真宗大谷派 円光寺 本文へジャンプ

死刑制度

団藤重光『死刑廃止論』有斐閣


スコット・トゥロー『極刑 死刑をめぐる一法律家の思索』岩波書店

森達也『死刑』朝日出版社

澤地和夫『死刑囚物語彩流社

村野薫『死刑はこうして執行される』講談社文庫
死刑問題
死刑執行人
 
 死刑存置論と廃止論の主な論点をあげてみます。
 死刑賛成の理由
・悪いことをした報いを受けるべき
・被害者感情、報復感情
・犯罪の抑止効果
・再犯防止
・世論が死刑制度を支持している

 死刑反対の理由
・死刑は残酷な刑罰である
・国家でも命を奪うべきでない
・冤罪、誤判の可能性
・判決が不公平に適用される
・更生の可能性
・犯罪の抑止効果がない
・生きて償うべきである
・死刑執行に関わる刑務官の苦しみ

 これらの点について考えていきたいと思います。


  1,死刑と世論

 国連の報告によると、2008年7月1日現在、死刑を廃止もしくは事実上廃止した国・地域は141で、うち93は法律上も完全に廃止しています。死刑を維持している国・地域は、日本やアメリカを含む56。93年には事実上廃止が99(うち完全廃止55)、死刑維持が94でしたが、15年間で廃止派が約4割急増しています。

 先進国で死刑制度があるのはアメリカと日本だけです。しかし、アメリカでは1972年に連邦最高裁が「死刑は憲法違反」との判断を示し、各州が死刑を廃止したことがあります。1976年に最高裁が先の判断を覆したため、死刑を復活させる州が相次ぎ、現在、州法で死刑を規定しているのは50のうち37州で、そのうち21州では行政が死刑を凍結しています。つまり、死刑大国のアメリカでも、死刑が執行されている州は少数派なのです。

 ところが、日本ではなぜか死刑判決や死刑の執行が増え続けています。2006年の死刑執行国は日本を含めて25ヵ国です。

 少年法を廃止し、未成年も大人と同じ刑罰を科すべきだ、つまり18歳未満にも死刑を適用できるよう刑法を改正にしろ、と主張する人たちがいます。
 2006年に処刑された少年死刑囚(18歳未満)は、イラン4人、パキスタン1人です。世界的には少年を死刑にすることはもちろん、死刑自体が野蛮だと考えられているのです。

 村野薫さんはこう書いています。
「いまや世界から孤立しても、というか、アメリカに同伴さえしていればそれで世界のスタンダードとでもいうのか、積極的に死刑という制度をもり立てていこうというところまできているというのが、近年の日本の政治的立場なのである」(『死刑はこうして執行される』)

 しかし、世界の流れは死刑廃止だといっても、日本では世論が死刑制度を支持しているから死刑を存続すべきだと主張されます。本当に世論は死刑制度を支持しているのでしょうか。

 政府による世論調査(2004年実施)では、死刑制度の存廃についてこういう結果が出ています。
死刑制度に関して、このような意見がありますが、あなたはどちらの意見に賛成ですか
(ア)どんな場合でも死刑は廃止すべきである(6・0%)
(イ)場合によっては死刑もやむを得ない(81・4%)
  わからない・一概に言えない(12・5%)


 この結果から、日本では圧倒的多数が死刑に賛成していると言われています。しかし、この設問はおかしいですね。「死刑はなんかいやだな」と漠然と感じている人でも、「どんな場合でも廃止か」と聞かれたら、「場合によっては死刑もやむを得ない」と答えるのではないでしょうか。

「場合によっては死刑もやむを得ない」とする人(1668人)に、さらにこういう質問がされています。
将来も死刑を廃止しない方がよいと思いますか、それとも、状況が変われば、将来的には、死刑を廃止してもよいと思いますか。
(ア)将来も死刑を廃止しない(61・7%)
(イ)状況が変われば、将来的には、死刑を廃止してもよい(31・8%)
  わからない(6・5%)


 「場合によっては死刑もやむを得ない」と考える人(81・4%)の中で、「将来も死刑を廃止しない」と考える人は61・7%、つまり全体の50・2%です。
 「状況が変われば、将来的には、死刑を廃止してもよい」と考える人は全体の25・9%、「今は死刑もやむを得ないと思うが、将来的にどうしたらいいかはわからない」人は5・3%です。

 まとめてみると、「死刑制度の存廃についてどう考えますか」という質問の結果はこうなります。
1,どんな場合でも死刑は廃止すべきである(6・0%)
2,状況が変われば死刑を廃止してもいい(25・9%)
3,場合によっては死刑もやむを得ないが、将来どうしたらいいかはわからない( 5・3%)
4,どんな場合でも死刑は存続すべきである(50・2%)
5,わからない(12・5%)

 つまり、「死刑は絶対賛成。廃止すべきではない」と考える人は約半数。それに対して、消極的死刑廃止も含めて「死刑を廃止してもいい」と考える人は3割ということになります。今は死刑に賛成だが、制度や状況が変われば死刑を廃止すべきだと考える人がかなりいるのです。

 そして、どうして死刑に賛成なのか、その理由として以下にあげられています。
「場合によっては死刑もやむを得ない」という意見に賛成の理由はどのようなことですか。この中から、あなたの考えに近いものをいくつでもあげてください。
(ア)凶悪な犯罪は命をもって償うべきだ(54・7%)
(イ)死刑を廃止すれば、被害を受けた人やその家族の気持ちがおさまらない(50・7%)
(ウ)死刑を廃止すれば、凶悪な犯罪が増える(53・3%)
(エ)凶悪な犯罪を犯す人は生かしておくと、また同じような犯罪を犯す危険がある(45・0%


 (ウ)と(エ)は誤解です。最近は凶悪犯罪が増えている、治安が悪化している、だからもっと厳しくしないと、と思っている人は多く、そうした人は死刑に賛成だと思います。しかし、実際は犯罪は減っているということを知れば、考えは変わるかもしれません。

 ですから、「国民の大多数が死刑に賛成している。だから死刑制度を国民は支持している」という政府の主張は嘘です。世論の操作を行なっていると思います。


  2,命の大切さ、尊厳性

 今の日本、死刑制度がなかったら社会の秩序が保てない国なのでしょうか。とてもそうは思えません。
 日本は世界的に見て犯罪は少なく、治安もいいし、社会は安定しています。死にたいからというので人を殺す事件が起きているわけですから、死刑制度があることによって、かえって命を粗末にすることになっているのではないかと思います。

 人権の基本は命の尊厳を守ることです。どんな人の命もかけがえのないものですから、何よりも尊重されねばなりません。それはこの世に生を受けたすべての人の権利です。

 ところが、死刑は人間の生きる権利を奪います。死刑囚の澤地和夫さんは
「〝死刑問題〟を考えると、「犯人の死刑は当然」という世間一般の気持と、自分の目的実現のためには、もはや人を殺すこともしかたがないとする犯人の気持とは、その根本においてどこか心情的につながっているように思われます」『死刑囚物語』)と書いています。
 「死刑囚が何を言うか」と思う人もいるでしょう。しかし、場合によっては人の命を奪うのもやむを得ないと考えることでは、殺人と死刑は同じです。

