流浪の民


ドアチャイムが鳴るので出てみたら
見知らぬ老人が立っていて
「絵を書いたので差し上げます」
と言う
色紙に描かれているのは
母と子が座って手を合わせている絵
そこには
”ゴメンナサイ、アリガトウの心”
と記されている

教会にはしばしば
「旅の者ですが・・・」
という人がやってくる
要するにホームレスで
たいていが
「大阪まで帰るので旅費が欲しい」
などと言うけれど
実際には大阪に家などない

この老人
「わたしは全国を歩いて無銭旅行しています」
と言っていた
それでも着ているものはきれいだし
靴もあまり傷んでいない
すりきれていないカバンから取り出した一冊のノートには
写真が貼り付けてあった

そこに写っている
派手な衣装を着て化粧をほどこし
扇子を持って舞う人はこの人本人らしい
大道芸というのだろうか
本人はパフォーマンスだと言っていたが
そんな洒落たものには見えなかった
だってその姿はまるで『志村のバカ殿さま』(笑)

嘘か真か知らないが
昔からこうして
公民館や老人ホームなどを訪問しては
芸を披露して報酬を得ていたと言う
だが最近は
こういう場所ではどこもボランティア
つまりタダで芸を見せてくれる人たちが来るので
もうタダが当たり前になっている
だから自分の仕事が成り立たない
「こういう芸がタダだと思っているのはおかしいですよ」
としきりに力説されても
この類の芸そのものに全く興味のないわたしは
タダでも見に行こうとは思わないな〜
と内心思う

一方
ここが教会だからそういう話をはじめたのか
自分は若い頃神学校にいたと言う
『生駒の神学校』という名前が出たので
わたしが聞いたことのある昔の先生の名前をあげてみた
すると
「それは違う神学校でしょう、知りません」
ということだった
で、その話はパタっとやんだ
ただしきりに自分はクリスチャンだと言う
そのわりには
描いている母子の絵は
服装も雰囲気もまるでお寺系だ
クリスチャンだったらまずこんな絵は描かないだろう

今度はやおら別の話になる
「わたしは胃がんでもう3年しか生きられないと言われましたが
それから7年生きています
もうこの11月には老人ホームに入居が決まっています
それで最後の旅をしています」
「胃がんのために初めは胃の3分の1を切り
その後再発したので3分の2まで切りました」

うちの夫も胃がんで手術をしたが
初めから3分の2切除している
なぜ3分の2かというと
切って腸とつなぐには
その開口部の大きさがそこが一番ぴったりだからと聞いている
だから
今まで胃がんで3分の1切除などと言う話は聞いたことがない
それに再発した場合は間違いなく全部切除だろう

表面的にはああそうですかと聞きながら
わたしの関心事は
いつお金の話が出るかということだった
それは間違いなく出てくる

ひとしきり話をしたところで立ち上がった老人は
「これから歩くには少々疲れたので
少しばかり電車賃をもらえると嬉しいのですが・・」
と切り出す
あ、でたでた〜
北海道まで帰ると言っていたから
これはもしかして法外な金額を出してくるかなと思いきや
「320円あれば目的地まで行けるんです」
という
あら、意外と少ない
いや、これがひとつの手段なのだろう
今のご時世
1000円などといったらまず相手にされない
500円も高い
それではじきだされた320円という中途半端な金額が
何とも物悲しい

この老人がホームレスなのか
あるいは寸借詐欺師なのか
(ものすごくゆずって)本当に老人ホームに入る前の旅行なのか
それはわからない
今うちではこういう人にお金を差し上げることは一切していないが
わたしは今回珍しく320円を差し出した

それは単に同情からというわけではなく
70過ぎの年になってまで
こんなことをやっていることが
何とも馬鹿げていて
情けないと思ったから
なんでこんな人に320円かと考えつつも
まあいいかとも思った

今まで多くのホームレスの人たちがやってきた
彼らは結構プライドが高い
「わたしのような有能な者を会社は用いないのがどうかしている」
などという
いつも思うことだが
本当に有能な人は
黙っていても用いられている
用いられないのは
自分にそういう能力や魅力が欠けているせいだ
とは思わないのだろうか

人は誰でも”認められたい”と思っている
そのレベルを低いところにおいている人は良いのだが
実力以上に高いところにおいている場合には
いつも腹を立てていなくてはならない

まあ所詮自分はこの程度だから・・・と
あきらめていけたら幸せだ
自分の提供した労力が
全て良い評価となって帰ってくることを期待したら
たいていが期待はずれに終る

わたしも昔は色々一生懸命やっては
それなりに期待も抱いていたけれど
ある時期からは
ほとんどのことは上手くいかなくて当然なのだと思うようになった
だって所詮わたしのすることなのだから
その中でもし
わたしを認めてくれる人がいるとすれば
それはむしろとてもすごい事だと思う

最近は
”地道”という言葉をとても大切に思う
みんなそれぞれ与えられた能力があるのだから
人と比べることをしないで
自分なりにこつこつやっていたら
それなりの結果と評価はあるはずだ
それで満足するのが分相応というもの

上を見れば限りがなく
上を見ればいつも不足だ
子どもの頃
”上見て暮らせばあれ星これ星、星だらけ”
という奇妙な詩(?)を聞いたことがある
この”星”の意味は”欲しい”ということ
当時は変なのぁ〜、と思っていたが
今はその意味がよくわかる

老人が去ってから
今度は3人連れの女性がお庭を見に訪れた
今年は夏のダメージでバラのできが悪く
あまり花も咲いていないし
お庭の方も徐々に枯れ行く季節へと向かっている
わざわざ見に来られてもちょっと恥かしい状態なのだが
それでも結構ゆっくり見ていらしたようだ

「よく手入れされていますね」と言われると
あちこちずさんなことは自分が一番良く知っているので冷や汗ものだが
それでもこのように言ってもらえるのはとても嬉しい
特に人に見せるためのお庭ではないにしても
これを見る人はどう思うのだろうかと
やはり気になるものだ

ちょうどいいので
うちで作ったバラの挿し木苗を持って帰ってもらうことにした
たくさん作っても全部植えられるわけではないし
かといって捨てるのも悲しいので
バラを育てている方に時々差し上げている
するとその方も
「今度うちのも持ってきますよ」
と言われた
あら、これは嬉しい

分相応の幸せを感じることができたら
わざわざ世捨て人になることもないだろう
若い時には色々さまようことがあっても
いつかは自分の置かれたところに根ざしていきたいものだ
一生、流浪の民でおわるのは
誰も本意ではない

あの老人も
どこかで自分自身に折り合いをつけていたら
こんな生活はしていなかっただろう
さかんに「世間が悪い」と言っていたけれど
原因は自分にも大いにある
でも悲しいかな
自分のプライドがそれを認めないのだ

誇り高く生きていたいと思う一方
余計なプライドは捨てなくちゃならない
現実は
これがなかなかむずかしい





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