人生の分岐点



<14.捨てるもの、守るもの>

結婚したばかりの時から今に至るまで
夫は時々ふと思い出したように言うことがある

「友だちは大切にした方がいい。古くからのつきあい(親友)は特に。」

そして、こんな時に夫はよく親友=“ダチ公”という表現を使うのだが
この言葉はちょっと女同士の付き合いには不似合いかもと苦笑しつつ
それでも、現在は死語かと思われるこの古い表現に
最近は何か温かみを感じるようになった

今の子どもたちの多くは、友だちを「作るもの」と思っているようだが
わたしの感覚では、友だちは「できるもの」だと思っている
特に親友という存在は
同じ感性を持ち合わせた者同士が自然と引き寄せられて「できる」もので
お互いの本質を理解した上でつきあい、その立場は常に対等だ
ところが、友だち関係を無理して「作ろう」と思うと
結局どちらかが遠慮したり、不自然に気を使わなくてはならなくなる
そういう疲れる関係は友だちとは言いがたい

かつてわたしにもダチ公と呼ぶにふさわしい親友がいた
ところが、その関係は高校卒業と共にわたしが一方的に絶ってしまうことになる
いや、それぞれ別の大学に進み、しかも地元に残ったのはわたしだけだから
疎遠になるのは当たり前のことだったかもしれないが
その時わたしには少なからず「ここで道を分かつ」という意思があったのだ
当時、わたしはわたしなりに自分を無理に変えようとしており
その経緯について
以下、3年前に書いた『神経症との戦い』より一部抜粋してみる

*****

幼い時から非常に活発で
女の子らしい優雅さとは無縁だったわたしは
中学生になる頃からロックファンになった
学校では落語研究会や演劇部に所属し
スポーツではプロレスが好きだった

そんなわたしが
自分を自分らしくない方向へと変えようとしたのは18歳頃のこと
その前に父を亡くして
自分なりに将来についても考えるようになっており
これからは間違いや失敗のない人生を送るために
真面目で無難な生き方を選択しようと思うようになっていた
そのために趣味を一新し
ロックもやめてクラッシックを聴くようになった
ファッション雑誌を読み
一般の若い女性と同じものを求め
価値観を共有しようとした
そして
新しい道を歩むために教会へも通うようになった
それまでは宗教は大嫌いで
母が教会へ行ってもついていこうとは思わなかったが
何となくそうした方がいいと思ったのだ
もちろんその頃は自分が将来そこへ住むようになるとも知らずに・・・

*****


わたしは元々気の強い子で
人に弱みを悟られたくないという意地みたいなものがあった
だから、父が亡くなった後でも努めて平静を装っていたし
これからどうするべきかも誰にも相談することなく
自分で考えて上記のように結論を出した
今思えば、こうした心情は
最近言うところの「人生をリセット」したかったのだろう
父はこの田舎町の開業医で
わたしは父の子として嫌でも人目についた
そして、父が居なくなれば、また別の意味でその目が痛かった
元々目立つことが苦手な性分なので
できれば目立たずひっそり人々の間に埋もれて生きたいとの思いから
過去をなかったかのようにしてしまいたいと思うのは必然だったのだ

自分では決してそうは思いたくなかったけれど
わたしはかなり卑屈になっていたのだろう
結局のところ、とても人を恐れて被害妄想に陥っていたわけで
そういう精神状態で親友と「対等」であることは難しかった
彼女たちに変わりは全くなかったが
わたしの意識が変わってしまったのだ

人それぞれの持ち味も感動も感性も天から与えられるように
心が共鳴する友との出会いも、天からの贈り物なのだと思う
それを自ら拒否したわたしは
結婚後、ますます人を避けるようになっていた
同じ町に住み続けなくてはならない憂鬱に加えて
教会に向けられる好奇の目が更に痛かった
神学校へ行ってからは格段に外界との接触が遮断され
二年後に帰ってからは、間もなく介護生活に突入した
どんどん世間から疎遠になる自分を感じつつ
もはや寂しいとは思わなかったが
何かをなくしている空虚な気持ちだけは消えなかった

その後、『神経症との戦い』の中に記したように
わたしは捨てるものを間違えたことに気がつく
18歳の時
わたしが自分ですべてを決めたのは「根拠のない自信」があったからだ
「自分でやれる」との中途半端なプライド、「やってやる」との意地
捨てるべきなのはこちらの方だったわけだ

20年後
やっと捨てるべきものに気がついた時
一度は失ったかに見えた“ダチ公”が帰ってきた
それは本当に自然な形で
わたしは何もしないまま・・・とても不思議なことだった
それでも初めは、もう昔のようにはなれないのではとの怖れもあったが
現実には「対等」の関係は健在なのが素直に嬉しかった
そして、そういう「時」が来たのだという実感が
やっとわたしを先に進めるような気持ちにさせてくれた

「自分を変えたい」という人は多いけれど
それがなかなか上手くいかないのは
「変わる」という意味を取り違えているからだろう
多分ほとんどの人が自分の元から持っている本質を捨てて
別の自分に変身することを「変わる」ことだと思っている
そういう意味で変われると思っているのは妄想だ
どう変えようにも、天から与えられた本質は変わらない
「変わる」のは視点の問題で
「捨てるものと守るもの」を見極めることなのだと思う

(2008.3.31.)


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