「国民に対して生命の尊重を求めながら、法がみずから人の生命を奪うのを認めるということでは、世の中に対する示しがつかないのではないでしょうか」(団藤重光『死刑廃止論』)

 どのような理由があろうとも人の命を奪う行為は、命の尊厳性を軽んじるものです。その意味で、死刑や殺人、そして戦争はいずれも命を粗末に扱うことです。死んでもかまわない人はいません。たとえ殺人犯や敵国民であろうとも。

 戦後しばらくは殺人事件が多かったのは戦争の影響が大きいそうです。昭和31年の死刑廃止法案の提出理由にこういうことが書かれています。
「現在のわが国においては、過去の戦争の影響により人命尊重の観念が甚しく低下し、これが殺人などの犯罪の増加の原因となっていると考えられる。ここにおいて国は進んで人命尊重の観念を昂揚すべきである」

 現在の日本では殺人事件が少なく、特に注目すべきは、諸外国では殺人を犯すのは20代が多いのに、日本では10代、20代による殺人が他の年代に比べて低いことです。
 外国の研究者が調べた結論は、日本は徴兵制がなく、戦後60年間、戦争していないからだそうです。

 戦場から帰ってきた人の心が荒んでいることは、ベトナム帰還兵やイラク帰還兵などの例をあげるまでもありません。そして、帰還兵の家族も影響を受けます。
 命の大切さという感覚を失うと、自分の命や他人の命を軽く考え、平気で命を奪うようになります。死刑にしても人の命を奪うわけですから、他人の命を粗末に扱うことでは殺人や戦争と同じです。


  3,死刑は残酷な刑罰

 EUは「死刑が残酷で非人間的な刑罰であり、生きる権利の侵害であると考えている」という声明を出しています。アメリカでも致死薬物による死刑は絞首刑や銃殺刑、電気処刑より人道的であるとの理由から37州で採用されていますが、薬物の注射で処刑する方法は憲法が禁止する「残酷かつ異常な刑罰」だとして訴訟が起こされました。

 アメリカでは薬物注射よりも非人道的とされる絞首刑は、実際にはどのように行われるのでしょうか。村野薫『死刑はこうして執行される』に執行の場面がこのように書かれてあります。

「落下した死刑囚はガクンと一度S字状に突っ伏すと、今度は縄がねじれるがままにギーギーと滑車をきしませて、きりきりまいしつづけるそうだ。落下時の頸部にかかる力は相当なもので、喉頭軟骨・舌骨、ひどい場合は頸部脊椎の骨折をもきたす。首まわりの筋肉も広範囲にわたって断裂、放っておくと肉がそがれたりするので、下で待ちかまえていた刑務官二人が適当なところでその揺れを止める。
しかし、それでも吊り落とされてから一分から一分半ぐらいは烈しい痙攣が「ウーウー」という呻き声とともにつづく。顔はひどい渋面、蒼白。首は半ば胴体から裂きはなたれて異常に長くみえる。舌は変形して目は重圧のため突出。口、鼻、耳などからも出血―と、正常な神経の持ち主ならまずは直視しかねる執行風景である。
が、死刑はこれで終わったというわけではない。意識はないものの、まだ死に絶えていないからである。この間、頸骨が折れておらず、手当さえよければ、人間はまだ十分生き返るはずだともいうが、もちろんそんなことがなされるわけもない。死刑囚は死んでこそ死刑囚なのだ。
やがて身体の引きつりも間遠になりだしたころ、死刑囚は手錠・目隠しをはじめて解かれる。医師によって最後の生命を計測されんがためである。地階に降りた医師はまず顔を検しながら脈搏を計る。そして脈搏が弱くなると今度は胸を開き、聴診器で心音を聴く。こうした動作が一分、二分、三分……と、沈黙のなかで続くが、医師が「ステルベン」と告げたときが、すべてが終わりを告げる合図である」


2011年、パチンコ店放火殺人事件で、絞首刑は残虐で違憲と主張する弁護側の証人として元最高検検事の土本武司筑波大学名誉教授の証言しました。
岩瀬達哉『裁判官も人間である』からの引用です。
「絞首刑が惨たらしいとはいえないとは実態を知らな過ぎる指摘というほかない。(略)
つい十数分前まで自分の足で歩いていた人間が、両手・両足を縛られ、顔は覆面をさせられ、刑務官のハンドル操作により踏み板が開落するや地下部分に宙吊りになり、首を起点にして身体がゆらゆらと揺れる。その際、血を吐いたり失禁をしたりし、やがてその宙吊り状態のままで、死の断末魔のけいれん状態を呈する――それはまさに見るに耐えないものであり、人間の尊厳を害することこれに過ぐるものはないということを痛感させられるシーンである。
(『判例時報』2143号)」

 執行後の遺体はどう処理されるのでしょうか。
「刑務官の指導のもと、服役中の受刑者たちで編成された〝処理班〟の手ですぐさま処置される。
まず、首に食い込んだ絞縄をはずし、鼻血や糞や小便もきれいにふいて、飛び出した舌は口のなかに納める。そして着衣を着せ替え、首に残る縄目の痕を包帯で隠して―と書けば簡単な作業のようだが、いってみれば殺害死体、非業の死であることに変わりはない。絞縄のかかりぐあいひとつで耳がちぎれることもあれば、眼球もこぼれ落ちる。とりわけ最後まで騒ぎ、喚き、暴れまくりつつ逝った遺体ほど醜い損傷を残しているという」


 日本国憲法でも第36条に「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」とあります。しかし、死刑は合憲とした判決が昭和23年が出ています。もっとも、60年も前の話であり、社会情勢は変化しているのですから、「死刑は残酷な刑罰だから憲法違反ではないか」という議論がなされてもいいと思います。

 ところが、宮崎勤死刑囚が
「踏み板が外されて落下する最中は恐怖のどん底に陥れられる。人権の軽視になる」
「法律は残虐な刑罰を禁じている。薬で意識を失わせ、心臓を停止させる方法にしなければいけない」

と書いた手紙が公開されると、何人もの人を殺した奴が「死刑は残酷だ」と主張するのは自分勝手だと非難されました。しかし、残酷な犯罪を犯した者を残酷に殺してもかまわないと考えるのは、殺人を犯すのと同じ発想です。


  4,取調

  警察による厳正な捜査がなされ、被疑者の適正な取調べが行われ、そして公正な裁判が行われているのでしょうか。
 亀井静香さんは森達也さんのインタビューにこう答えています。
「警察官僚出身だからこそ、冤罪がいかに多いかを私は知っています。私自身がね、誤逮捕しかけたことが過去に二回あるんです。つまり冤罪です。起訴されてからも裁判官は検面調書(検察官が取った調書)を何よりも優先する。目の前で被告人が『検事から誘導されて言ったんです』と主張しても聞く耳を持たない。あれはひどい」(森達也『死刑』)

 日本では取り調べの際に拷問はなされていないと思いたいですが、はたしてどうなのでしょうか。
 日本では逮捕されてもすぐに弁護士がつくわけではなく、代用監獄制度といって、逮捕されると最長23日間も留置場に入って取り調べを受けることになります。そのため、自白が強要されてしまいがちです。

