられるそうです。どうしてそういうことができるのでしょうか。それは九識霊断によってです。

「我が日蓮宗霊断師会には創祖・高佐日煌聖人の創始による、九識霊断法という秘法があります。
 これは日蓮大聖人の遺された有り難い秘法で、法華経の信仰を具現化したものです。
レーダーが霧や雲を透して物の位置を正確に捉えるように、我々の運命が手にとるようにわかります。
 九識霊断法とは、南無妙法蓮華経のお題目の神秘と、人間が誰でも持っている九識によって我々の運命を予知する秘法です。この霊断により、困ったとき、迷ったとき、決めかねているときなど、人生のいろいろな場面で遭遇する運命の真相を知り、その運命を好転させることができるのです」

 唯識では六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)、そして深層に末那識、阿頼耶識の八識を立てますが、天台宗や日蓮宗ではそのさらに下に阿摩羅識(仏性)を加えて九識とします。
 九識は心の一番奥にあってすべての人に通じていますから、九識に至れば他の人の心を知ることができるし、過去や未来もすべて明らかになるということだと思います。自分が死ぬ日時までわかるそうです。


 よく「つながりを生きる」とか「見えない世界があるんだ」と言われます。「つながり」や「見えない世界」が実体的にあるということではありません。「見えない世界」とは、私たちはさまざまなつながりや関わり(縁起)の中で生きているのに、そのつながりや関わりが見えていないということを言っています。多くの人の支えがあってこそ私は生きていくことができるわけですが、そのことに気づかずにいることを指摘しているわけです。

 あるいは、金子みすゞの「大漁」という詩です。
    大漁
   朝焼小焼だ 大漁だ
   大羽鰮の 大漁だ
   浜は祭りの ようだけど
   海のなかでは 何万の
   鰮のとむらい するだろう

 大漁を喜んでいる私たちにはいわしの悲しみが見えていません。「見えない世界」とはそういうことです。

 ところが見えない世界を実体化し、見えない世界こそが本当の世界なんだと考えると、現実の世界、現実の私を軽視することになります。なぜなら、実体的いのち・こころの世界では誰とも代わることのできないかけがえのない存在としての私はいないからです。私が死んでも存在の根底に一体化したり、別の人として生まれ変わるならば、私の死は悲しむべきことではなくなりますから、今の生をおろそかに考えてしまうことになります

 連合赤軍の弁護人であり、松本サリン事件では被害者の弁護人となった伊東良徳弁護士は、死刑とポアは、生きていてもどうせ悪いことをするんだからさっさと殺せ、ということでは同じ理屈だと言っています。
「特別予防、すなわちその個人が再犯の恐れがあるということで社会から隔離するんだというのがいわゆる近代学派の刑罰の根拠です。そうなってくると、特別予防 の立場からの死刑の考え方は、まさにこれから悪いことをする恐れのあるやつだから先に殺してしまえという考え方になるわけです。それはむしろ行政が現に やっていることであり、オウム真理教の考え方と共通している部分があるわけです」(パトリシア・G・スタインホフ、伊東良徳『連合赤軍とオウム真理教』)

 ポアとは生まれ変わりが前提です。ある人がこれから悪いことをするのがわかっていて、悪いことをする前にその人を殺すことで罪を作るのを防ぐ、だからその人のためには慈悲になる、そして殺された人は生まれ変わってやり直しをすればいい、という考えです。

 オウム真理教の元信者たちはこう語っています。
「論理的には簡単なんですよ。もし誰かを殺したとしても、その相手を引き上げれば、その人はこのまま生きているよりは幸福なんです。だからそのへん(の道筋)は理解できます。ただ輪廻転生を本当に見極める能力のない人がそんなことをやってはいけないと、私は思います」(村上春樹『約束された場所で』)

「サ リンの犠牲者たちは、高度に進化した霊的存在のために殺されたのだから、彼らは功徳を施されるでしょう。(略)霊的に低いレベルの人びとは、価値のない生 活を送っていて、他の人びとに迷惑をかけるような生活を続けます。ある点で、彼らはとても苦しんだかもしれませんが、しかし、彼らは苦しみの彼方に行って しまい、霊性を高めて、彼ら自身が経験した苦しみの代わりに、(来世で)他の人びとにより大きな徳をもたらすことができるでしょう」(ロバート・J・リフトン『終末と救済の幻想』)

