いいかげんな話



<理想と現実 8〜不安症>

最近また足の甲に突っ張った痛みを感じるようになった
これは以前の『むずむず足症候群』のような感じで
ああきっと色々心配事が増えているんだなあと
自分自身を分析してみている

『むずむず足症候群』についての2011年の記事はこちら

わたしの場合、この症状は
自分の容量がオーバーしたサインとして起こり
その容量オーバーの要因は確実に「心配し過ぎる性格」にある
この性格のせいで、わたしはいつも何らかの不安を抱え
先回りして災いを防ごうとしては無意味な行動を繰り返していた
だが、自分の中に起こる不安はほとんど「想像の産物」で
振り返れば必要のない事ばかり必死になってきた感がある
かつて「強迫性神経障害」に悩まされた時代は
まさにこの「想像上の不安」の中にどっぷりつかっていたわけだ

そして今もわたしは不安から完全に解放されているわけではなくて
この世に生きている間はずっと続くものなのだろうと思っている
ただ、確実に思うのは
不安に振り回される(支配される)ことはなくなったなぁ・・・ということ
それだけ「自分の力に固執する」ところから離れて
「神さまにまかせる」という感覚が広がってきているのだろう

では、わたしに起こる「想像上の不安」とはどういうものかというと
極端な例としては
アイロンがそこにあるだけでコードが勝手に伸びてコンセントにささり
スイッチが入ってコケて火事になるかも?!と想像し、心配で外出できなくなる・・
というような
つまり現実にはあり得ない被害妄想レベルなのだけど
(ホント自分でも頭がおかしいんじゃないのと思う)
そのふくらむ妄想が止められないのが不安症の怖いところだと思う

これについては、何だそんなのバカバカしい!と思う人でも
「縁起」や「迷信」からくる不安については
あり得ないと思う一方で
実際に不幸になる自分を想像して不安になる人は
かなりあるんじゃないだろうか

更には、そういうあり得ないことを想像してしまう人にとっては
可能性がゼロではないことのすべてが不安材料になる
この可能性がゼロではない不安材料は周りにあふれているため
その重みには到底耐えられなくなり
やがて不安は病的になっていく(不安症)
そして
こういうものに振り回されていたら最後はどうなっていくのかと思うたびに
わたしは遠い昔に聞かされた「ある話」を思い出す

その話とは、ある若い医師に起きた悲劇だ
彼は当時新しく知るすべての病気を自分に当てはめては
自分に少しでも同じ症状がないか探すことに躍起になっていたという
そしてついにはその病気の想像から来る不安に耐えられなくなり
若くして自ら命を絶ってしまったのだった
自分がそれらの病気になる可能性は非常に低くても
彼にはその確率の数値など関係なかったのだろう
このように
「絶対大丈夫という確信」が欲しくても与えられない現実に絶望し
不安に駆られて正気を失う人の事を
わたしは本当に気の毒だと思う
それは、不安に駆られる自分を止められない経験があるからだ

不安は自分の力で追いはらおうとしてもずっとついてくる
それどころか、追い払いたいと願う一方で
自分で不安材料を探し、いよいよ不安になるように仕向ける自分がいて
不安症の思考回路は
もはや何かに誘導されているレベルだと思われる

豊かな想像力は、勝手な妄想と紙一重だが
この両者の区別は自分ではつけられず
かといって他者から指摘されても簡単に納得するものではないだろう

・・・と、ここまで書いたところで
わたしは風邪をひいて、3日間寝込んでいた
熱は出るわ、咳はひどいわで久しぶりに難儀し
昨日は少し回復したので買い物に出かけたら咳が止まらなくなった
これ以上こじらせて肺炎になると大変なので
もうしばらく養生することにする

そういえば、しばらく寝ている間に
足の甲の痛みがほとんどなくなっている事に気づいた
いつも「わたしがやらなきゃ!」と思っている事ができないし
ましてや、あれこれ先のことまで考える余裕もないので
その分、体の緊張もゆるんだのだろう

 「だから、明日のことまで思い悩むな
  明日のことは明日自らが思い悩む
  その日の苦労は、その日だけで十分である」
         (マタイによる福音書6章34節)


「わたしがやらなきゃ!」と気負うほど、不安材料は増していくばかりだ
そもそも性格的に「でしゃばり」なのも良くない
それで何度も失敗しているのだから
もはや自分の力で立っているとは思わなくなった
それは本当に良かったと思う

 「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」
          (コリント人への第一の手紙10章12節)



(2015.2.3.)



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