人生の分岐点



<13.40歳の壁>

わたしが40歳になった頃
同年代の女性から「40になって安心した」「40になって落ち着いた」という話を聞き
わたし自身も40という年齢に何か特別な感覚を覚えたことから
その頃これは一体どういうことなのだろうかと考えてみた

「40になって落ち着いた」という言葉の裏には
「40になるまではあせっていた」という意味が含まれている
女性にとって40歳とは
平均寿命を考えればだいたい人生の折り返し地点に当たり
そろそろ更年期に入っていく頃、つまり「老い」というものが見えてきて
身体的な「若さ」からの別離を現実のものとして実感させる時期になる
結婚はいつでもできるとしても、出産はそろそろタイムリミットが近い
(ただ、結婚も条件云々言い始めたら年齢は十分ネックだが)
では、結婚して子どもが居ればそれで満足なのだろうか?
いやいや、問題はそんな単純なものであるはずがない

今の40代という世代は「新人類」と呼ばれ
それまでとは違った価値観や感覚を持った世代だと言われる
新人類とは、具体的には1959年〜1968年の間に生まれた世代をさしており
1961年生まれのわたしはその初期の人間だ
では
新人類は一体それ以前の世代(団塊の世代や戦争世代)と何がどう違ったのだろう?

この世代の共有体験の特徴としては
・ 受験戦争の激化
・ テレビの普及と漫画やアニメの急速な発展
・ ロックやポップスなど革新的な音楽の登場
といったものがあげられ
既存のものを壊すほどの勢いで新しいものが次々登場した時代の中
普通の人々の間にも大きな夢がふくらむ一方で
誰にでも夢の実現のチャンスがあるかのような錯覚が生まれ
「何か大きなことをやってやる」
そんな野望を抱くことも
無謀というより、むしろチャレンジャーとして評価されるようになった
また
「良い学校→大きな会社→幸せな人生」との構図が定着し
人の心よりもお金や名誉に価値をおく成功願望風潮も顕著になっていく

さらに、この世代は
それまでの世代と違って本当に自由な環境に置かれていた
つまり、戦争世代や団塊の世代は
戦争や全共闘運動など、個人の意思とは関係のないところで
社会の中に多かれ少なかれ個人の運命が巻き込まれていったが
その後の世代は、社会から個人が切り離されて自由になり
考えることもやることも価値観もすべて個人が選べる時代になった
そこでは「全体(国・社会・家)の幸せ」よりも「個人の幸せ」が重要視され
他者と比べて自分がどのような位置にあるのか
表面的な見た目(学歴や社会的地位、容姿など)で個人の幸せをはかり
比べることが常となった

その上、1980年代には「男女雇用機会均等法」が制定され
女性の社会進出は一気に進み
多方面で男性と対等に活躍するキャリアウーマンを生み出した
かくして「仕事のできる女性像」は若い女性たちの憧れとなっていく

こうした状況は
個人が輝くためには好都合で
特別な才能や感性を持った人々は水を得た魚のように個性を発揮し
それがテレビ、ラジオ、新聞、雑誌などのメディアに乗って一般にも紹介された
そして、その情報の氾濫が更に個人を奮起させたが
これといったアピールするものを持たない普通の人々は
時代に取り残されていくかのような錯覚に陥って行く
時代が変わっても、個人が天から与えられた本質に変化があるわけではない
自分の「分」を超えられないもどかしさとあせりが
更に人を追い詰める
「みんなあんなに頑張って輝いているのに・・」
そして思うのだ、「わたしには何もない」と、、、
それは人によっては
自分の親を社会を、そして運命(神)を恨むがごとき心情であり
「(実際は違っていても)周りがみんな幸せそうに見える」錯覚や
「わたしはもっとできるはずだ」との妄想を省みるよりも
他者のせいにして逃げたいという弱さの表れでもあった

また、この世代は社会人になって間もなくバブル景気を経験し
消費行動がもてはやされたために金銭感覚が一時麻痺気味になった
そして次にはバブル崩壊で一気に現実が目の前に現れる
そんな刻々と価値観が変わる時代の波に揺さぶられ、思考が混乱する中で
しっかり自分の「分」を見つめ、周りと比べることなく
「自分はこれで良い」と信念をもって生きることは
だんだん難しい状況になっていった

この「周りと比べる」という感覚は
人の心の状態を良くも悪くも変えていく
周りがみんな幸せに見えると、自分だけが不幸なように思えて辛いが
周りもみんな苦労をしていると思うと、それだけで安心して元気が出るものだ
戦争の時代はもちろん、その後の復興の時代もしばらくは
人々はみんな一様に苦労を背負って生きてきた
だからお互いが助け合い励ましあいながら共に幸せになろうとする感覚があったが
個人の幸せを追求する時代になってからは
受験戦争や出世争いのように
「相手を蹴落としてでも」という感覚がのし上がってきたのだった

