今週のみことば


2月8日
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「では、ユダヤ人の優れた点は何か
割礼の益は何か
それはあらゆる点からいろいろ指摘できます
まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです」
(ローマ人への手紙3章1-2節)

2章の終わりの
「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく」
「内面がユダヤ人である者こそユダヤ人」
という記述を見ると
”神の民”と言われるユダヤ人は何が特別なのだろう?
ということになります
そこでパウロは言いました
『彼らは神の言葉をゆだねられたのです』

以下、「神の言葉」についてのみことばを引用します

「というのは、神の言葉は生きており
力を発揮し
どんな両刃の剣よりも鋭く
精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して
心の思いや考えを見分けることができるからです」
(ヘブル人への手紙4章12節)


「神の言葉」は単なる文字ではなく
人の心の奥まで見分ける力を持っています
かつて
神によって選ばれたアブラハムは
「祝福の約束」の言葉を与えられ
その道に従っていきました
そして
アブラハムの子孫であるイスラエル人を
エジプトからカナンの地へと導いたモーセは
神の律法である「十戒」をゆだねられ
この律法によって彼らは信仰を試されたのです
しかし
人間の心は弱く
神の律法を完全に守ることのできる人はいませんでした


「神の約束と律法」について


神の律法である「モーセの十戒」については
上記のページを参照してください
ここに記された10の戒律のうち
例えば
Dあなたの父母を敬え
という律法を
わたしたちは完全に守れるでしょうか?
神の律法は心の中まで見られるものなので
親に対して心の中で不満に思うこともダメとなると
誰も守れるわけがないと分かるでしょう
他にも
”I隣人の家をむさぼってはならない”
という律法が
他人の持っているものを
心の中でうらやましく思うだけで
あなたはそれをむさぼっているとするなら
誰も完全に清い人はいません
このように
残念ながら人間は
自分の心に思うことも行動も
完全に正しくコントロールできない生き物なのです

「では、どうなのか
わたしたちには優れた点があるのでしょうか
全くありません
すでに指摘したように
ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです
次のように書いてあるとおりです
『正しい者はいない
一人もいない
悟る者もなく
神を探し求める者もいない
皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった
善を行う者はいない
ただの一人もいない』」
(ローマ人への手紙3章9-12節)


こうして
神の律法は
「だれ一人神の前で義とされない事」を明らかにし
律法を真剣に守ろうとするほど
現実にはそれができないことを
(人間が罪深い存在であることを)
自覚することになるのです

「ところが今や
律法とは関係なく
しかも律法と預言者によって立証されて
神の義が示されました
すなわち
イエス・キリストを信じることにより
信じる者すべてに与えられる神の義です
そこには何の差別もありません
人は皆
罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが
ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して
神の恵みにより
無償で義とされるのです
神はこのキリストを立て
その血によって信じる者のために
罪を償う供え物となさいました
それは
今まで人が犯した罪を見逃して
神の義をお示しになるためです
このように神は忍耐してこられたが
今この時に義を示されたのは
ご自分が正しい方であることを明らかにし
イエスを信じる者を義となさるためです」

(ローマ人への手紙3章21-26節)

上記のみことばは
キリスト教において最も重要なところです
つまり
「人は律法では義とされない(救いがない)」

「キリスト・イエスの贖いの業
(完全に正しい方が十字架にかかり血を流す)」

「イエスを信じることにより
誰でも無償で
神の義(救い)が与えられることになる」

「イエスの名による洗礼(水のバプテスマ)を受けることで
義とされる(救われる)」

これが
神による救いが与えられる一連の流れであり
こうして
洗礼を受けてキリスト・イエスに結ばれた者を
クリスチャンと呼びます

しかし
自分を信じ
自分の考えを主として生きていきたい人にとっては
イエスを信じ
救いを受け
神が定めた運命に従うキリスト教の教えは
受け入れがたいものがあるでしょう
それでも
どんな人であっても
自分の力で生きていけるわけではなく
自分でやっているようで
実はすべて神の手の内にあるということを
色んな形で自覚させられる機会も
あるかもしれません

さて
ここまで
「人が義とされる(救われる)のは
律法の行いによるのではなく信仰による」と
強調してきましたが
それでは救われたクリスチャンにとって
神の律法はどのような扱いになるのでしょうか?
その答えが
3章の最後に記されています

「それでは、わたしたちは信仰によって
律法を無にするのか
決してそうではない
むしろ
律法を確立するのです」(31節)


そもそも人は
律法を完全に守ることはできませんが
クリスチャンになるということは
義とされる=律法を完全に守った者とされる
ということになります
また
別の言い方をすれば
「神の国に入ることができる」わけですが
各々の人生において
実際に「神の国(天国)」を体験する
すなわち
救われていることを実感するには
神と共にある信仰生活が必要になります

なぜなら
信仰は自分から出たものではなく
神から与えられた恵みですから
救われてからは
信仰を自分のものとして確立するために
信仰の歩みが必要となるわけです

人はよく「やる気が出ない」と言って悩むように
気持ちの持ち方は
自分の頑張りではどうにも変えようがなく
その変化には何かきっかけがあって
ふとわいてきた「やる気」も
存続には努力が必要になるでしょう
信仰もそれと同じです

もし
神の恵みを受けて救われても
信仰の歩みがなければ
人はそれまで助けられた感謝を忘れ
神の働き(奇跡)をも
自分の手柄にしてしまうかもしれません
そのような心の弱さとは
常に隣りあわせなので
クリスチャンは決して傲慢にならないためにも
神を忘れてはなりません

更には
人は神の律法を完全に守ることはできないとはいえ
神を信じる者は
人に対して理不尽な事や悪いことは
神を畏れるがゆえに
できないのではないでしょうか

キリスト教の信仰は
上辺を見る信仰ではありません
神からその心は見られており
わたしたちも
神の視点から
自分や人の心を見ることが大切です
神の心をもってこそ真実が見え
正しい判断もできるでしょう

神の言葉は
従う時に力があり
従わなければ何の役にも立たないものです
神の言葉をゆだねられたユダヤ人と同様に
今は異邦人であるわたしたちにも
その救いのチャンスが与えられていることに感謝し
信仰生活による神の恵みを知って
人生にある天国を体験することができますように

「神の素晴らしい言葉と
来るべき世の力を体験しながら
その後に堕落した者の場合には
再び悔い改めに立ち帰らせることはできません
神の子を自分の手で改めて十字架につけ
侮辱する者だからです」
(ヘブル人への手紙6章5-6節)




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