天下のまわりもの


今日は午後から
息子の高校の三者懇談があった
午前中は補習授業に出ているので
家には帰らずわたしが来るのを学校で待つ
お弁当を持たせようかと思ったが
たまにはパンも買いたいだろうということでお金を渡した

息子は
学校のある日の土曜日だけ
午後からもうひとつの教会で行われる礼拝に出るため
昼食代をもらって出かける事になっている
うちは滅多に外食する事がないので
息子にとってはこれはちょっとした楽しみだ
いや
この楽しみがあるからこそ
ちゃんと礼拝に来ているともいえる(笑)

高校生になると
お弁当を持ってくる子はもちろん多いものの
パンを買ったり
食堂にいったりするために
お金をもらってくるケースも多いようだ
そして
その時もらうお金のお釣は自分のものになるため
食べるものをせっせと節約しては
新しい携帯を買うための資金をためている友人の話も聞いた

そんなにしてまで携帯って欲しい?
わたしは何度もこの質問を息子に問いかけているのだが
答えはいつも
「そりゃ〜携帯は生命線みたいなもんだからね」
などと、あっさりしたもの
先日息子もついに新しい携帯を入手したために
お小遣いの月額が減ってしまったわけで
そういう意味では
食べるものを削ってせっせと携帯代を貯めている友人と
状況は同じだ

以下、わたしと息子の会話

わたし「携帯のためにご苦労なことよねえ」
息子 「まあね、だけど”金は天下のまわりもの”だし」
わたし「はぁ・・?」
息子 「
だからあ、出したお金もいずれはまた戻って来るんだよ」
わたし「ただ浪費しただけでどうしてお金が戻ってくる?」
息子 「お金で戻ってくるとは限らないね」
わたし「・・・・・?」
息子 「例えば払った税金で道路をなおしたりするわけでしょ
     それはこちらに戻ってきてるのと同じだよ」
わたし「そうよねえ」
息子 「だからここで携帯に支払ったお金もどこかでまわって
     いつか戻ってくる」
わたし「ははあ〜、消費が増えれば世の中の景気が良くなって
     それはまた個人の生活にも影響するってこと?」
息子 「そうそう〜」


何だか浪費の正当性を論じて丸め込まれたみたいだが(苦笑)
確かに世の中ケチばかりになったら
お店も会社もたちまち成り立たなくなる
同じお金を使うなら
世の中に貢献したと思った方が後悔がなくていいのかも(笑)

息子は相変わらず今も朝早い電車で出かけていて
学校では始業まで一時間も時間があるらしい
その間に宿題をしたり遊んだり
早く登校してくる友達と
しばしの交流も楽しんでいる

毎日のように
「宿題を写させてくれ〜」という友人もいるし
そういう子が結構優秀で
時には勉強のわからないところを教えてくれるらしい
別に見返りを期待して宿題を見せているわけではないが
それも和やかな人間関係となって
息子の学校生活を楽しいものにしているようだ

どんなに優秀であっても
その秘訣を自分だけのものにしておこうとする人は
あまり好感をもたれない
人はひとりだけで生きているのではないから
常に与えたり与えられたり
譲ったり譲られたり
目には見えない輪のようなものが世の中でまわっている
「わたしはいつも出してばっかりのような気がする」
時々そんなことを言う人もあるけれど
実際には気付かないところで色々なものを受け取っているのだろう

銀行が貸し渋りをしなければ
小さな企業も生き残る事ができ
それが日本の将来のため
いずれ大きく役立つかもしれないのに
”出さない”ことで
世の中の循環もあちこちでズタズタになっている

ただ
企業も赤字体質を改善する努力をする事も重要だ
いくら銀行が貸付したとしても
それに甘んじてやり方が変わらなければ
世の中に対して何も還元できない

そう考えると
「夏休みのうちに友達とカラオケに行きたい」とか
「ヘアワックスがほしいなあ」とか言って
常に景気に貢献したくなる息子には
おこづかいの範囲で頑張ろうとしているのはわかっていても
わたしは思わず貸し渋り銀行のような気持ちになって
身構えてしまうのだ(笑)

とはいえ
わたしが高校生の頃に比べて
世の中は随分と派手になっているから
今時の子ども達は何かと大変だと思う
(親も大変)
”携帯は生命線”
それほどまでに重要なものって
あの頃の何に相当するのだろう?
いや、それほど重要なものってあったかしら??
息子の話も娘の話も
何かとカルチャーショックが大きくて
古い人間のわたしは話のたびに
「ふ〜ん、、、」という言葉を連発してしまうのだった





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