いいかげんな話



<6.Let go and Let God>

さまざまな不安障害と戦う時の相手は「不安」という漠然とした存在であり
それに対抗する「安心感」を得るために
自分自身に「自信」をつけようと
自分の基準では危険と思える行動をあえて取るという「思い切り」も必要になる
言いかえれば、この「思い切り」がなければ先へ進むことは難しい
(以上昨日の記事より抜粋)

さて、不安障害の「不安」と向き合うために
認知行動療法を取り入れるとして
そこで誰かに手伝ってもらったとしても
最後にどうしても必要な自分自身の「思い切り」つまり「勇気」について
それがどこからやってくるのか?
あるいはどうひねり出すのか?
結局ここがわからなくてみんな悩んでしまうのではないだろうか?!

そんなの「えいや〜!」といってやればいいじゃないか、、
と無責任なことを言う人もいるのだが
かつて20年間も『強迫性障害』をもっていたわたしは
人に長年とりついた不安は
「えいや〜!」の掛け声で何とかなるような代物ではないことを知っている

出かける際、戸締りや火の元を何度確認しても心配で心配で
無駄な時間ばかりを費してしまう日々の中
いっそのこと出かけなければ心配もないだろうとまで思うようになったが
更には「数へのこだわり」も加わって
不安はますます増えるばかりだったことを思い出す

くわしくは『神経症との戦い』参照

結局、20年も悩んだ強迫性障害から逃れるきっかけは
一言でいえば
どんなに完璧を望んでも「自分には力がない」ことを悟ったからだ
その時わたしは必死で保っていたプライドを手放した

今回のタイトルであるLet go and Let GodのLet go は
「手放す」「リラックスする」という意味がある
そして Let God は「神にまかせなさい」

わたしは恥ずかしながら
すでにクリスチャンであったはずの18歳から38歳までの20年間
「神の領域」というものを理解していなかったのだと思う
そういう考え方そのものが
わたしが育った家には伝わっていなかったからだろう
多分、日本の多くの家には
「頑張る文化」が伝わっているのではないだろうか

力のないただの人間であるにもかかわらず
失敗のない人生を自分の頑張りで作るのだと考えていたあの頃・・
そうすることで不安から逃れようとすればするほど不安はついてきた

人は、分を超えた理想に惑わされて
「神の領域」に踏み込もうとする時
そこに得体の知れない不安が生れてくるのかもしれない
そして
認知行動療法が欧米で効果をあげ、広く普及しているのも
そこに「神の領域」という前提があるからこそ可能なのではないかと思う

人生は、頑張っても理想通りにいかないことばかりだけど
それでも各々自分のできる範囲で
とりあえず前を向いて進んで行きたい
その先に何があるのかは「神の領域」なのだから

本当の未来は誰にも見えない
不安を持って見る未来には不安が見え
希望を持って見る未来には希望が見える
わたしは希望を選びたい


(2013.3.7)



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