帰らざる日々
「私は子育てを失敗した」
という話をよく聞く
それぞれの家庭には教育方針があり
厳格型だったり放任型だったり
色んなスタイルはあるが
たいていが理想どうりにいかず
結論としてこの言葉が出る
高校生の息子を持つある母親が
こんな話をしてくれた
息子にはいつも何でも「こうしなさい」と
親の考えで口うるさく命令し続けた
息子はそれにずっと従った
これが習慣となって
息子は自分で判断できない
”気の利かない人間”になった
どうしてあんなに命令したかというと
あの頃はこの子のためと思っていたが
本当は
親が恥をかかないようにと思っていたからだった
礼儀正しくない子は親の恥だ
勉強のできない子は情けない
何とか”良い子”を育てたい
そう思っていたことが
今は間違いだったと思う
この親の失敗に
当の息子はまだ気がついていない
もし気がついたら
自分は親の犠牲になったと恨むだろう
恨まれても仕方がない
過ぎた日々はもう戻っては来ないから
この問題は
かなりの親が直面する課題ではないかと思う
”良い子を育てたい”
誰でもそう思う
わたしもそう思っていた
しかし
幸か不幸か
うちの息子は親の言いなりになる子ではなかった
まだ1歳の頃
米びつの計りのレバーを押すと
お米がザーっと出てくるのを知った彼は
すきをねらっては自分でも試していた
おばあちゃんの家の米びつには
これを防止するロックがついていなかったから
ここではやりたい放題だった
その素早さにおばあちゃんも参っていたが
ただ一人ひいおばあちゃんだけは
「あれはいたずらをしているのではなく
”実験”をしているのだから叱ってはいけない」
と”評価”した
この場合
たとえ”実験”であろうが
それはとても困る事なので
親としては悠長に構えてはいられない
当然
「めーーっ!!」と
手をつねられることになる
それでもこの息子はいっこうにひるまなかった
どうしてもやってみたい事は
「めーーっ!」が待っていても
絶対にやる
そのうち
叱られるとわかっている事をする時は
やったあとで
自ら手を差し出して
「めーーっ!!」と言うようになった
気が済んだから叱ってもいいよというのだろうか
こうなるともう気が萎えてしまう
お手上げだ
親の言いなりになる子と
そうならない子の違いは
それぞれの生まれ持った性格から来るように思う
どんなに親が厳しく言い聞かせても
自分の思うようにする子は
親の理想通りにいうことは聞かない
親の言いなりになる子は
いかにも親が押し付けたようで
実は良い子として誉められることに
自分でも安堵感を求め
その中から出ようとしなかったという場合もある
もっと大らかな親の元に生まれたら
幸せだったかもしれない
しかし
親子の出会いは運命だから
子は親を選べないし
親も子を選べない
運命にはただ従うしかない
人はみんな失敗を繰り返して生きているので
取り返しのつかない過去が
日々作り出されている
もしみんながその過去を引きずって
恨みを抱き続けたらどうなるだろう
それでも
過去の事だからと忘れようとする人
もういいよと許す人
そういう自ら”引く人”があるから
世の中は何とか保たれている
「させられた」とか
「押し付けられた」とか言いながらも
それは自らが選んだのかもしれない
自分で良い子になろうとした
そうならば
全てが人のせいではない
それを全部人のせいにして
自分を悲劇のヒロインにする事は
自らを不幸にするようなものだろう
過去を引きずる限り
その人はいつまでも過去で止まったままだ
人生が2度経験できたら
きっと今の生活に納得がいくだろう
そうならないところが歯がゆいところであり
また面白いところでもある
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