人生の分岐点
<12.弱さの克服>
先日行われた復活祭では、賛美歌の伴奏を娘が務めた
普段の礼拝でもたまには弾いているが
娘はピアノがあまり得意ではない
決して嫌いではないけれど(むしろ弾きたいのだけど)
苦手意識というのはなかなか簡単には克服できないものだ
娘の表面の姿だけしか知らない人には信じられないことだと思うが
彼女は大変な小心者で
小4の時に改築工事でお風呂が新しくなった時でも
蛇口のスタイルが変わっただけでパニックになり
お湯が止められないと言って泣き出したほどだ
ピアノの発表会では緊張のあまり鼻血を出して服を汚してしまったこともある
明るく活発で友だちも多い表の顔とは裏腹に
失敗を恐れて固まる裏の顔が彼女をいつも足踏みさせた
復活祭の前夜
夫はある賛美歌を明日歌いたいと言って来た
ここ数年は
夫が子どもの時代によく歌っていた古い賛美歌を出してきて歌う機会が増えたが
慣れない曲を弾くことは娘にとっては最もためらわれる
しかも普通の日じゃない、復活祭だ
さあどうするだろうかと、まずは本人の意向を尋ねてみると
「ちょっと弾いてみるわ」と言って練習を始めた
どうやら前向きに検討をしているらしい
そして翌日、娘はこの曲を無難に弾いて務めを果した
この曲を今から2年位前に出してきて礼拝で歌った時
思いがけず夫は途中で声を詰まらせた
わたしの知る限りどんな時にも涙を見せたことのない夫の意外な様子に
この曲に対する懐かしい思いと、過去の複雑な感情が重なって見えた
多分その頃からだろう
夫はそれまでほとんど触れなかった「めくらの子」と呼ばれた時代のことを
少しずつ語るようになった
同情されることも、お涙頂戴の話もまっぴら御免だとばかりに
ただの意地とも違う堅い意志から封印されていた感情は
心の奥に閉じ込められただけで消えたわけではなかった
それが今ようやく自然に語れる時代が来たのだとすれば
複雑な思いが昇華され、開放される時も近いのかもしれない
何にしてもそれはわたしには共有することのできない感情であり
無闇に立ち入るべきところではないだろうと思う
こういう経緯があったからこそ余計に
娘には今回この曲を弾いて欲しかった
そして、特に何も説明しなくても娘はそれを受け入れた
わたしはこれまで子どもに、できないことをしろと命じたことはない
だから、わたしが「どう?」と持ちかけてくることはできることだと娘は知っている
あとは自分が踏み出すかどうかだ
そして今回また一つ経験を積み、自信を得た
人が強くなる時にはいつも何らかの「きっかけ」がある
「きっかけ」はその人を本質と向き合わせ
進むか逃げるかの選択を迫る
早いもので、わたしたちの結婚生活も25年目に入った
教会で、しかも両親と義父の叔母が障害者という家庭には
完全にひとつの決まった形が出来上がっており
そこではみんな完全に自立していて
新参者のわたしは特に必要とされることもなく
わたしがいなくても誰も困らないのだという現実があった
何か宙に浮いたような自分の存在に
このままの状態でいるのは中途半端でよくないとの思いがきっかけとなって
わたしは翌年神学校へ入って牧師になろうと決めた
2年後、帰ってきても資格があるだけで何が変わるということもなかったが
元々聾唖者だった叔母が白内障で視力も失い、認知症となったことがきっかけで
わたしはそこに介護という自分が本当に必要とされる場所を得ることになる
それは非常にありがたくないきっかけではあったが
あれが後の信用の元となったことは間違いない
また同時に、その経験を通してわたしは確実に強くなった
弱さを克服するには「きっかけ」から逃げないことだ
また、人が弱さを克服しようとしている時に
他者がむやみに手を出すことも良くない
弱者に対して優しさを提供することは美しい行為だが
それがすべて益となっているかどうかは別問題だ
うちの教会は夫の両親(牧師夫婦)が目が見えなかった関係で
昔からさまざまな障害を持った人が集まっていた経緯がある
そんな人々の生き様を間近で見て育ってきた夫は言う
「最近は障害者に対して手を出しすぎる傾向がある
障害者は自らの弱さを補うために勘を研ぎ澄ます必要があるのに
手を出されると必要な勘が養えない
これではかえって生きる力を得る機会を失わせている」
弱さが天から与えられた運命ならば
それを克服するきっかけも、前へ進む力も、天から与えられるだろう
そのために自然に起こるきっかけを人の手で封じてはならないのだ
人の弱さには色々な種類があって
他者がそれらをすべて正しく理解し、思いを共有することは不可能だ
ましてやその人に代わって何かをしてあげることも
いや、してあげられると思うことすら傲慢なのかもしれない
わたしが牧師になって今年で22年、夫は33年になるが
これまで人間的な手助け(援助)で人が本当に幸せになった事例をみたことがない
また、どんなに熱意を持って説得しても人の心は簡単に動くものでもない
できることといえば
迷う人、妄想に向う人の目を現実に引き戻すべく
現在に至るまでの問題点を分析屋の視点で指摘すること
見えていなかったものが見える為に、角度を変えて「何か」に気づくように勧めること
それをきっかけとして再出発する人のために祈ること、くらいだ
そこから先はもう神の領域
人の手の及ぶところではない
現実の話をする時には嫌な話も避けては通れないので
逆恨みされることもある
わざわざ嫌われるような事でも言わなくてはならないこの役目
人から良く思われたいとか、感謝されたいとか
そんなことを願っていたらとてもやってはいられない
だから、いつの間にか色んなことを
「どうでもいいよ」と割り切ることもできるようになってきた
結局
自分を良い人だと思いたい(思われたい)というのも妄想だ
そこから開放されると楽に生きることができる
たくさんの人と出会い、通り過ぎ、ただ忘れ去られていく中
昔はそれを空しいと思ったこともあったが
今はそれも良しと思う
強がりではなく、本当にそう思うようになったことが嬉しい
人生が上手くいっていない人は
たいていが何らかの妄想に惑わされている
ひとりひとりの人生にはみな天から与えられた「分」があるが
分不相応なところにばかり目が向いて
肝心な自らに与えられたはずの分が置き去りにされているのは実に惜しい
自分は自分、人は人
自らの分に忠実に、自分らしく生きることができたら幸いだ
(2008.3.26.)
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