今週のみことば


3月19日


「あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え
あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って
主に仕えなさい
もし主に仕えたくないというのならば
川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも
あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも
仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい
ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます」
(ヨシュア記24章14-15節)

昨年6月27日からヨシュア記に入り
士師記、ルツ記と進んできましたが
この有名なヨシュア記24章のみことばを読む時
どの時代にあっても問われているのは
「あなたはどの神を選ぶのか」ということなのだと教えられます

ヨセフの時代にエジプトに移り住んだイスラエル人は
長い年月の間に増えていき、迫害されるようになりました
そのためモーセをリーダーにカナンの地を目ざしてエジプトを出た時
神は40日でその「約束の地カナン」に導いてくださったにも関わらず
イスラエルの民はカナンの地に住む人々を恐れて、神の言葉に従わなかったのです
そのため彼らは40年間も荒野をさまようこととなり
その間に、多くの試練と神よりの助けを経て
神がどういう方であるかを知らされていくのでした

やがてカナンの地を目の前にしてモーセは死に
代わりにヨシュアが指導者として立てられ
彼らは念願のカナンの地に入っていきますが
そこからは先住民との戦いの連続でした
しかし、そこでの戦いには、すべて神の知恵と力が働き
それに従う時にはどんなに強い相手でも勝つことができたのです

このすべての戦いは
「人の力ではなく、神が自ら戦い、そして勝利する」ことを証明するものでした
今わたしたちがイスラエルの一連の戦いの記録を読む時に
一番理解しなくてはならないのはこのことです
つまり、それはわたしたちの人生の戦いにも同じことが言えるからなのです

イスラエル人がカナンの地に入るにあたり
神はヨシュアに、その地の民を滅ぼすことと
彼らと婚姻関係を結んではならない事を命じました
それは、彼らと交わることによって彼らの神々を崇めるようになるからです
実際にイスラエルの民はしばしば自分たちの神を忘れ
別の神々を崇める過ちを繰り返し
自分たちが行き詰ると神を思い出して助けを求めてきました
そのたびに神は助けてくださいましたが
彼らはその愛の神を何度も裏切るのです

カナンの地に入って最初の戦いはエリコでした
そこでは城壁の周りを黙って回るという不思議な戦い方が示され
最後に堅固な城壁は崩れました
ここで神は「人手を要しない神の戦い」を具体的に示されたわけです
またそこではラハブというカナン人の女性がイスラエルを助け
彼女はその後イスラエル人の中に加わっていきます
彼女はカナンの地の神よりも、イスラエルの神を選びました
その一方で
イスラエル人でありながら
カナンの地に住む人と婚姻を結び、その地の神を崇める者も出てきました
彼らはイスラエルの神よりも、他の神々を選んだのです
こうしてカナンの地に住む人を滅ぼさず、和を結ぶなどしたことは
彼らの中に「災いの種」を残すこととなります

わたしたちはイエスの名によって救われたクリスチャンであっても
心の中にはそれぞれ「自分の思い」というものが残っていて
例えばそれが「自分を誇る心」であるなら
その思いがすなわち偶像となって、災いの元となるわけです
そのような「自分の思い」とは「神に反する思い」であり
その「肉の思い」を滅ぼすべくわたしたちは戦っていかなければなりません
もしそういう思いを滅ぼしていかないなら
それはやがて心の中に「不満」が起こる種となるからです

心が揺れるイスラエルの民を前に
ヨシュアは各々に自分の神を選ぶように言いました
そして同時に、自分と家族はこのイスラエルの神に仕えると誓うのです
置かれている状況がどんなに厳しくあっても、いや厳しいからこそ
真の神の方を選ぶ信仰はルツにも表れていました
彼女はモアブの女性でしたが、イスラエルの神を選んだのです
そのことが彼女を”知らないうちに”幸いへと導いたことは
今までルツ記を通して学んできました

この”知らないうちに”神が働いてくださること
ここに大きな意味があります
それが小さいことだと人は目に留めようともしませんが
ここが分からなければ神のご計画の全貌もわからず
そこには感謝も生まれないでしょう

ヨシュアがイスラエルの民の前で宣言したことは
固い信仰に基づく決意です
しかし
ヨシュアが死に、士師がイスラエルを治める時代になっても
イスラエル人はカナン人の持つ武器に脅されて
せっかく神から与えられた領地を離れ逃げて行きました
その様子を憐れむ神の働きによってイスラエルはまた勝利するのですが
士師がいる間はイスラエルは守られていても
安泰な日々が訪れると、彼らはまた神を忘れていくのです

そんな士師記の時代の中にルツ記はあります
自分たちの住んでいた場所に飢饉が起こったことから
エリメレクとナオミは自分たちの考えで与えられた地を離れてモアブへ行きました
そこで待っていたのはエリメレクと二人の息子の死
残されたナオミと、二人の嫁オルパとルツは
それぞれ自分の神を選んで出発するのでした
ナオミの神を自分の神として選んだルツは
やがて神の壮大なご計画を知ることとなります

神のご計画というものはあまりに壮大で
短気を起こすとわからなくなってしまいます
人が置かれる場所は、自分が願う場所と違うことが多く
そこに自分の面子や欲を追いかけていると
最後に待っているのは「滅び」です

わたしたちの心の中に残っている「思い」が災いの元となり
人生を狂わせるのだとしたら
その思いを滅ぼそうとせず
神の言葉をないがしろにすることは
どんなに恐ろしいことでしょうか

そのような人生は「サタンに束縛された」状態です
それでも、イエスの名による救いを受けたクリスチャンは
肉の思いで心が揺れることはあっても、神も働いてくださるので
その心の戦いに勝利することができます
これが本当の意味で「自由な人生」であり
この自由をわたしたちは「神に喜ばれる者」としての生き方に使っていくのです

クリスチャンにとって「救い」とはどんなに大きなことであるかを
自分の人生を振り返りつつ確認しましょう
そして、ここまで”知らないうちに”助けられ、生かされてきたことに感謝しましょう
そうする時に「喜び」があふれてきます

信仰の世界で重要なのは、この喜びがあふれてくることです
それを知っていれば、どんなことがあっても神から離れることはありません
神の祝福から離れないことが喜びにつながり
そのような人の信仰を神は喜んで下さり
いよいよ守られていくからです

聖書には大切な「忠告」があります
人はそれをなかなか守ることはできなくても
そこから学んで教えられ、一歩一歩従っていける人は幸いです
これは
自分が今まで「正しい」と信じて生きてきた常識も変えていくこととなり
すでに出来上がった自分の考え方や常識をくつがえすのは
自分の誇りに固執する人には難しいことですが
それでも神の方を選ぶ人には必ずできることなのです
そう確信して、希望をもって、前向きに進んで行きましょう



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