 警視庁に22年間勤務した死刑囚の澤地和夫さんはこう書いています。
「警視庁の現職にあった身での私の体験からして、「犯人の自白」が必ずしも信用できるものとは言えないことを感じています」
「警察部内のことを知る一人として正直なことを申せば、特に捜査関係でいえば、かなりいい加減な点が多々あったことだけは事実です。たとえば、調書の最後に本人の署名と指印を求めた、いわゆる「白紙調書」がまかりとおっていて、そこに担当刑事の意図する文面が、その「白紙調書」にうまっていくのです。
 そして、警察の調書のことや後々の裁判のことについて何も知らない容疑者は、「悪いようにしない、オレを信用しろ…」などと優しげな刑事に言われると、ついそれを信じてしまうのです」
(『死刑囚物語』)

 無実の罪で死刑判決を受けた袴田巌さんが昭和52年に提出した上申趣意補充書にはこう書かれています。
「調官等は私の肉体の弱点を突くことによって、精神を完全に破壊するばかりか、当時、私は鼻で息ができないのに口をちゃんと閉じろ、背を伸ばせといい、刑事の一人が後に居て頭や背中を殴ったり、拳で突くという拷問が連日連夜に渡って行われたのであります。この過酷な暴行を続けるに当り、警察官の体力にして三、四時間しか持たなかった程である。その為、警察は調官を三組から四組に構成して残忍な暴行を継続したのである。調官は四組に別れているのであるか、長い組でも五、六時間の暴行をすれば、後は休める。然し、被疑者は右の全ての時間を、いわば休みなしである」
 45通の自白調書のうち、44通は任意ではなく強制されたとして証拠採用されなかったのですから、袴田さんの言っていることは嘘とは思えません。

 林眞須美『死刑判決は『シルエット・ロマンス』を聴きながら』は家族との書簡をまとめたものです。夫への手紙で、警察での取り調べについてこう書いています。
「東警察では、13~15時間の取調べが毎日続き、私は座っているのが仕事だと思っていた。取調べは初日からとてもきつく、三畳もない狭い白い壁の中で男子三~四人に机と私で。あなたよりも私の方がはるかにきつかったと思うよ。
 机はけるし、イスはけとばすし、大きな声でどなるし、一人の刑事は私の真横、一人はまん前、一~二人は書記と、換気扇も窓もないへやでタバコを一日三箱以上すうし、灰皿はひっくり返す。一人の刑事は、ぐうの手で殴ってくるし、実際取り調べを受けたものでないとわからないよ。私は、もう三日目には頭がへんになり、目に幻覚というものが見えてきて、気が狂いそうで三日目には調書も作りかけた。そしたら、一人の刑事が〝やりました〟の五文字を書けといって、座っている私の左腕を思いっきり殴ってきた。私は殴られた時目が覚め、立って右手をぐうにして、思いっきり刑事の左のほっぺたを殴り返してやりました。向いにいてた他の刑事は、殴り返したことにとても驚いていた。
 私を殴った刑事は、私に殴られたことで刑事のプライドがとても傷ついたことを理由に、はげしくあばれて、そこらをけとばして出ていきました。私のことを「殺しちゃろか」というので、「根性あるなら、今ここで殺せ」といってやりました。他の二人の刑事は、私に〝ええ根性した女やなあ〟といってきたけれど、私は四人の子供がいたからとても強く三ヶ月おれました。最後の方にはむりやりボールペンで〝やりました〟と書かされそうになったことも何度も何度もあった。私に殴られた刑事は、大泣きで〝やりました〟と書いてくれと何度も頼んできました」

 そして、こうも書いています。
「弁護士さんは有罪死刑と決め付けてるからスカンのよ。最初からね。私の家族六人以外にないというし。ケイサツでも私がしてないと言えば「ケンジというのか。ケンジは歩けやんのや。子供にさすんか」、子供にさすんなら私に早く認めろ。こればっかり。弁護士も林家の六人というのが裁判上、考えるのか当り前というんよ。腹立つやろ」

 2007年に起きた、夫を殺して殺害して遺体を切断、遺棄した事件の一審で、検察は三橋歌織被告の自白調書を撤回しています。
「歌織被告は被告人質問で「警察官や検察官の取り調べで、怒鳴られたり脅されたりして、不本意な調書を作られた」と述べ、供述が任意ではなかったと主張。取り調べの際に検察官から「風俗で働いていた。犬畜生と同じだ。おまえの事件なんて、どうせ男とカネなんだろ」などとののしられたと述べた。検察官の作成した調書の内容を否定し続けると、以前中絶した時の胎児のエコー写真を机の上に並べられて「法廷でこの写真を出していいのかと脅された」と訴えた」(中日新聞)

 このように、しばしば取り調べでは自白が強要されているようです。
 たいていの人は毎日取り調べを受けていたら、何もしていなくても言われるままに自白することになるのでしょう。
 こうやって冤罪(事実誤認)が生じるわけです。富山の婦女暴行事件や鹿児島の選挙違反事件といった冤罪は氷山の一角です。


  5,冤罪と誤判

 では、裁判ではちゃんと審理がなされているのでしょうか。
 東京大学名誉教授であり、最高裁判事だった団藤重光さんは死刑廃止論者です。裁判官が誤った判決を下す誤判の可能性が否定できない、だから死刑は廃止すべきだと、団藤重光さんは主張しています。
「万が一にも誤判によって無実の人が処刑されるようなことがあれば、それは言語に絶する不正義であって、それはあらゆる死刑=正義論を根底からくつがえす。しかも、裁判が神ならぬ人間の営みである以上は、誤判を絶無にするということは性質上不可能である。死刑制度が存在する以上は、必然的に誤判による処刑の可能性が内在しているのである」(団藤重光『死刑廃止論』)

 「刑事補償法」という法律があります。その中に、
「第四条 3 死刑の執行による補償においては、三千万円以内で裁判所の相当と認める額の補償金を交付する。ただし、本人の死亡によつて生じた財産上の損失額が証明された場合には、補償金の額は、その損失額に三千万円を加算した額の範囲内とする」
とあります。死刑によって処刑されたあと無実だとわかった人に対しては国が補償をします、という条文です。つまり、無罪なのに処刑される可能性があることを国は認めていることになります。

 罪を認めている者の場合、冤罪ということはあり得ないのだから、死刑にしてもかまわないと言う人がいます。冤罪は厳密な意味での法律用語ではなく、法律用語では「事実誤認」というそうです。たとえば殺そうと思ったわけではないのに殺意があると認定されて傷害致死が殺人に、あるいは窃盗と殺人が強盗殺人とされるのも事実誤認、つまり冤罪です。

 死刑囚だった免田栄さんは、「獄中34年の間に、約70人の死刑の執行を見送り、そのうち5人は確実に無実であり、また判決に事実誤認がなければ死刑にならなかったと思われる人が20人はいた」(『免田栄獄中ノート』)と語っています。
 名張毒ぶどう酒事件、袴田事件、三崎事件などは死刑が確定していますが、無実だろうと言われています。
 アメリカでは1973年から2004年にかけて、死刑確定後に無実が証明されて釈放された人は25州で117人いたそうです。

