人生の分岐点
<3>
ここからは
更に子ども達が自分らしく生きるために親ができることについて
わたしがこれまで感じてきたことを書いてみようと思う
2では、そこで紹介したサイトを元に
勉強する目的とは
“勉強する方法を身につけ、得意分野を発掘すること”
ということを確認した
一般的に
子ども達には限りない可能性があると言われている
その子の持っている才能が何なのか
それを親は早く知りたいと思う
だから早い時期から色んな習い事をさせて才能を発掘しましょう・・・
という考え方が成り立つのも当然で
現にその考えに基づいて
多くの幼児が複数の習い事をしているケースも珍しくはない
しかし
色んな習い事をさせてみた時
その子の持っている才能とそれが合致する可能性は
現実にはどの程度あるのだろうか
それが仮に合致したとして(結構相性がよかったとして)
それは右も左もわからない幼児期から始めなければ
手遅れになるようなものなのだろうか
ほんの一握りの天才を育てる目的ならいざ知らず
(それもギャンブルみたいなものだが)
自分の好きなことを子どもが自分で見つけるために
まず一番必要なのは
子どもが自分で感じ、考え、行動するための“有り余る時間”なのではないかとわたしは思う
ところが、次々と色んな教材が目の前に準備されると
自分で自由に考える時間はそれだけ少なくなる
こうして習い事のために制約される時間は
子どもが自ら何かを発想する機会を妨げているかもしれないのだ
一見無意味な時間を過ごしているようで
実は自然に自分で得意分野を発掘しているかもしれないときに
全然得意じゃない分野のために時間を費やすデメリットについて
想像できている人はどれほどあるだろう
この“デメリットを想像する力がない人が増えている”というのは
前述のサイト作者も強調して書いていたことであり
人の相談を受ける立場にあるわたしたちも、常に危惧している点だ
いやもう、何かにとりつかれたように冷静さを欠いている人などは
メリットの妄想に惑わされ、全くデメリットを想像しようとしない
しかし、ふと冷静になる瞬間がある
キーワードは“お金”だ
肝心な資金がなくては冷静になるしかない
当然のことながら、幼児教育は裕福であればあるほど手を出しやすく
また次から次へと新しいものが登場するので
その商法にのったら限りがない
資金不足のために“待った!”がかかる人は幸いだ
勉強する目的とは
“勉強する方法を身につけ、得意分野を発掘すること”
そしてこの続きをわたしはこう考えている
得意分野とは
その人が生まれながらに持っている使命であり
生きる目的でもある
勉強とは新しい知識を仕入れることだけではなく
自分が元から持っている能力を目覚めさせ、伸ばし
それを社会の中で生かし還元するためにある
昨年夏、学生時代の友達が遊びに来てくれて
仕事のこと、家庭のこと、子どものことなど
二人でかなり込み入った話もした
株関連の会社を経営している彼女は
株といえばちょうどホリエモンや
村上ファンドの問題が世間をにぎわしていた中で
こんな意見を述べた
「彼らはとても高い能力を持っていて
それでお金儲けをしたわけだけど
人間が働いてお金をもうけるということ自体は悪いことではないと思う
でも、彼らはその使い道を間違っていたのね
世界のお金持ちというのは、たとえばビル・ゲイツもそうだけど
自分の得た利益を基金という形で社会に還元しようとするでしょう
お金は儲けた人のところへいつまでも留まっているのではなくて
回らなくてはならないのよ
お金儲けのできる才能をもっている人は
その才能を使って儲けたお金で社会に貢献する義務があると思う
ジョン・レノンは音楽の才能で人々を感動させ、
得た名声を使って世界に平和をアピールしたし
現在も彼の曲から生まれる収益が基金となって役立っているよね
世界の有名ミュージシャンにはチャリティーコンサートを行う人が多いけど
そういう点で日本はまだまだかな・・
ただ単に自分がお金持ちになって
自分や家族だけが幸せならそれでいいというのは
与えられた才能が本当に生かされているとはいえないと思う」
子ども達に高い教育を受けさせようとする人のかなりのパーセントが
その子が将来高収入の職業につくことを願っていて
幼い時からの教育はそのための投資なのだという人もあるだろう
ところが、今や現実は“ハイリスク・ノーリターン時代”
つまり、子どもにいくら投資しても
それがいつか親に還元されて老後は安泰・・という時代ではなくなっていると
専門家は分析している
いや、親の愛は無償の愛だから
子どもからの還元などどうでもいいという人もあるかもしれない
でも、冷静に考えてみて
親が一生懸命になって教育してくれたものを子どもが感謝して
その感謝を何らかの形に表そうという気が起らないなら
それはどこか根本的な教育が間違っているということだ
そして、容易にお金を出してきた家ほど子どもの感謝は薄く
どんなに投資しても全然割に合わない可能性が高くなる現実は
意外と語られていない
親が老後を迎える頃には
子どもは家庭をもち、そのまた子どもの教育にお金がかかるようになっている
