人生の分岐点



<11.分析屋の視点>

2001年にバラにハマって以来
発酵肥料作りなど素人実験を繰り返しながら
今年もまたバラのシーズンを迎えようとしている
ここからはわたしが今まで試行錯誤してきたことの結果が現れる時だ
毎年ここまでは壮大な夢を描き、ここからはきっちり現実と向き合う
その切り替えにはすでに慣れっこになっている

わたしが肥料つくりを始めた時から
母も野菜つくりを通して発酵肥料に魅力を感じて共に使用してきた
本を読めば読むほど素晴らしい発酵肥料の世界
「これさえ使えば」と、それはまるで健康食品にでもハマるかのように
わたしたちの心を魅了するものだった

今年はまた今までとは別の角度から発酵肥料つくりをやっているが
ちょうどその結果が野菜にぼつぼつ現れつつある今
わたしは母にその様子を冷静に観察するようにとしつこく言っている
というのも
これまでもわたしの自作肥料を一緒に使用しながら
わたしのバラの方では思うような成果が得られていないのに
母の野菜は上手くいっている・・・のではなく
母がそう思い込んでいた経緯があるからだ
“発酵肥料は素晴らしい→必ず上手くいくはずだ”
おかしなもので、こういう妄想にはまると見えるものが違ってくる
そこで見ているのは「現実の姿」ではなく「虚像」なのだ

わたしは以前も書いたように実験屋気質を持っている
実験屋は疑い深く、人のいうことをそのまま鵜呑みにしない
だから自分で実際にやってみないと納得しない傾向があるのだが
良いといわれることをやってみて実際どうなるのか
その結果を分析することは常に必要不可欠なわけだ
だからこそ、わたしとしては希望的観測(妄想)ではなく
正直な結果報告が欲しい
それが悪ければ悪いでそこからまた方法を考えていけばいいし
わたしが常に求めているのは
この先どう進んでいくべきかの判断材料なのだ

バラ栽培も肥料作りも、わたしはわたしなりに大きな夢を持って行ってきた
だが、わたしにとっての「夢」とは、ありもしない「妄想」ではなく
わずかでも可能性のある「目標」だと思っている
バラ栽培の実験は一年がかりなので
現実に目を向けず、希望的観測だけで過していたら
目標の実現は一年遠ざかってしまう
せっかく与えられたこの機会を無駄にし
同じところで堂々巡りをすることをわたしは実に惜しいと思うのだ

現実に目を向けない「妄想」の世界は
それにどっぷり浸っている間だけはとても幸せな世界だと言える
(例:宝くじが3億円当たったらどうしよう?!)
そのまま夢が覚めないでいてくれたらどんなにか幸いだろう
(あんなことをしてこんなことをして・・るんるん♪)
でも、「現実」は、見たくなくても必ず見えてしまう
(さあ当選番号の発表の日だ)
認めたくなくても認めざるを得ない
(・・・・うーん、残念!!あれだけ投資したのに(涙目〜)
結果を受け入れなくては結局前へ進めないから
人はまた仕方なく現実を歩み始める
(まあやっぱり地道に働くのが一番かなぁ〜)

( )の中には「宝くじ妄想」のよくある現実を書いたが
宝くじが当たるというのは実は全くありえない世界ではない
しかし、一見、誰もが当たるチャンスがあるようで
現実はそうではないのがくせものだ
宝くじだけでなく、株投資やギャンブルの世界には当たる秘訣があるらしい
そのひとつは「才能」だという
つまり、天性の勘だ
そしてもうひとつの成功の要因は「研究」すること
それも半端じゃないほど熱心に勉強し、研究し、データ分析をした上で投資する
そこまでやればかなり成功する確率は高くなるらしいが
冷静に考えてみて
そこまで労力をつぎ込むほど価値のあることかどうかが問題だ
また、そこまでの熱意も勉強する能力も誰にでもあるものじゃない
そういうわけで
ギャンブルの世界は、ごく一部の成功者にとっては確実な「目標」だが
ただ単純にお金を出すだけで実際には損をしている多くの人々にとっては
得する根拠のない「妄想」の世界なのだ