 だったら、現行犯で逮捕されたような場合は死刑にして、冤罪の可能性がある時には無期懲役にすればいいではないか、という意見もあるでしょう。しかし、そうはいきません。
「事実だとすれば死刑以外にないというような極度に悪い情状の場合に、事実認定に一抹の不安があるという理由で死刑を無期懲役にするという理屈は、現行法上では成立しません」(団藤重光『死刑廃止論』)

 検事をやめて弁護士になったベストセラー作家のスコット・トゥローは『極刑 死刑をめぐる一法律家の思索』で、冤罪が起こる理由をこう説明しています。
「異常で大変不快な犯罪が、怒りや特に憤激といった、人々の最も高ぶった感情を引き出し、その結果、捜査官や検察官、裁判官、そして陪審員の理性的な考察を困難にしてしまっているのである」
「極悪事件が引き起こす怒りと悲しみの激しい熱情が、我々の判断を狂わせてしまうことは避けられず、それは常に無実の者に対する罠ともなる」


・警察の見込み捜査の問題
「こういった事件を解決しようとする途方もない重圧のために、警察はしばしば、最初に得た直観にとらわれてしまう」

・死刑回避のために罪を認める被告の問題
「死刑裁判において検察官は、被告人に対して大変有利な立場にいるのだ。死刑判決を免れようとする被告人は、有罪を認める場合がほとんどである。死刑に固有のリスクとは、生死に直面した無実の者が有罪を認めてしまう可能性にある」

・陪審員の選び方の問題
「裁判になった場合、法は、死刑判決を下すことを拒否すると述べた者を、陪審員から外すよう定めている」
「その結果として、陪審員候補者にはより多くの死刑賛成派がいる傾向になる」


・陪審員の問題
「法執行機関の専門家が、重大な犯罪に関してこのように情緒的に反応してしまうのであれば、陪審員席に連なる素人に、より適切な対応を期待するのは無謀といえよう」
「私は、恐ろしい犯罪で起訴された被告人に対する挙証責任を被告人に負わせてしまう、陪審員の好ましくない傾向を見て取った」
「陪審は極悪非道な人物をわれわれの社会に野放しにする危険は冒したくないため、常に合理的な疑いの余地のない証拠を求めるとは限らないのである」


・事実の解明よりも出世を第一に考える裁判官の存在

 スコット・トゥローは「被告人席に座っていればマザー・テレサでさえも有罪の危険にさらされていたかもしれない」とまで言っています。

 死刑囚だった免田栄さんは、
「獄中34年の間に、約70人の死刑の執行を見送り、そのうち5人は確実に無実であり、また判決に事実誤認がなければ死刑にならなかったと思われる人が20人はいた」(『免田栄獄中ノート』)
と語っています。
 アメリカでは1973年から2005年にかけて、死刑確定後に無実が証明されて釈放された人は25州で122人いるそうです。

 冤罪なのに処刑される人がいるとしても、社会秩序、道徳を守るためには仕方ないという意見もあります。それに対して元警察官僚だった亀井静香さんはこう反論しています。
「人によっては、そんなことはほんの何万分の一の確率だから、社会防衛上しかたがないなどと言いますが、無実で処刑される人にとっては、何万分の一じゃなく100パーセントの話なのです。そういうことを同じ人間がやっていいなんて、ゆるされるべきことではありません。
 そんな「何万分の一だから、社会防衛のためだから、いいじゃないか」というような感覚は、今、世の中を覆っている「自分さえよければいい」ということと共通する面があると思います。自分が安全であるために一つのリスクはやむをえないというような感覚です」
(森達也『死刑』)


  6,死刑は犯罪抑止効果があるか

 刑罰が甘いと犯罪が増える、犯罪を減らすためには厳しく罰すべきだ、と考える人は多いと思います。しかし、死刑に限らず、重罰化は犯罪抑止にはなりません。
(2004年に開催されたアメリカ犯罪学会では)重罰化には統計的に有意な犯罪抑止効果はなく、刑罰の確実性についても抑止効果は期待できないという結果が報告されていた」(浜井浩一『犯罪統計入門』)
厳罰化に犯罪抑止効果のないことは、最先端の犯罪学では常識になりつつある。
 厳罰化によって職や家族を失い、ホームレスや犯罪者になる危険性のほうがずっと大きいのである。社会にとって、かえってリスクが高まる結果となるのだ
」(浜井浩一、芹沢一也『犯罪不安社会』)

 死刑に抑止効果ことは証明されていません。EUのHPを見ますと次のように書かれています。
死刑廃止国と存置国の状況を比較しても、他の刑罰に比べて死刑の犯罪抑止力が高いことは証明できません。欧州では、死刑廃止後に重大犯罪が激増したという事実はありませんでした
 アメリカでは、死刑を廃止した州と、死刑を廃止したのちに再び死刑を復活した州があります。死刑制度のあるなしでは犯罪の発生率は変わらないそうです。

 スコット・トゥロー『極刑』によると、犯罪学者の80%は死刑には抑止効果がないと考えているし、67%の警察署長は「死刑が明らかに殺人件数を減らす」とは言えないと感じているそうです。

 人は、死刑になるかもしれないから殺人をしないわけではないでしょう。また、死刑がないから殺そうという人もいません。
 逆に、死刑になりたいからというので、見知らぬ人を殺す事件が増えています。宅間守のように、「死にたい。しかし、自分だけが死ぬのはいやだ。人を殺して死刑になろう」と考える人が少なくないのです。
 自殺者が年に3万人以上、自殺未遂は10万人以上いると言われています。その中で、「自分だけが死ぬのは嫌だ。だれかを道連れにして死のう」とか、「どうせ自殺するなら恨みに思っている奴を殺そう」などと考える人が何人かいても不思議ではありません。
 また、一審で死刑判決が出ても控訴せず、死刑が確定することが結構あります。この人たちは生きたいという気持ちがないのでしょう。
 自分の命を大切に思えない人に対しては、死刑は抑止効果を持たないどころか、逆に死刑が犯罪を犯す引き金になっているのです。


  7,被害者感情

 テレビの討論番組であるタレントが「被害者は厳罰を求めている」と絶叫していました。「被害者の気持ちを考えれば死刑は当然だ」「人を殺したら死刑になるのは当然じゃないか」という素朴な正義論はそれなりに説得力があります。死刑賛成の根拠は被害者感情の一点だけです。
 被害者感情には、悪いことをしたんだからそれに応じた罰を受けるべきだという応報、仕返しをしたいという報復とあります。まず応報感情から考えてみましょう。

 ① 応報としての死刑

 被害者の苦渋に満ちた言葉を聞くと、被害者が感じた苦しみよりもたくさんの苦しみを加害者に与えるべきだ、そのことで被害者は癒される、と考えがちです。
 犯した罪の報い(刑罰)を受けることは当然です。ただし、罪と刑罰とのバランスを考えないといけません。

