ボランティア精神


先日息子が
「学校の掃除ってボランティア?」と聞くので
何の話かと思ったら
学校からプリントが配られて
”ボランティア参加の有無と特技について”調査があったらしい

息子に言わせれば
ボランティア=タダ働きであり
だったら毎日学校でやってる掃除もそうじゃないかと、、、

まあ相変わらず色んな発想をするものだと呆れてしまうが
学校掃除は義務だから
善意で参加するボランティアには数えられないだろう

ここ数年、学校からボランティア活動を勧める機会が多くなっている
少年犯罪が多発し
世の中全体で人の心が冷ややかになっている昨今
ボランティア活動を通して
少しでも心の育成に役立てればという狙いなのだろうが
ちょっと疑問に思うことも多い

老人ホームの慰問、町の清掃活動、町の行事のお手伝い
いろんな活動に参加した子どもたちからの感想は
”やりがい”や”達成感””感謝される喜び”
というものが主だ

確かに人の役に立つというのは気持ちの良いもので
ちょっと誇らしくもある
自分もやれるじゃないの!という満足感も得られる
でもそれって本当のボランティア精神なのだろうか

地域の清掃活動に参加するとたいていジュースが配られる
それを知っている子どもたちは
掃除をすればいつもジュースが出てくるものと思っている
それを時々お年寄りが嘆くわけだが
初めからこのような習慣をつけてしまったのだから
今更変えるのも難しい

また
こうした飲食物はでなくても
何らかのボランティア活動に参加すれば
少なくとも感謝の言葉や誉め言葉はもらえるだろう
そして
ボランティアをすると必ず感謝され
喜ばれるのが当然と思う

つまり
ボランティアはもちろんお金をもらうことのないタダ働きではあるが
いつも何らかの見返りがあり
活動をする側もその見返りを期待していることがある

ところが現実に個人で良いことをしてみても
思うような結果にならないことも多い
例えばバスでお年寄りに席を譲るとき
「ありがとう」といって座ってくれれば嬉しいが
「もう次で降りますから結構です」とか
はなはだしいのは
「人を年寄り扱いして」と怒り出す人もいると聞く
こうなるとせっかくの善意も恥をかくだけに終る
全く損しただけのような気もする

この経験を最後に
もう二度とお年寄りを見ても知らん顔をする人もあるし
それでもやっぱりヨロヨロしている人を見ると黙っていられなくて
また声をかける人もいるが
この両者の行動の差は”心の差”にあると思う

自分が心から人を助けたいとか役立ちたいといった気持ちを持っていれば
少々自分の立場が不利であっても行動する
その犠牲的精神こそがボランティア精神だ
その心をまず学ばずして
とりあえず形からはいっている今の教育方針にはどうも納得いかない

少年犯罪のニュースを聞きながら
「なんでこんなことになるんだろうね」というと
息子が答えた
「日本には愛国心がなくなったからだよ」

ゼロ戦を中心とした戦闘機が大好きな息子は
第二次世界大戦ごろの歴史には非常に詳しい
今まで色んな本を読んできたので
戦前と戦後で
日本人の考え方や生活、教育方針が
どのように変わっていったかをよく知っている

日本は愛国心と軍国主義を結びつけて利用したので
戦後、軍国主義を捨てるときに愛国心も一緒に捨てた
国家が良くなることよりも
個人の生活がよくなる事を求め
自己中心になった
日本人がそれまで持っていた奥ゆかしさ
人のために自分が引く姿勢とか
お互いに許しあうこととか
上手に譲りながら和を保つことが少なくなり
誰もが権利を主張して争う時代となった
確かに物質的には裕福にはなったけれど
反面、心はやせていった

今こうして不況の時代が訪れ
国が自治体がゆれている
みんなが協力して国を盛り立てていかなければといっても
失われた愛国心は簡単には取り戻せない

国を愛することは人を愛することでもある
欧米ではキリスト教精神が根付いているので
”愛の心”について小さい頃からの教育がある
日本も戦前は家庭での心の教育が徹底しており
宗派にかかわらず「おてんとうさんが見ている」と言って
個人の生活を戒め
子どもは家のため、親のためを思い、働くのが常だった
ところが戦後は宗教と教育は全く切り離されたので
心を育てる教育が欠如し
一方で”勉強のできる見かけの良い子”を育てることにみんな熱心になった

両親や祖父母の期待と愛情をいっぱい受けて育つ子どもたち
親は子どものためならと色々無理もする
祖父母はせっせとおこづかいをわたす
いつも大切にされるだけの子どもたち
こうして”常に不自由なく守られる生活”を当たり前と思っていると
特にそれを感謝とも思わない

小さい頃から世話をしてもらい
いつもおこづかいをくれていた祖父母が病気になった時
今度は自分が何かしなくてはと思う子どもがどれほどいるだろうか
その子どもがやがて大人になって
自分が受けてきたさまざまな愛をどう還元するだろうか

多くを与えられた者は多く還元すべきだろう
ところが現実には
多く与えられた者ほど心が育っていないので
(与えられてきたという実感を本人がもたないので)
親を悲しませる事態が待っていることも多い
「子どもに一生懸命になるより犬でも飼った方がマシ」
そんな話も聞く
犬は飼い主を裏切らないから。。

今の事態を何とかしたいと地域や学校が色々焦ってみても
結局家庭教育が変わらなければ何も変わらない
だが、教育する親自身が
「自分の子どもさえ良ければいい」と思っていたのでは
どうしようもないけど・・・

学校で用意されている老人ホームの慰問などは
何もしなくても行くだけでボランティアをしたと認められるのだが
息子はそういうことに参加してこなかった
それでも小さい頃から娘と一緒に
何かあるたびにずっと教会の手伝いをしてくれて
今は大人と同じくらいあてになるのに
自分なりにこうしてやってきたことは
残念ながら単に家の手伝いをしているくらいにしか思われないだろう
ただ行くだけのボランティアと
自分が親を助けようと思ってすることと
その心はずいぶん違うようにも思うのだが
世間の評価は見かけの派手な方に軍配が上がる

息子とは反対に
娘はボランティア活動が好きでいつも率先して参加している
こういうタイプは大人のウケは良いのだが
わたしは時々娘が思い上がることがないように
「本当に心からでなければボランティアじゃないんだからね」
と何度も言っている
人に誉められるのが嬉しくてやっていると
つい自分を人よりも立派に思うようになり
ボランティア活動をしない人を批判するようになる
わたしはこういうのが一番嫌なのだ

自分は自分、人は人
同じボランティア精神を持っていても
その表し方は異なって当然だ
見かけの派手な活動に参加する人も
そうでない人も
大切なのはその心

せめて家庭で
親や祖父母を大切にし敬う心を育てたい
自分が今までどれほど大切にされてきたのか
どれほど周りの人に助けられてきたのかを
子どもたちには小さい時からきちんと認識させたいものだ
それを教えるのは親しかいない
親の役目は重要だ
人に任せてはいられないし逃げることも出来ない
それをしみじみ思う





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