 死刑賛成論の中には死後の生を前提にしたものがあります。
私がブログに書いた死刑反対論に対し、あるブログでこういう批判がありました。
「お坊さんでしたら"死刑回避"っていう"現世利益"にこだわらず、むしろ来世での救い、死を受け入れて浄土への往生を諭すのがお仕事なんじゃないのかしら?っと思うわけで。現世利益にこだわるのは学会さんだと思っていました。むしろ罪を悔いて刑に服し救済を願う。そのときに"南無阿弥陀仏"と唱えることで、阿弥陀様が浄土に連れていってくださるのではって。そう諭すことが真宗の僧侶の仕事であって、死刑・・・厳罰化に反対するのが本来の仕事ではないと、感じたりとか。なんか、ちょっと・・・ずれてる気がして」

 死んでも死なないのだから、おとなしく死ぬように説得するのが坊さんの仕事というわけです。これも実体的な死後の生を前提にして死刑廃止論に反対しているわけです。その点ではポアと同じように現実の生を軽視しています。

 仏教では実体的いのち・心を否定しているとは言っても、実体的に立てたほうが理解しやすいので、阿弥陀仏や浄土を実体的に考える人はいます。そうなると、私と阿弥陀仏・浄土との関係を実体的いのち・こころ観で解釈することも可能です。
 実体的に浄土を考えるなら、死んだら浄土に往生するんだからおとなしく死刑になりなさいということは成り立つでしょう。真宗門徒でもこの死刑賛成論に同意する人はいるでそうし、教誨師は死刑囚に「死んだら浄土に生まれるんだから、おとなしく死んでいきなさい」なんてことを言ってきたそうです。

無実にもかかわらず死刑囚とされた免田栄さんは、浄土真宗の教誨師がこういうことを言ったと書かれています。
「毎週、教誨師が来て説かれる説法は因果律で、前世において死刑囚になる因を持っていたから現世において死刑囚になっている、故にそのままの姿で処刑されねば救われない、とまことしやかに説かれては、宗教に弱い臆病な者は確定判決に不服があっても再審をあきらめるしかない」(免田栄『免田栄 獄中ノート

 ハンセン病の方にも同じ法話をしてきました。元患者の方はこう話されてました。
「昔のお説教の時に、自分たちが病気になったのは業病なんだ、前世に悪いことをしたからその祟りだとか、「あなたたちはこういう病気になったのだからあきらめなさい」というような話を聞いたことがある」

 前世の報いだというわけで、これはカルマの法則です。カルマの法則は前世の私と現世の私とが実体的につながっているという前提で成り立つ論理です。

 前世のカルマなんて誰もわからないのだから、いくらでも勝手なことが言えます。たとえば、江原啓之は佐藤愛子との対談でこんなことを言っています。


「例えば、自分は殺されたとします。自分が殺されることができるというのは、人がいるからだと。
 殺してくれる人がいるから自分が殺されることができるんだと。だから、その人に対しては感謝しなきゃいけないと。それで、自分を殺すということのために、その人はその分カルマを背負ってくれる。
 自分は殺されたことにより、殺された心の痛みを理解できて、二度と人を殺さない魂になれる。だから、その人のおかげで自分はそれだけ向上できるんだから、そして自分のことでカルマを背負ってくださるから、その人を愛さなきゃいけない。
 ですから、世界人類みな愛さなきゃいけないにつながってくる」
(佐藤愛子・江原啓之『あの世の話』)

 では、江原啓之や佐藤愛子は強姦された人に対して、「強姦してくれた人に感謝しなさい」とか、「カルマがなくなったのだから喜びなさい」と諭すのでしょうか。こういう発言をする人が女性に人気があるというのは信じられません。

 死刑やポアや殺人を肯定する論理は実体的な死後の世界や浄土、生まれ変わり、ニューエイジやスピリチュアル的な考えと結びついているわけです。

 仏教では、生まれる前はどうだったか、死んだらどうなるか、といったことは説きません。今、自分の抱えている問題を解決しなさいと教えます。
 よく「今の人は死んだらおしまいだと思っている。だから、今が楽しければいいと考えている」と言う人がいます。でも、死んだらおしまいだからと好き勝手に生きている人はほとんどいないのではないでしょうか。
 ワーキングプアが問題になっているのは、劣悪な労働条件、低賃金であるにもかかわらず真面目に働く人がいるからこそ問題になっているからです。この人たちは「いいところに行けますよ」というアメや、「悪いカルマを作ることになるぞ」という脅しのせいで真面目に働いているわけでもないでしょう。
 死んだらおしまいだと考えている人は今さえ楽しければいいと思っている、死後の世界や生まれ変わりがあると信じたら今を大切に生きるようになる、という決めつけは浅薄だと思います。


いつまでも自分が存在し続けるかのごとくに固執している見方の中には、ほんとうに生を愛するということは、生まれてこないのです。(宮城顗『正信念仏偈講義』)