お金の怖いところは、いくら貯めても安心できないことだ
子どもの教育にいくらかかるかわからない
自分達の老後もお金がいる
年をとり病気になってもどうせ子どもはあてにならないから
しっかりお金を貯めておかないと・・・
あれだけ愛情を注いできた子どもたちだというのに
昨今、なぜか親の心の中で勝手に
「どうせ子どもはあてにならないから」と決めてしまう風潮がある
確かに世の中にはあてにならない子どもはいっぱいいる
だが、昔も今もしっかり親のためになっている子どももいるのだ
また、なかなか行動には表せないが
常に親のために心をかけている子どもも多い
それなのに
いつの間にか“あてにならない”のが当たり前と信じ
“あてになる”のは特別な子なのだという錯覚が世の中に生まれている
不幸にも親から虐待されて育った子どもたちは例外として
普通に育ててもらった子どもが
その受けてきた有形無形の愛情に対して報いようとするのは
人間として当然のことだと思う
親が一番欲しいのは
養ってくれるお金そのものよりも
親を養おうとする心
つまり
子どもが人間的に一人前になったなという実感だ
その実感を得ることこそ
子育てという大切な任務を果たした証なのだから
日本人は「みんな」という言葉に弱い
よく子ども達が言うところの「みんなが持っている」
「みんながやっている」「みんなそうだ」といった
“みんなでやれば怖くない的な考え方”は
大人の世界でも一見世間の常識のように通じてしまうが
本当にそれが正しくて、果たして本当にみんなそうなのか
そんな根拠はどこにもなかったりするものだ
こういう“間違った世間の常識”が実はかなり出回っていて
それが大切な人生の分岐点にあって間違った選択をさせることがある
「思春期になると子どもは親と口をきかなくなるものだ」 という説もそのひとつだ
***
ここでちょっと補足を・・
<3>でお金についての話をしたが
お金そのものには何の責任もないが
用い方によってはお金はきれいにもなるし、きたなくもなる
肝心なのは用いる人がどういう心や目的を持っているかと言うことだ
幼児教育や学習教材においても
それが本当に子どもに向いていればかなり役立つと思われる
そうであるならばそれはそれで非常に素晴らしい
学研の『科学』と『学習』という付録付きの月刊学習教材は
わたしが小学生の頃には学校の門を出たところで業者の人が販売していた
子どもの目には何と言ってもその付録が魅力的だったし
親も学習教材ならということですぐに両方買ってくれるようになったが
付録はわたしには上手く作れなかったり、使いこなせなかったりして
結局ずっと買ってもらったのにほとんど役に立たなかった記憶がある
また、本を読むことが苦手なわたしは
雑誌の方も放り出したままほとんど読まなかったと思う
まさに、お金をどぶに捨てたようなこの経験は子ども心に後ろめたく
やがて自分の子どもが小学生になり、あの学習教材が健在であると知っても
わたしは全く子どもに買ってやるつもりはなかった
どうせわたしの二の舞になると思っていたからだ
ところが、息子が小2の時、クラスの友達から『科学』のことを聞いて帰り
自分にも買って欲しいと言い出したのだ
しかもその友達のお母さんから「注文しておきましょうか?」と
ご親切に電話をいただき
何かもう引くに引けない感じでお願いすることになった
教材が届いた日、息子は嬉しそうに早速付録を作った
元々、幼い時から幼児向け雑誌の付録を作るのが得意だったので
『科学』の付録つくりも難なくクリアー
おまけに雑誌は隅々まで読み、知識を端から仕入れていった
本棚に並んだバックナンバーはまた出してきて何度も読んでいたから
多分息子は値段以上のものをこの教材から得たと思うし
息子にとってこの教材との出会いは当たりだったといえる
この他に
どうも全体的な話の焦点がボケてしまったようなので
まとめてもっとわかりやすく書けば
要するに、自分の子どもが一発当てて大金をもうけることを夢見たり
あるいは親の面子で子どもの素質を無視した教育を強要したり
人間的な欲や面子で子どもをつつきまわすと
それは子どもの本来持っている良いものをつぶしてしまうばかりでなく
心の病気も併発し
その後の人間関係(親子関係)もそこなう危険性が大きいと言うことだ
昨年も子が親を傷つける事件が何件も起きたが
それらはすべて勉強がネックになっていた
世の中は華やかな情報であふれている
もし親が“地道に生きる幸せ”を教えなければ
他に誰も教えてくれる人はいないから
それを知らずに育つ子どもは
華やかに生きれない自分を不幸だと思うだろう
ほとんどの人は、一生特に華やかなことなどないままで終る
これが人生というものだ
それでも、ひとりひとりは確実に使命をもってこの世に生まれてきたのだから
みな大切な存在であることに変りはない
そして、みんなこれから生きて社会に貢献する義務がある
生きるのが面倒だと、簡単に義務を放棄してはならないのだ
(2007.1.19)
(4へ続く)
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