 たとえば、トマス・モア『ユートピア』を読みますと、16世紀のイギリスでは泥棒をしたら絞首刑でした。当時の人にとって、泥棒が死刑になるのは当然だったのかもしれません。しかし、貧しさから盗みをする人を死刑にするのはおかしい、とトマス・モアは書いています。現在では誰もがその意見に同意するでしょう。
 では、殺人にはどういう刑罰が適当でしょうか。殺人事件の4割は家族が加害者で、その多くは介護殺人や親子心中です。こうした場合はどういう報いがふさわしいのでしょうか。

 応報刑とは犯罪を犯したことに対して、それに見合う刑罰(罰金、懲役刑など)が科されることです。ところが、死刑という刑罰だけが自らの肉体でもって報いを受けなければなりません。なぜでしょうか。
 「目には目を、歯には歯を」、人の命を奪ったんだから、その報いとして自分の命が奪われるのは当然じゃないかと考える人は多いでしょう。では、人に暴力をふるったら殴られる刑とか、ひき逃げ犯には車でひくという刑罰があるとしたら、どう思いますか。

 岡真理氏は、1970年代にイエメンで、誤って車でイエメン人の子供をはねて殺してしまったフランス人が、イエメン人の父親に車で轢き殺されたことを話しています。(『銀幕のなかの死刑』)
 公開で行われ、その一部始終をフランス人の奥さんも観ていました。なかなか死ななくて、何度も何度も轢いたそうです。

 イランでは、言い寄った男性を断ったことを逆恨みされ、硫酸を顔にかけられたアームネ・バフラーミーさんに、硫酸を男の目に垂らして失明させる権利があるという判決が下ったそうです。

 岡真理氏はこう異議をはさみますむ。
「でも、「命には命を」だ、「殺したんだから死刑にすべきだ」と言う人たちが、「目には目を」の話を実践している社会の話を聞くと「野蛮だ」と言うとしたら、それはちょっとおかしいんじゃないか、論理が一貫していないように思います」

 イランで、女性の顔に酸をかけて失明させたとして有罪となった加害者に対し、目に酸を注いで失明させる刑罰を受けさせることが確定したそうです。

 あるブログにこういう意見が書かれてありました。
「ニュースだけを見て、日本人がイラン人は残酷だという事はできない。日本には死刑制度があるじゃないかと言われれば、我々は何と反論できるか。体の一部どころか、人の生命まで奪ってるじゃないかと言われればその通りだ」
 私も同感です。

 犯罪をなぜ犯したのか、その事情もさまざまです。息子を殺されたアジム・ハミサさんはこう言っています。
「殺人という行為それ自体よりも、それがどのようにして起こったかを問わなければなりません」(『被害者遺族からあなたへ』)
 単純に「目には目を」というわけにはいかないと思います


 ② 報復としての死刑

 次に報復について考えてみましょう。お孫さんを殺された方が「犯人と同じ空気を吸いたくない」と言われています(『死刑』)。そのお気持ちには何も言えません。家族を殺された遺族にとって、計画的な殺人だろうと、衝動的だろうと、殺意がなかろうと、愛する者を失った喪失感、怒りに違いはありません。被害者遺族の心情として、極刑を願うのは当然です。
 だけど、被害者によって思いはそれぞれ違います。また事件の経過によって変わってきます。

  ⅰ,被害者のすべてが死刑を求めているわけではない

 遺族の「死刑を望まない」という声よりも、「極刑を」と叫ぶ声のほうをマスコミは取り上げがちです。なぜなら、そのほうが一般受けするからです。しかし、被害者感情=処罰感情というわけではありません。生きて償ってほしいと考えている遺族も少なくありません。また、殺人事件の約4割は家族が加害者ですから、多くの被害者遺族は加害者家族でもあります。
 そんなことを言うと、自分の家族が殺されても「死刑反対だ」と言えるかと反論されるでしょう。しかし、妻と娘が殺されたにもかかわらず、死刑反対を主張した弁護士がいます。磯部常治という人です。

 1956年1月18日、磯部弁護士の妻と次女が殺害され、犯人は二日後に自首しました。磯部弁護士は熱心な死刑廃止論者で、「被疑者が望むならいつでも弁護に立つ」と語って大きな反響を呼んだそうです。東京地裁で死刑判決。控訴せずに死刑が確定しました。
 事件後の5月10日、死刑廃止の是非についての参議院法務委員会の公聴会で、磯部弁護士はこう語っています。
「抽象的に申しますならば、私はやはり死刑廃止に賛成なんであります。廃止論者なのであります。これは、先ほど委員長のおっしゃった一月の妻子の、私の被害者の立場、現実に被害者の立場になった、その身になっても、なお私は死刑は廃止すべきだという論なんであります」

 家族が殺されてすぐに「やはり死刑には反対だ」と言える人は稀だと思います。しかし、人との関わりの中で時間が経つとともに思いが変わってくる人もいます。
 1980年に富山県と長野県で起きた連続誘拐殺人事件の被害者の一人、長岡陽子さん(当時18歳)のお母さんは犯人を憎み続けることに耐えられなくなり、カトリック修道女の影響もあって、犯人を赦したほうが子供も救われるのではないか、と思うようになったそうです。

 神戸の酒鬼薔薇事件で娘さんが殺された山下京子さんは次のように書いています。
「加害者を許せるかと問われれば、それは永久に許すことはできません。しかし、私たちが絶望を抱えたまま、そこに希望を切り開いてきたように、彼にもまた、深い絶望を抱えたまま人間として蘇生していってもらいたいと思います。自分という人間の輝きを発見することで初めて、彼は自分が奪ったものの真の価値に気づくと思うのです」


 2004年に起きた佐世保小6殺害事件の被害者の父親御手洗恭二さんは質問にこのように答えています。
あの子に死んでほしいと思うかって? ひどいこと聞くね。とんでもない。僕と同じように娘を失うという苦しみを、あの子の家族に与えたくはないし」(川名壮志『謝るなら、いつでもおいで』)
 御手洗恭二さんが死刑についてどう考えているかはわかりませんが、加害者を死刑にすべきだとは思っていないようです。

 娘さんを殺され、被告の死刑を求めた木下建一さんはこのように語っています。
広島・小1女児殺害:事件から5年 「極刑主張、苦しかった」あいりちゃん父、告白
 広島市で小学1年の木下あいりちゃん(当時7歳)が殺害された事件から22日で5年になるのを前に、父建一さん(43)が毎日新聞の取材に応じた。殺人罪などに問われたペルー国籍のホセ・マヌエル・トレス・ヤギ受刑者(38)の裁判は今年8月、無期懲役が確定。極刑を主張し続けた建一さんは「あいりのことを思うと、『許せない』という気持ちは強い。しかし、人の命を奪う主張をすることは非常に苦しかった」と、複雑な胸中を明かした。
 事件は今年7月、差し戻し控訴審で広島高裁が1審の無期懲役を支持し、検察・弁護側双方が上告を断念し確定した。
 4年以上に及んだ裁判の間、建一さんは法廷や記者会見で「極刑」を訴え続けた。亡くなったあいりちゃんの「敵討ち」だと信じていた。しかし、その言葉を口にするたびに重圧を感じていた。「極刑を主張することは殺すことと同じ。それではヤギ受刑者と同じことになるのではないか」との思いがぬぐえなかった。
 差し戻し控訴審の判決後、建一さんは「あいりに申し訳ない。死刑判決が必ず出されるものと思っていた」と無念さを隠さなかった。それから3カ月余り。「人の命を左右するようなことにかかわらなくなり、非常にほっとしている」との思いが正直な気持ちという
」(毎日新聞2010年11月16日)

