老後を生きる
以前から母は
「お花を習いたい」
と言っていた
昔ながらの”○○流”の生け花に固執しない
もっと自由なスタイルを望んでいるようだ
昨年から足を悪くしていて
定期的にきちんと通う事がむずかしいので
気ままに習える所があればと探していたら
今日やっと良さそうな先生を見つけた
母がまだ
祖母(母の実母)と二人で暮らしていた頃
2ヶ月ばかり
テニス教室に通った事がある
「高校時代にやっていたテニスをもう一度やってみたい」
ただ何となく言った母の言葉を聞いて
今ならまだ間に合うかもと
わたしも付き合うことにした
正直言って
わたしはテニスが好きではない
大学の体育の授業で
2本もラケットを折ってしまい
2本目の時にはさすがに先生に言いづらくて
箱の下の方にこっそり入れてごまかしてしまった
二十歳の頃の事だから
もう時効だろうけれど
あれからテニスは嫌いなのだった
だが
親の願いはできるだけかなえておきたい
ちょうど兄の家の近くに屋内コートがあって
その地区の人が利用できるようになっていたので
兄が道具をそろえてくれたり
申し込んでもらったりの準備がすすむ
わたしは義姉の名前を使わせてもらった
これはまだ時効ではないけど・・(苦笑)
その教室は
”初心者コース”だったが
本当の初心者は私たちともうひとりだけで
あとはみんな2年以上続けている人ばかり
しかも
毎日のようにお弁当持参でここに通っているとの事
こんなのサギじゃあないの!?
とぶつぶつ思いながらも
もうついて行くのに必死と言うか
いや
とてもついていけない状態で
えらく恥をかいた
それでも何とか基本をマスターして卒業
それからは
朝5時に起きては近くの公園へ通って練習
母は凝り性だから
何でもはじめたら一生懸命やらないと気がすまないのだ
わたしはというと
習い事は苦手の怠け者で
ちょっと”さわり”だけ知っていれば
あとは自分で気ままにやればいいじゃないかという方
最も上達しないタイプだ
それでも母の熱意におされて付き合う
しかし
そのうちひじを痛めてしまった
そうこうしているうちに
今度は母が足を悪くしたので
もうテニスどころではなくなってしまった
それでも
本人は気がすんだみたいで
良かったなと思っている
母がうちへ来て一緒に住むようになって2年になる
それまでいつも人のために生きてきた母には
”自分の楽しみ”がない
いつかそれが必要になると
わたしはずっと言っていたが
母はあきらめたように
「もう人生は終わったようなものだから」
と言った
祖母と暮らしていた頃には
祖母の楽しみを手助けするために
代わりに買い物に行ったり
あれこれと気を使っていた母
祖母は”作ること”が大好きな人で
エプロンつくりに凝ってみたり
花つくりに凝ってみたり
やり始めたらとことんやるので
アシスタントが必要だった
それが母の役目だったわけだ
そんな祖母も亡くなり
間もなくうちへ来て実感したのが
「母がいなければ生きていけない人はもう誰もいない」
という現実だった
来たばかりの頃は
みんなの役に立とうと気を使って頑張っていたが
うちはそれぞれが全員自立していて
自分のことは自分でやることが徹底しており
むしろ手出しされる事がわずらわしい
考えてみれば
今まで母の周りに存在した人々は
手をかけ、気を使ってもらうことを好むタイプの人ばかりだった
世の中には
それと真反対なタイプが存在する事を
母は初めて知ったのだった
そうなると
母は急に寂しくなってしまった
大人も子どもも自分の世界をもっているのを見て
母は言った
「わたしには何もない」
だから言ったでしょう?!とばかりに
わたしは母に趣味を持つことを再びすすめる
わたしが以前使っていた編み機を出してきて
それを習い始める
むずかしいと悩みつつも
いつの間にかかなりはまっている
若い頃作っていた俳句は
もう今は自分にあった先生がいないので
すっかり自己流で気ままに作っている
毎日ホームページの表紙にでてくる”たぬき”は母の化身
やっと自分の世界がすこしずつできてくる
そして今度はお花を習う
人の最後は自分らしくあって欲しいと思う
もうこの年だからと人生をあきらめないでもらいたい
祖母は
亡くなる少し前までずっと
ひ孫のために人形の服を作って楽しんでいた
子どもが巣立って自立したら
あとはしっかり自分の人生を楽しむのが良い
大きなお世話かもしれないが
年金をせっせと孫にあげるのは止めたほうがいい
そんな風にしていても
いざと言う時に知らん顔をする孫はいっぱいいる
悲しいことだがこれが現実だ
それよりも
自分がめいっぱい使って楽しんで
その生き生きした姿を子供たちに見せておいたら
年をとるのも悪くはないと思うだろう
子供たちは
母からお小遣いをもらうことはないが
(それは母の主義であり、私の主義でもある)
とても母に優しくしてくれるので安心している
家の祖父母が不自由だったために
よく母の所にあずけられていて
世話してもらったのを忘れていない
そう、一生忘れてはならない
あの助けがなかったら
わたしは義父母を世話する事はできなかった
時代はめぐり
助け、助けられて時は流れていく
恩はいつか返さなくてはならないのだ
数年前
兄がパソコンを母に教えてくれたので
インターネットもできるし
まだ車にも乗れるし
仕事も色々増えたし
母は今けっこう忙しい
これまで”夢”とあきらめていたことも
かなり実現した
でも
なかには実現が無理な事もある
祖父(母の実父)が亡くなる年に
親族が集まって山陰へ旅行した事がある
その時電車がスキー場の側をとおり
母はスキーをやってみたいと思ったらしい
ちょうど今のわたしの年齢だった
それを父に言ったのか言わなかったのか
その後結局そういう機会はなかった
今は足も悪いし
極度の寒がりになっているし
これはさすがに無理だなとわたしも思う
何でも”時”があると
つくづく思うのだった
<目次 次へ>