いいかげんな話



<愛の話 3〜相互理解>

先日、姪の結婚式を取り行うために家族で出かけたが
もう何度も聞いている誓いの言葉が
今回は何かとても新鮮なものに聞こえた

  『なんぢ、その健やかなる時も、病める時も
   これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け
   そのいのちの限り、堅く節操を守らんことを誓うか』

この定番の言葉の何が新鮮かというと
これが新郎新婦両者に同じように問いかけられるという点だ
決して片方だけがそうするのではなくて
”お互い”にということが重要ポイントなんだとふと感じた時
誰もが簡単に形式的に「はい」と返事をするこの内容の実践は
生涯を通しての課題になるのだと思わされた

各々の考え方というものは、育つ過程や環境で随分違っていて
問題が起こるたびにその違いは浮き彫りになる
その時、お互いが”分かってほしい”と願い
お互いが”わかってもらえない”ことを嘆くが
もう一歩進んで
”分かってあげたい”と願い、”分かろうとする”努力をするに至るには
お互いが少し変わる必要が生じてくる

自分の考えが絶対正しいと信じている人ほど
自分の思い通りに動かない人を見るとイライラするものだ
ただし、正しいとする根拠(実証するもの)を明確に示すことができなければ
人は簡単には動かない
逆に、この人は信頼するに足りると確信させる事実を見れば
説得しなくても人は付いてくるだろう

自分の考えを絶対正しいものとして一方的にガンガン押し付けるのは
夫婦であれ、親子であれ、師弟であれ、職場の上下関係であれ
男女問わずそれは「暴君」のやり方になる
もしそこに相手を”分かってあげたい”と願い、”分かろうとする”努力をする「心」があれば
自分の「思い」を抑え、冷静に判断する(反省する)ことも可能になるはずだが
残念ながら暴君にはその「心」つまり「愛」が欠けている
一方、そんな暴君に(恐怖で)支配されている「下僕」の存在が
ますます暴君を暴走させてしまうのは皮肉なものだ

この世の中には
「尽くす人」と「享受する人」のバランスの上に成り立つ理不尽な世界があり
教会には、”どう考えてもおかしいでしょう?!”と唸りたくなるような
極端な関係の問題が持ちこまれるが
「尽くすこと=愛」だと思っている人には、”お互いに”というバランス感覚がない
そこには自分自身を労わる愛が欠けているので、いつか行き詰ってしまうことになる

聖書には
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という言葉が何度も登場するように
自分が自分を愛し労わることは前程として、その上で隣人も・・・となるわけで
自分を大切にできなければ、だれが代わりにそれをしてくれるのだろう?
ところが、日本には昔から”自分を大切にする”という習慣がなく
”自分を大切にする”のと”わがまま”の線引きが難しいように思う
それは
そもそも”人間は本来弱いものだ”との考え方が根底にないことにより
修行によっていくらでも強く立派になれると信じる思想からくる弊害なのかもしれない
また、反対に
「暴君」のような、自分のことしか考えない人も同時に存在するため
ああなってはいけないという教訓から
ますます自分に厳しくなる人も出てくる事を思うと
”お互いに愛を持って”・・・というちょうどいい感覚に至るには
”何が愛なのか”との具体的な教育が必要になってくるのだと思う

3年前、わたしは「人の世話」よりも「自分の世話」の必要性について記している
(『更年期と向き合う 〜エネルギーの仕分け』参照)
この中に書いた「むずむず足症候群」の症状は当時より随分軽くなった
カチカチに固まっていた足の裏も柔らかくなり
寝る時の、足の上に重りが乗っているような感覚もほとんどなくなっている
今は、特にわたしと同年代の人々には
「もう自分のことを大事にした方が良いよ」と勧めることが多い
というのも
すでにみんな体に何らかの不調を抱えいっぱいいっぱいになっているからだ

生まれ育った環境で培った感覚(正義感)は
それが常識的には正しいことであるからこそ当然持ち続けていくものだ
だがわたしは、自分の弱さや限界を知るにつれて自分の感覚を疑うようになり
一方で、自分のことをちゃんと知ろうと思うに至る
自分の本質を理解しようとすることは
やがて自分以外の人の本質を分かろうとすることにつながり
分かろうとすることで見えてくるものがあることも分かってきた
むしろ、自分のこともわからないのに、どうして人のことが分かるだろうかと今は思う

”各々の考え方というものは、育つ過程や環境で随分違う”
社会は、そんな”違う人々”で構成されているから
相互理解はなかなか難しい
人は自分の人生しか生きていないので
他の人の人生については想像するしかないが
”もし相手の立場だったらどうだろう?”と想像してみるだけでも
今まで気づかなかったその人の苦労や苦悩が見えてくる
特に自己主張をしない人の場合には
抱えてきた重荷は誰からも気づかれないままだ

人の中には、自分の苦労話を何倍にもふくらませて主張する人と
まるで何もなかったかのように封印する人があって
前者は注目や同情を集めやすく、後者はむしろ誤解を受けやすい
なぜなら、世間は苦労をしている(ように見える)人を評価し
苦労知らずに見える人のことは軽視する傾向があるから、、
それでもあえて後者を選ぶ人にとっては
”分かる人は分かってくれる”というのが究極の希望ではないだろうか

同情されたくはないけれど、無視されたいとは思わない
誇り高く生きようとしても、過去に対する心の中のわだかまりは消えず
それでもなんとか前を向いて生きている
そんな自分のことを本当に分かってくれる(分かろうとしてくれる)人がいたら
どんなに嬉しいことだろう
何か特別に評価されたいわけじゃなくて
そこに「心」つまり「愛」がほしいと願うことは
人が最後に求めていく所なのだと思う


(2014.10.18)



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