 2018年7月に麻原彰晃たちが死刑執行されました。
 坂本堤弁護士のお母さん坂本ちよさんのコメントです。
「私も麻原は死刑になるべき人だとは思うけれど、他方では、たとえ死刑ということであっても、人の命を奪うことは嫌だなあという気持ちもあります」
 坂本都子さんのお父さん大山友之さん。
「殺してやりたいと自分の中で何度も言ってきた。死刑執行は当たり前と本当は言いたいけれど、良かったという思いはない」
 お母さんの大山やいさん。
「私は死刑を喜ぶ人間ではない」

 アメリカでは被害者遺族が死刑廃止運動に取り組んでいる人が珍しくありません。
 168人が死亡したオクラホマシティーの連邦ビル爆破テロ事件で23歳の娘を殺されたバド・ウェルチさんは死刑廃止運動に取り組まれています。バド・ウェルチさんは爆破事件が起きるまでは死刑反対でした。
「でも、いざ家族が殺されれば、人の心は変わるもんです。復讐の思いを乗り越えるのに一年かかった」
 犯人のマクヴェイがなぜ犯行にいたったのか、その動機をバド・ウェルチさんは探ります。マクヴェイは湾岸戦争に出征して心の傷を受け、政府を恨んだ、これが事件の大きな動機になっているのです。そして、バド・ウェルチさんはこう考えるにいたります。
「マクヴェイを死刑に追いやることは、娘ら168人を殺した理由と同じ、復讐と憎しみから死刑に追いやることになる。つまり、因果応報と怒りというのは、人を悪の行動に駆り立てるだけだ。報復に喜びはない。怒りで人間は破壊される」
「怒りや憎しみ、復讐の気持ちを持ったままでは、癒しのプロセスには入れません。癒しに入るためには、それを越えなければいけないのです。なぜそう言えるのか。私もその道を通ってきたからです。ですから、まだ数家族の人たちが怒りや憎しみ、復讐の気持ちにとらわれていることは、とても悲しいことです」


 時間の経過とともに死刑に対する考えも変わってくるそうです。
「事件が起きた6ヵ月後に、被害者家族の中でアンケートがとられました。そのときは被害者家族の85%が死刑に賛成だったんです。その中には私自身もいました。けれども、事件から6年2ヵ月後にマクベイの処刑が行われた時点で、168人の犠牲者家族(2000人以上になります)の50%は死刑反対になったんです。ですから、被害者家族として一番大切なのは時間なんです。ある人は2年かかった。他の人は、3年、4年、5年かけて死刑反対になった。6ヵ月の時点ですでに死刑反対だった人も15%いたんです」

 7歳の孫娘が性的暴行を受けた後に刺殺されたジョニー・カーターさんも、最初は「この手であの男を絞め殺してやりたい」と思ったそうです。その後、入院をし、命について考える中で「物事には全て両面がある」ということに気づきました。
 加害者(19歳)は家族から虐待を受け、高校を中退し、友だちはほとんどいませんでした。家庭環境とか教育環境は自分の意志で選んだものじゃない。
「彼に対する怒りにさいなまれて生きていくよりは、彼をゆるして、多くの人が知らない彼の内面を理解しよう」と思うようになり、ジョニー・カーターさんは加害者と文通を始めました。
 ジョニー・カーターさんは死刑の執行に友人として立ち会っています。死刑の執行によって区切りがついたかとの質問に、「私はゆるしはした。だけれども、事件や悲しみを決して忘れることはできない。死刑によって区切りがつくなんて、私には想像できない」と答えています。

 このように、最初は死刑を求めていても、考えが変わってくる遺族は決して珍しくはありません。被害者の境遇も思いも多様ですし、主張が変化するのも当然です。被害者がある時期に言った言葉だけを取り上げて、「被害者は厳罰を求めている」と断言すべきではないと思います。

  ⅱ,怒りや恨みでは救われない

 福岡市で飲酒運転による追突事故でお子さんが3人死亡した事件がありました。お母さんは検察の供述調書の中で、「絶対に25年の刑が下されることを確信しています。1年でも短ければ犯人を私が殺します」と訴えました。
 しかし、危険運転致死傷罪が適用されなくなったため、懲役25年の刑はなくなりました。判決を前にお母さんは、「出た答えがその答えなら受け止めようと思う」とした上で「(懲役25年を)願っているが、その結果が出なくても、日々を恨みや憎しみの中で生活することはない」と話されています。

犯罪の加害者を責めません」——ある遺族の選択とは
 2006年に長女の歩さん(当時20)を殺された中谷加代子さん(56)は「怒り」を消し、刑務所で加害者たちと向き合う活動を始めた。伝えるメッセージは「幸せになって」。加害者を「責める」ことなく、常に「寄り添う」。(略)
 中谷さんには、志を同じくする仲間が2人いる。
 その1人は、神奈川県の小森美登里さん(60)。1998年に高校入学直後の長女を失った。いじめが原因の自殺だったという。(略)
 もう1人の仲間は東京都在住の入江杏さん(60)だ。2000年末に起きた「世田谷一家殺人事件」で妹一家4人を殺された。(略)
 小森さんもそれまで、加害者に働きかける活動を10年以上も続けていた。他の被害者遺族には、加害者への強い怒りが消えず、苦しんでいる人もいた。もちろん、それも理解できるという。しかし、怒りを持つだけでは、犯罪をなくすことはできないのではないか、と考え続けていた


 被害者が怒りや憎しみを感じるのは当然です。しかし、私たちでも怒りや恨みをいつまでも抱えていると自分自身がしんどくなりますね。人間は憎しみや怒りを持ち続けて生きることなどできないと思います。
 ですから、怒りや恨みを持つことは被害者のためになりません。そうした感情を別なものに変えていくことが被害者にとって大切です。

 森達也さんが「もし仮に被害者遺族になった場合、特に自分の身内が強く応報感情を持っているときは、きっと僕はその応報感情を和らげようとすると思うのです。なぜならば、人が死ぬことを願う人生は、やはりどこか内側から、その人を蝕むと思うのです。その人にとってもつらい人生だと思う」と言っていることはもっともだなと思いますし、滝川一廣(精神科医・臨床心理学者)も「被害者への支援は、いたずらに加害者への憎しみを煽るようなことになってはならない。むしろその逆ではないか。加害者への憎しみが消えていくような支援こそ、もっとも力となる被害者支援なのではないか」(佐藤幹夫『自閉症裁判』)と書いています。

 「加害者への憎しみが消えていくような支援」の一つが修復的司法だと思います。加害者と被害者などの事件当事者が話し合う場を第三者が提供し、対話を通じて関係の修復をしていく中で、加害者の反省をうながし、被害者の損害を回復していくという方法です。