「目標」という名の夢は、現実を生きる上での励みになるが
「妄想」という名の夢は、もともと現実とは相容れない
妄想を妄想と自覚して割り切っているならばある程度問題はないとしても
それを現実と混同するところに問題が生じるのだ
「目標」は、たとえ実現しなくても、
そこから学ぶべきものを学んで、また頑張ろうと前向きになることができる
でも、「妄想」が夢破れた落胆は想像以上に大きく
何か裏切られたような、空しい感情が残るものだ
本当は妄想に陥りやすい体質を改善していくことが重要であるにもかかわらず
現実逃避のために更に妄想にはまっていく悪循環は避けたい

「子どもは誉めて育てよう」
この方針は、子どもに長所を教え、自信を与える意味では正当だが
誉めることだけに偏り、現実の姿(短所)を教えないなら
子どもは自分の虚像を自分だと勘違いしてしまう
「叱る」という行為は、子どもの欠点を子ども自身に教えることでもあり
現実の自分と向き合わせる訓練でもある
考えてみれば
人間の一生は、この現実の姿をどう受け入れるかという戦いの連続なのだ
だから、戦いの備えは早い時期からしておいた方がいい
自分の本当の姿を知っていれば無駄な見栄を張ることもないので
生きることはさほど苦痛ではないと思う

それぞれの心の中に自然にわきおこる感動(ロマン)が人によって違うように
個人個人は天から授けられた異なる資質(本質・才能)をもって生きている
神の存在を信じないという人でも、結構「運命」は信じていて
運命には逆らえないと思っている人は多い
また、どうにも人知が及ばない未知の世界に突き当たった時
人はそこを「神の領域」と呼ぶ

一般的に科学者は神の存在を信じないと勘違いされているようだが
研究・実験と分析を繰り返した果てに行き着く説明できない謎に対して
そこに「神の領域」を見る科学者は少なくないという
宇宙飛行士が地球に帰還後、牧師になったり哲学者になったりと
今までとは価値観ががらりと変わってしまうケースが報告されているが
地球の中だけでも無数の謎が存在するのだから
不思議に満ち満ちた広い宇宙を見た時には
そこに神の存在を感じずにはいられないのだろう
実際のところ、まともな科学者は科学が万能とは思っていないのだ
科学者は別に神さまにケンカを売っているわけではない
ただ、最初から神の領域を設定していたら研究はそこでストップしてしまう
どこまでが人間の手の及ぶ領域で、どこからが神の領域なのか
科学の世界はそれを冷静に分析しているようなものかもしれない

分析屋の視点は常に冷静であることを要求される
自分が「こうであって欲しい」と思う希望的観測を入れたら
真実がわからなくなってしまうからだ
そのように、自分自身の本質に対しても
希望的観測を入れてしまうとそれは虚像になる
そして、その虚像を実像として生きるのが妄想の世界だ
ただの幻は、分析をすると壊れてしまうので
妄想の世界では自己分析も、反省もしてはならない
しかし、そこには危うい不安感が満ちているから
本人は決して幸せではないのだ

信仰の世界は、よく「妄信狂信」などと揶揄されることもあるように
妄想と隣り合わせの世界でもある
何らかのコンプレックスを抱えている人ほど
神の力を得て自らが何か素晴らしい存在になる妄想に陥るケースが少なくない
その自分で漠然と考えている「素晴らしい存在」というものには明確な実体がなく
ただ、人に誉められたいとか認められたいといった
自分の心の寂しさを紛らわす幻を追い求めているに過ぎないため
信仰することでますます妄想を助長してしまう恐れがあるところが悩ましい

わたしは「実験屋で疑い深い」と書いたが
かつてのわたしは今ほどの現実主義ではなかったし
分析ももっと甘かった
それをここまで現実に冷静に向わせるようにしたのは夫だ
いや、そのきっかけをもらったと言った方が正しいだろうか
夫はわたしよりももっと壮大な夢を持ったロマンチストなのに
現実との住み分けが実にはっきりしていて
あまりの割り切りの良さがわたしには唖然とすることも多かったが
わたし自身その影響を受けて
いつしか現実を確実に受け入れ、妄想から遠ざかるほど
気持ちはずっと楽になっていった

(2008.3.24.)


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