働きの値


今日いつものように
午後からもう一つの教会へでかけたあと、ふと気づいた
しまった、息子に「車洗っといてよ」と言えばよかったなぁ、、、
前回の洗車が先月四国へ出かける前だったから
もうそれから一ヶ月以上になる
”車は動いて乗れればそれでいい”
その程度にしか思っていないので
いつまでも運転は下手だし、エンジンルームなど開けたこともない(苦笑)
というわけで
いつの頃からかわたしの車を洗うのは
子どもたちの仕事になった

先日は娘と餃子の皮を包みながら
わたしもこうしていつも母のお手伝いをしていたよね
と思い出す
コロッケに衣をつけるときは
粉、とき卵、パン粉がきちんとついていないと
揚げたときに穴があいてしまう
つけ方が悪いと言っては叱られ
ある時は揚げ方がマズくて中味が流れ出して叱られた
せっかくお手伝いしてるのにそんなに怒らなくてもいいじゃない、、、
内心そう思っていたものだが
今はわたしが娘に同じように文句を言っている(苦笑)
だってこれが失敗したら今夜のおかずが台無しになるわけだから
その辺はシビアーにならざるを得ない
お料理は遊び感覚ではいられないのだ

掃除、買い物、料理・・・その他色々お手伝いをするうちに
子どもたちがポツリと言う
「よそのうちではお手伝いをするとお小遣いが出るらしいよ」
それそれ!!
わたしもかつて母に同じ事を言ったものだ
そうすると母は猛然と怒り出して
「お金を目当てにお手伝いをするものじゃない!」と
えらく叱られてしまった
それ以後二度とわたしがお小遣いを要求しなかったのは言うまでもない

ほんの些細なお手伝いも
家のために役に立っている
もちろんそれは自分のためにもなる
それが直接収入には結びつかなくても
目に見えない『働きの値』はちゃんと積み重ねられているように思う
わたしは子どもたちに
昔自分が叱られた話をしながら
「だからお金は出ないのよ」と言った
よそにはよその、うちにはうちのやり方がある
うちの子どもはうちのやり方に従うべし

今の年になって思う事だが
人はもちろん生活するためのお金を稼ぐのが目的で働くわけだが
もしすべてがお金目的だったら
きっと金額に見合った以上の働きはムダと感じるのではなかろうか
世の中には「労を惜しまない人」と「労を惜しむ人」がいて
前者はその場ではちょっと損をしているみたいだが
後々かえって大きなものを得ているような気がする

そんなことを子どもたちが実感するのは
まだ先のことかもしれない
でもとりあえず無償で働く事の習慣が
「労を惜しまない人」としての成長につながればいいなあと思う
わざわざよそに出かけてのボランティアもいいけれど
まず家のために働けたら
きっとよその人のためにも働く事ができるだろう

家に帰ってから
「今日は車洗うの頼んどくんだったのにぃ〜」と息子に言うと
「じゃあ今からでも洗おうか」と外へ出る
5時過ぎていてもまだまだ外は明るい
いつの間にかこんなに日が延びているんだなあ・・・
あらためて春が近いのを感じた





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