 加害者がいかに罪を悔い、更生しようとしても、それが遺族に伝わらないことには意味がないですよね。また、被害者の苦しみも加害者にはなかなか伝わりません。被害者がどういう気持ちでいるかを知ることが償いへの第一歩になるはずです。
 安田好弘弁護士は「加害者が人間らしい心を取り戻し、被害者は加害者の人間らしさを見ることにより、加害者と被害者の間につながりができてくる。加害者が変わることによって被害者が次第に苦しみから癒されていく。そのためには、加害者はたとえ憎まれても、恨まれても、あるいは怒りをぶつけられたとしても、自分の一生をかけてご遺族の方と向き合う努力をし続けていくことが大切なんじゃないか。そのためにも加害者と被害者側との回路を誰がどう作るかです」と語っています。

  ⅲ,死刑になるとすっきりするか

 2009年11月、地下鉄サリン事件の実行犯2人の死刑が確定しました。遺族の方は「被害者や遺族が望んでいた判決ですが、2人は年齢的に私の子供と同じぐらいで、複雑な思いもする。オウム真理教事件の中では、2人は被害者だった」と語っています。 
 ところがネットの反応はというと、「死刑は当然。さっと執行しろ」というようなものです。遺族の気持ちはそんな単純ではないのですが。

 刑が決まったから、死刑が執行されたからといって、被害者遺族は事件を忘れることはありません。
 テキサス州には死刑を執行する刑務所の近くに死刑博物館があり、その博物館の館長は89人の死刑執行に立ち会っています。この館長は「被害者の家族は死刑が執行されたら区切りを迎えることができると、あなたは考えますか」という質問にこう答えています。
「その問題について遺族と直接話したことはない。しかし、クリスマス・プレゼントのことを考えてみるといいよ。子どもたちっていうのは非常にクリスマス・プレゼントを楽しみにしているものだけれども、いったん受け取って、二ヵ月も経ってしまえば、結局そんなにたいしたものじゃないと。喜びもさめるよね」

 孫娘を殺されたジョニー・カーターさんは死刑の執行に立ち会っています。死刑によって区切りがついたかとの質問に、「私はゆるしはした。だけれども、事件や悲しみを決して忘れることはできない。死刑によって区切りがつくなんて、私には想像できない」と答えています。

 死刑が執行されても遺族は心の傷を抱えながら生きていかなくてはなりません。本当の被害者感情とは、事件のことや亡くなった方のことをいつまでも忘れられないことだと思います。

 これは死別一般について言えることです。死亡年齢や死に方などに関係なく、親しい人が亡くなるのはつらいものです。死別の悲しみは言葉で言い表せるものではありません。そして、亡くなった方のことを簡単に忘れてしまうことはできません。何年も経っても、ちょっとしたきっかけで思いだしてつらい気持ちになることがあります。

 被害者の苦しさ、悲しみ、つらさは第三者には想像もできないと思います。それなのに当事者でもない人が被害者の気持ちがわかったつもりになって憎しみや怒り、復讐心といった報復感情だけを共有し、煽り立ててしまいがちです。

 森達也さんは「つらさや苦しさを共有できていない多くの人たちが、表層的な応報感情だけに共鳴して、「早く処刑してしまえ」と声をあげている。ですから、そういう応報感情を持つことは、あたりまえだけれども、できれば、やはり違う視点も持ってほしい」と言っています。
 刑が下されたらそれで終わりと考えるのは被害者を傷つけることになると思います。


  8,裁判の公正さ

 被害者の処罰感情が重視され、裁判に被害者が参加できるようになりました。
 しかし、あくまでも罪刑法定主義(どのような行為が犯罪であるか、その犯罪に対してどのような刑が科せられるかは、あらかじめ法律によって定められる)が守られ、法律と判例によって判決が下されるべきです。報復感情によって裁くべきではありません。

 被害者の意向を判決に反映させると、本来なら死刑に相当しない事件や情状酌量の余地がある事件でも、被害者遺族が大きな声をあげて強く極刑を望むなら、「遺族感情への配慮」によって死刑判決が下されてしまいます。
 逆に、生きて償ってほしいと考えている遺族や、被害者に家族がいなかったり、遺族が沈黙を保っている場合は刑が軽くなるのでしょうか。
 さらには、無実であっても、遺族が有罪だと信じ、極刑を強く望むなら、無実の人に死刑判決が言い渡されることも起きかねません。
 これでは同じ罪を犯しても無期懲役になったり死刑になったりと、公正さが欠けてしまいます。それでは同様の犯罪では同様の判決を受けるという基本的な観念に反することになります。 

 このように、処罰感情だけで裁くとどうしても恣意的になります。ですから、公正に裁くために法律が定められ、判例が重んじられるのです。
「無実の者が処刑されるという「犠牲」において、被害者側の感情を満足させることは、正義の見地から言っても、とうてい許されることではありません」(団藤重光『死刑廃止論』)

 まして裁判が世論に影響されることがあってはなりません。ところが、マスコミは世論を操作することで裁判に圧力を加えています。裁判員に予断を与えることにもなります。 
 マスコミが犯罪報道をくり返すので、治安が悪化している(事実は違います)と私たちは不安を持ちます。それが犯罪者に対する怒りとなり、「日本の刑罰は甘い」という批判が起きます。厳罰を求める声が大きくなっていきます。
 事件の経緯や背景がわからず、ひょっとしたら冤罪かもしれないのに、マスコミの片寄った報道によって世論が作られるわけですから、考えてみたら恐ろしいことです。
 もしもテレビやネットでの意見が裁判に影響を与えることになれば、私的リンチと変わりません。

 それに加えて、裁判所の量刑基準は変化しますし、死刑の言い渡しの基準も変わります。以前なら無期だった事件が死刑になったり、その逆だったりするわけです。
 懲役一年が二年になるのならともかく、裁判官の主観やその時の風潮で死刑になったのではたまりません。
 生きるか死ぬかということで公正さが保てないのですから、この点でも死刑は問題があると思います。


  9,罪の償いと赦し

 犯罪を犯した人がどうすることが償いになり、どういう謝罪をすれば反省したと認められるのでしょうか。
 誰しも、ああ悪いことをしたなと自分を責めることがあります。だけど、人間は一日二十四時間、ずっと罪を悔いて反省することなどできません。つまらぬ冗談を笑ったり、何でこんなことになったんだろうかと愚痴ったり、あいつのせいでこんな目にと責任逃れすることもあります。だからといって、罪の重さに苦しんでいないことにはなりません。
 ところが我々は、犯罪者に対して厳しい目を向け、完全無欠な反省人間を求めがちです。それは無理な注文でしょう。

 村瀬学さんは「テレビの中で、乱暴な発言をするタレントの中に、再犯を犯す者を例にあげて、「少年院で本当に更生なんてできるのか」と発言する者がいる。こういう「不信感」は、多分にその人自身の内面の不信に対応している。自分自身が反省することがないものだから、人もきっと「本当の反省」なんかしないだろうと考えている」(『少年犯罪厳罰化 私はこう考える』)と書いています。鋭い指摘ですね。

