大人になること


昨日、葬儀屋さんからの電話で
キリスト教式の葬儀を望んでいる人があるので
請け負って欲しいとの依頼があった
全く面識のない人の結婚式はあることだが
告別式となると珍しい

というのも
キリスト教式で告別式をする人は
通常、本人も家族もクリスチャンで
自分の所属教会を持っているものだ
それが見ず知らずの教会でも良いというのは
ただ単にキリスト教式がかっこよさそぉ〜という
ミーハーなのか、、、、?
そこで
とりあえずどういうことなのか聞くために
ご親族のところへ出向いて話を聞いてみる事にした

すると
ミーハーなんていうのは大変失礼な話で
実はこの方
日本のキリスト教史に名前を連ねる有名な牧師を親族に持ち
自らも熱心なクリスチャンとして牧師の家庭に育ち
生涯ずっと布教と奉仕活動を続けた人だった
しかし
晩年は病気療養のため故郷を離れ
この地に移り住んだために
所属教会からは離れる事になり
体も不自由なので近隣の教会へ行くこともできなかったのだという
それでも最後はキリスト教式でとの願いから
この町で唯一の教会である私どもに依頼があったというわけだ

告別式というのは結婚式よりもずっと気を使う
何しろその人の人生最後の式典なのだから
一番いい形でお送りしたいものだと常々思っている
たくさんの人が集う大きな式典は大変だが
今回のように
なるべくひっそりと、と願う”密葬”では
何かこう、チャチな感じにならないように
いっそう気合を入れて取り組まなくてはならない

その中で
告別式そのものの手順については
通常通りにやればいいと安心していたのだが
故人の愛唱讃美歌を入れてほしいといわれ
それがまたどれも非常に古い時代の讃美歌で
うちでは歌った事がなかったため戸惑ってしまった
それでも
ご本人の生前よりの願いということで
急きょピアノをたたきながら特訓
今回の式に参加してくれる信者さんたちにも楽譜を届けて
「何とか歌えるようにしておいてください〜」とお願いする

そこへ
わたしの代わりに地区の行事の手伝いに行っていた娘が帰宅
送り出す前に
「親の代理で行くのだからちゃんと大人並に働いてよ」
といっておいたが
帰るなり
「ほら、今度は歌、歌!!」
「今回は人数が少ないから大人並にがんばってよ」

最近は娘に”大人並み”を要求する事が多くなった
いや、もうすぐ中学生になるのだから
それも当たり前のことなのだろう
どこまでが子どもで
どこからが大人なのか
それは親の都合で決める(笑)

娘が覚えている限りで一番小さかった時の告別式は
4歳になる一ヶ月前にあった義母の告別式だろう
その時娘は火葬場までついていった
そして帰ってくるなり
留守番をしていたわたしに
「おばあちゃん、皮がむけちゃったのよっ!!?」
と目を丸くして報告した
すごい表現だと思ったが
人が火葬されて骨だけになる現実を自分の目で確認した娘は
小さいながらも”死”ということを自分なりに受け入れた

こうして子どもたちがまだ幼い時から火葬場に行く事を
情緒教育上よくないのではないかと言われたこともあるのだが
ではいつになって連れて行くのがちょうどいいというのだろうか
身近な家族であっても人はいつか死に
それは誰の身にも起こりうる事を
そして
命の尊さを自然に教える良い機会となると思うのだが・・

「告別式は寂しいからいやだなあ」
という娘だが
実はふだんしょっちゅう告別式の讃美歌をピアノで弾いたり
歌ったりしている
これはただ単にその歌が好きというのではなく
告別式にある独特の
寂しくはあっても感動的な雰囲気を時々思い出しているのだ

キリスト教といえば一般的には結婚式のイメージが強いが
結婚式の感動は
言ってみればご当人だけのようなもので
一方
告別式の感動は列席者全体に残る
だからどんな条件下でも最高の式典ができるようにと気を使う

娘は今回はじめて黒い礼服を身につけた
これは昨年信者さんからいただいたもので
この方が20年前に私たちの結婚式の時に着た服だという
大喜びした娘はいつこれが着れるかと楽しみにしていた
普段は男の子のような格好ばかりしているくせに
本当はこういうのが大好きなのだ

さあ、服だけでなく働きも”大人並み”にね
とはあえて言わなかったが
本人ずっと今日は緊張した面持ちで勤めを果たしていた

今日は成人の日
華やかな服装をした若者達の様子に加えて
一部で荒れる者たちの様子がニュースで流れていた

一人前の大人になるには
知らなくてはならない事がたくさんある
それらは一夜にして体得できるものでもないし
20歳になったから自然に備わるものでもない
どんなに小さい時から教えていても
覚えきれない事もある

きれい事だけでなく
大人の世界の表も裏もおりまぜながら
思いつくままに色んな話はしてきたけれど
まだまだ教えなければならない事が山ほどあると思うと
時々ため息がでそうになる
本当に今は難しい時代になっているので
本音とタテマエを両方教えておかないと方手落ちになるのだ

大人になることは
現実を知る事でもあり
それだけ夢も失うのかもしれない
それでも子どもたちには
大人になる事への希望はずっともっていて欲しいと願っている
夢も捨てないで欲しい

理想と現実の間で
自分なりに折り合いをつけられるようになった時が
本当の大人になった時なのだろう
それを20歳で悟れる人はまずいない
だから成人の日は
ある意味大人へ向かうスタート地点なのかも・・・
などと思ってみたりもするのだった





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