若い時にはみな一様に色んな夢を見る
それが実現可能な「目標」なのか、ありえない「妄想」なのか
一体自分の「分」て何なのだろうと考える人も考えない人も
同じように時間が流れ、同じように年をとっていく
そして、同じ頃、現実に直面するのだ
自分が今までやってきたこと、信じていたことの結果に
それが『40歳の壁』
つまり、その頃になると
仕事にしろプライベートにしろ自分のポジションをきっちり築いている人と
何もかもが中途半端であせっている人に分かれてくる
夢の実現に向けて華やかに歩を進めている人もあれば
地味であっても自分の居場所を持って落ち着いている人もある
色々やるうちには嫌でも自分の分というものが見えてくるから
それを素直に受け入れた人はこの時点で「安心」し、「落ち着く」
どのような状態であれ、そこが自分の生きる道なのだとの思いは
単なるあきらめではなく
これから残りの半生へ向けて幸いな折り返しスタートを切るための心の準備だ
まだまだ人生は終りじゃない

しかし、中途半端であせる人はどういう状態なのだろう
これは、そもそも「幸せの基準」がはっきりしていないということがある
よく「やりがいのある仕事」ができたら幸せというが
何をもってやりがいがあるのかは人の価値観によって違ってくるだろう
たくさんお金がもうかれば満足なのか
人から偉い、スゴイとちやほやされたいのか
あるいは自分の感動(ロマン)を追求したいのか
心からの信頼(人望)を得たいのか
もしこれらすべてを手に入れられる人があるとすれば
それはかなり特別な存在だろう
普通の人はまずどれかに照準を定めなくてはどれも中途半端になってしまう
そして、自分の居場所をもって落ち着いている人は
この辺を割り切っているのだ

何を捨てて何を守って生きていくのか
自分にとって本当に大切なもの(人)が何(誰)なのか
40歳の壁を越えるとき
今一度整理して考えてみる必要があるだろう

優れた才能を持っている人に出会うと
その人だけが特別に天からの恵みを受けているように見え
とても不公平じゃないかと思えてしまうことがある
世の中には一見何でもできるスーパーマンみたいな人もいるが
天からたくさんのものを授かっている人は
実はたくさんの任務を負って生かされているわけで
単に人より良い物をもらって楽をして生きているわけではない
普通の人に彼らと同じ責務を負わせたら
その任に耐え切れず
「忙しい」「しんどい」「疲れた」と愚痴ばかりの日々となるだろう

聖書の「タラントのたとえ」にはその辺の例え話が以下のように記されている
ある主人が3人のしもべに
それぞれの能力に応じて5タラント、2タラント、1タラントを預けて旅に出る
その間、5タラントあずかった人と2タラントあずかった人は
それぞれあずかった資金を運用して倍に増やした
ところが、1タラントあずかった人は何もせず穴を掘ってそれを埋めておいた
こうしておけばとりあえず失敗(損)はないと考えたからだ
その後、主人が帰ってきてそれぞれから報告を受けたが
5タラントと2タラントの人は自分の分に対して忠実に働いたことを高く評価され
「あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう」と
ますます主人から用いられる存在になっていくのだった
しかし、何もしなかった1タラントの人は自分の分に忠実でなかったため
あずかった1タラントは取りあげられ、10タラント持っている人に渡された
こうして初め5タラントだった人は更に持ち金が増えたが
1タラントの人は何もなくなってしまった

この世に生まれてきたからには
「自分には何もない」と思う人にも、必ず何かが与えられている
ただ、それが地味で目立たないものである場合には
それを自分の「分」と思わない、思いたくないことも多いだろう
特に自分の中に何らかのコンプレックスを抱き
その卑屈な思いに駆られて
巻き返しのためにただ漠然と活躍の場を望む場合には
見ている先はたいていが妄想の世界で
その行き着く果ては空虚な世界
喜びも満足感も何も手元に残らない現実が待っている
今までこういうケースをいくつも見てきて
そこから生み出されるストレスが心の病を招き
その悲劇が本人ばかりかまわりの家族をも巻き込んで不幸の連鎖を生じていくことに
妄想の世界にはまっていくことの恐ろしさを実感せずにはいられない

歳をとるごとに失うものばかりが増えていく先の人生に向けて
穏やかに安らかに自分らしく最後まで生きるために
40歳の壁は、今の自分を問う分岐点となる
それがもし「わたしは今まで一体何をやってきたんだろう・・」と空しさを感じるものであるなら
それはむしろ喜ぶべきことだろう
その時点ですでに現実と向き合い、自分の分が見え始めている
一度そうして自分を省みることから
幸いな道への方向転換がはじまるのだ



(2008.3.29.)


<追記>

3月29日のブログにこの記事を書いて間もなく
同様のテーマを取りあげたドラマが登場し
『アラフォー(around 40 の略)』という言葉が流行語にもなった
わたしは普段ほとんどテレビを見ないので
そういうドラマの存在さえも知らなかったのだが
このテーマが実に重要な意味を持っていることを改めて実感し
時代に飲み込まれていく人々の姿を通して
いよいよ自分らしく生きる道を追求していきたいと思った


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