 では、どうすることが償いになるのでしょうか。
 被害者が求めることは事件が起こる前の状態に戻ることでしょう。しかし、それは不可能です。また、自らの命でもって償うとしても、死んだらそれで償いは終わりというのでは安易です。被害者は加害者が死んだ後も生きていくのですから。

 道義的責任のはたし方として、大沼保昭さんは『「慰安婦」問題とは何だったのか』で五点をあげています。そのうち三点が犯罪者の償いと共通する部分があると思います。
1,ことば
 被害者の心に奥深く染み入るような、誠実さを示す言葉で謝罪がなされているか。
2,所作、謝罪のかたち
 真摯な償いの姿勢。
3,物質的・金銭的補償
 一家の稼ぎ手がいなくなったり、働けなくなったら、本人や家族はその日から生活に困ってしまいます。お金の問題は切実です。

 こうした償いをするためには被害者と加害者との間に何らかの関係が作られていないと成立しません。
 菊池寛『恩讐の彼方に』は罪と赦しがテーマです。主人を殺した市九郎(了海)が滅罪のために全国を行脚し、交通の難所である岩場に洞門を掘ります。一方、父を殺された実之助は親の仇である了海を探し出しますが、結局は了海を許すという物語です。
 最後、洞窟の中で了海と実之助は手をにぎりあいます。それは了海が21年間、村人のために岩を掘り続けたということもありますが、それだけでなく、実之助が了海と一緒に一年六ヵ月働いたことが大きいと思います。

 まずは加害者と被害者との関係が作られるということが、償いへの第一歩になるのではないでしょうか。死刑はその関係を断ち切ってしまうことになるわけで、その点でも死刑には賛成しがたいです。


  10,更生

 刑罰には応報刑と教育刑という考えがあります。
 応報刑とは、犯した罪の応報として懲らしめのために刑務所に入れることです。
 しかし、刑務所に入った人もいつかは社会に戻ってきます。再犯を減らすためには、単に処罰すればいいというのではだめです。
 教育刑の理念は、こいつらはどうしようもない奴だから刑務所に閉じこめてしまえ、と切り捨てるのではなく、更生させ、社会に復帰できるように教育していくことです。

 犯罪者は反省なんかしない、更生できないと思われがちです。
 しかし、岡山刑務所は初犯で、殺人、強盗傷人、強盗強姦といった罪で懲役8年以上の受刑者ばかりです。ところが、出所後の再犯率は5%です。ほとんどの受刑者が社会復帰しているわけです。

 二度と犯罪をくり返さないで社会復帰するためには、まず罪を認めて反省し、ちゃんと生きていこうという気持ちにならないといけません。
 そのための矯正教育をきちんと刑務所で行うこと、そして社会に出てからの更生保護が重要です。また、社会も彼らを受け入れていくことが大切だと思います。

 死刑は更生の可能性を認めません。検察が死刑を求刑し、死刑の判決が下る時、「矯正は不可能」という言葉が使われます。反省しないし、罪を償う気持ちもない、社会に出たら同じことをくり返すだろう、こんなどうしようもない奴は殺すしかない、ということです。本当にそうでしょうか。

 死刑囚と接した人の記録を読むと、この人は再び罪を犯すことはないのではないかと感じる死刑囚が結構います。たとえば、東京拘置所で医務部技官を勤めた加賀乙彦さんの『死刑囚の記録』に詳しく書かれている正田昭(メッカ殺人事件)もその一人です。
 オウム真理教の元信者である井上嘉浩さんは、高裁の判決文の中に「現在では同種犯行に及ぶ危険性は消滅したといえる」と書かれています。ところが、一審では無期懲役だったのに、高裁ではなぜか死刑判決が下されました。

 金沢文雄広島大学名誉教授は次のように言っています。
「『人格の尊厳』には例外がなく、犯罪者にもこれを認めるということは、犯罪者が罪を自覚し反省して人間として再生する可能性を認めることである。死刑はこの人間的再生の可能性を奪うものであるから、人間の尊厳の思想に反するのである」(団藤重光『死刑廃止論』)
 死刑になるほどの犯罪を犯した人であっても再生の可能性があると信じたいです。


  11、もし加害者になったら

 「自分の子供が殺されても死刑反対と言えるのか」と聞かれることがあります。それに対して「もしも自分自身や自分の子供が加害者になったらと考えてほしい」と答えています。
 あるとき、同じように答えたら、「死刑になりたくなければ悪いことをしなければいい。子供には悪いことをしないよう教育をすればいい」と言われてびっくりしてしまいました。
 私たちには善人意識があります。私は善人だから悪いことなんかしない。被害者になることはあっても加害者になることはない。まして殺人で死刑になるようなことは絶対にあり得ないと信じ切っています。
 しかし、『歎異抄』に「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」とあるように、縁次第では何をするかわからないのが、凡夫の身を生きる私です。いつ被害者になるかわかりませんし、いつ加害者になるかもわかりません。

 亀井静香さんはなぜ死刑に反対なのか、このように語っています。
「子供のころは肉や魚食ったりなんてことは全然ない。ただうちの場合、親子兄弟、貧しいだけに仲良かった。だから俺なんか、もしも貧しくて愛情の薄い家庭に生まれていたら、人殺しやって死刑になっていたかもしれない。たまたま周りの人に恵まれて生きてきた。これは自分の力じゃねえのよ」(森達也『死刑』)

 自分だってひょっとしたら、という想像力を持つことは必要です。
 たとえば、サラ金で大借金をこしらえ、取り立てが厳しかったら、何かして、という気になるかもしれません。ある人にそんな話をしたら、「サラ金で金を借りることはないからあり得ない」と言われましたけど。
 自分じゃなくても、家族や友人が犯罪を犯すかもしれません。友人が人を殺したとして、友人はどういう人間か、極悪人ではないと知っています。事件がどうして起きたのか、本人はどう思っているのか、そういうさまざまな事件の背景を知っていたら、「死んで償え」とか「人を殺したんだから死刑は当然だ」と単純には言えないと思います。

 死刑囚の澤地和夫さんは『東京拘置所死刑囚物語』にこう書いています。
「死刑囚らの犯行はその結果からするなら、極悪人ときめつけられても二の口がありません。しかし、私を含めた殺人者たちが総じて元々からの極悪人であったわけではありません。私は、自分の体験からして、人はだれしも殺人者となり得る芽がその体内に密かに根づいている存在であると思っています。
 私は、約8年くらい前から、オウムの林泰男、豊田亨、早川紀代秀、中川智正、遠藤誠一の5人と同じ舎房で暮らしていますが、彼らは5人ともきわめて、礼儀正しく真面目で、かつ、とても紳士に見えます。
 しかし、実際に接したことのない世間の人たちは、オウムの犯人たちを端(はな)から冷酷で無慈悲な人間ときめつけているように思われます。ところが、実際の彼らはそうではないのです。あのいかさまとも思えるような宗教との出会いがなければ、この社会のリーダー的存在として応分の活躍をした人たちであろうと考えます。しかし、悲しいかな、いくら高学歴で教養の高い人間であっても、人は何かをきっかけとして、自分でもわけがわからないうちに犯罪者となってしまう存在なのです」