人生の分岐点
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“感謝する心”についての考察
欲しかったおもちゃを買ってもらった子どもが
嬉しそうに「ありがとう」という
その時は本当に嬉しくてしばらくそれで遊ぶが
やがて新しいおもちゃが出てくるとそちらに目移りし
今のおもちゃを買ってもらった「ありがとう」の心は
どこかへ行ってしまう
おもちゃは子どもにとって大切なものである一方
生きていくために必須のものではない
もしこの子が食べるものに飢えていたら
おもちゃよりも食べる物の方をありがたいと思うだろう
豊かな時代と貧しい時代では
人々の要求のレベルは異なり
貧しい時代には満足していたものでも
豊かになればそれだけでは飽き足らなくなるのが人の常だ
例えば月収10万円で暮らしていた人が
もし15万円もらえるようになったとしたら
単純計算すれば差額の5万円は貯金に回せることになる
ところが現実はそうはいかない
少し豊かになってくると
今までぎりぎりでやっていたことに少しずつゆるみが出てきて
現実の生活には以前よりも出費が増えてしまうものだ
それでも、ひとりで暮らしているならば
自分だけの欲をセーブしていけばいいのだが
これが家族を持ち、特に子どもがいれば
子どもへの出費は親心を抑えるのが難しくて予想外に多くなってしまう
そのため
よほどたくさんの収入がある家庭以外では
家族を支える家計は多少給料が上がっても簡単に余るということはなく
将来に備えた貯金の計画も思い通りに進まないのが現状だろう
その場合は、“上がった”ということに対する気持ちは
「そりゃあ上がらないよりはマシだけど・・・」
という程度の実感かもしれない
1961年(昭和36年)生まれのわたしは
戦後の高度成長期と共に育った世代であり
今はあることが当たり前になったあらゆる電化製品が一般に出回る過程や
菓子パン一個が10円からどんどん値上がりしていった時代を知る
最後の生き証人世代でもある
また
わたしよりも更に10年前に生まれた夫の世代は
その子ども時代はまだ井戸から水を汲んだり
まきで風呂をたくことが子どもの仕事だった世代だ
単純に10年と言っても
その生活水準格差は驚くほどのものがある
でも
世の中の目まぐるしい進歩と共に便利で豊かな生活を手に入れる一方
人の心は確実に貧しくなっている・・・
欲しいものを買ってもらった時に“ありがとう”というのと
困っている時に必要なものをもらった“ありがとう”は
同じ“ありがとう”でもちょっと意味が違ってくる
単に欲望が満たされることと
本当になくてならないものが与えられることへの“ありがたい!”という気持ちには
雲泥の差があるのだ
今の日本に衣食住に事欠く貧乏といえる人はそう多くはないはずだが
簡単に「うちは貧乏だから」という人は結構いる
でもそれは本当に貧乏と言えるレベルなのだろうか?
いや、自分で自分を貧乏と言うのは勝手じゃないかと言われそうだが
それはそれで確かに勝手なのだが
もしそれを子どもにも普段から言っているとすれば
そこにどんなデメリットがあるか想像したことがあるだろうか?
親が常に「うちは貧乏だから」と言っていれば
子どもは素直に自分の家のレベルは貧乏なのだと思うようになるだろう
子どもにとっての“幸せの基準”はまず家庭で刷り込まれる
単に自分の欲しいものが自由に買えない事を貧乏というなら
今与えられている目の前の幸せはすべて当たり前のもので
特に感謝に価するものとは思わないのだ
子どもの金銭感覚というものは
その子が成長する過程において形成されるのだから
家庭で“お金持ちほど幸せでお金がないのは不幸”
という価値観の教育をしていれば
たとえ学校教育で“感謝する心”を形だけ教わっても
あまり役には立たないだろう
現実には
お金があるほど人間は怠惰になったり
努力をしない方向への誘惑が多くなる
あるいは何もかもを人任せにする甘えも出てくるだろう
どんなに便利な時代になった今でも
昔と変らず人間はさまざまな面で努力なしには生きていけないにも関わらず
自分が苦労することなく手軽に幸せを手に入れる方法を模索し
お金がそれを可能にすると信じている人は少なくない
更に、戦後日本にはさまざまな“権利”というものが発生し
一定の義務を行うことで
みんな平等に権利を受けるシステムができている
ところが、近年問題になっているのは
義務を行わずに権利を欲しがる傾向が出てきたことだ
身近な問題で言えば、「学校給食費未納問題」がそれで
「外食や遊びに使うお金はあっても給食費は払いたくない」と言うのは
完全に親としての義務を放棄している状態だから
本来は給食を食べる権利は発生しない
だが、これまで余りにも“平等”を意識しすぎてきたため
ひとりだけ給食を食べさせないというのも難しい
それで、給食費を払っていなくても
みんなと同じように食べることができるわけだが
それで親が感謝しているかと言えば
まあ間違いなく「当たり前」くらいにしか思っていないだろう
このどう考えても奇妙な問題で今学校は全国的に大変な状態だ
結局何が一番問題かといえば
世の中に蔓延している“拝金主義”なのだ
お金さえあれば幸せが買えるから
お金のためには人に迷惑をかけてもかまわない
いや、人に迷惑とか何とか言う感覚そのものもマヒして
とにかくお金をつかんだものが勝ち!のレースが繰り広げられている
何度も言うようだが
自分で「これでいい」と思わない限り
お金はいくらでも欲しくなる
人間の欲には限りがなく
その欲を端から満たそうと思えば
いつも「うちは貧乏だ」と思っていなくてはならないから
その口からは常に「足らない」との不満が出てくるだろう
それを聞いて育つ子どもは
一体どうやって感謝の心を教わるのだろうか?
また
親がこうしてお金のためにあくせくしていることが
子どもはお金で苦労させたくない→高収入の職業につくために勉強させよう
との図式を生み出し
やがて親子間のトラブルを発生させる元にもなっているのだ
何でもお金で物事を解決しようとする前に
本当に今必要なものが何で、優先順位はどうなっているとか
冷静に考えて見れば
生活には結構“穴”があることに気づく
今心配しなくていいことまで先回りして心配したり
よく考えれば、どうでもいい事のために悩んでいるかもしれない
どんなに豊かな時代になっても
人が暮らしていく時に
とりあえずご飯が食べられて、あたたかい服や住む所があって
その日一日を暮らせたら幸せだという基本はいつまでも変らない
現実にはなかなかそう思えなくても
そう思う努力をすることは必要だと思う
しかし
そういう方向で物事を考えようとする力そのものも
だんだんなくなってきているのではないかと危惧することがある
そういうことはまず世間では教えてくれないし
世の中は“勝ち組志向”に染まっていて
みんながそれに乗って
勝ち組になるためにどんどんお金を使ってくれることを望んでいるのだ
だからそれに乗せられている人は
“その日一日を暮らせたら幸せだ”という理論に対して
軽蔑したように言う
「それは負け犬の遠吠え」
「貧乏人のひがみ」なのだと
でも、わたし自身も半世紀近くを生きてきて
また、その半分を教会で暮らし
色々な人々の半生を見てきて思うことは
世の中を常に損か得かで判断して生きる人と
その時損をしたようでも、負けたように見えても
人生を誠実に生きている人とでは
その行く末は確実に明暗が分かれているということ
お金が必要ないと思っている人はなく
たくさんあれば誰でも嬉しいに決まっているだろう
お金そのものには感情はなく、責任もないが
それを求める人の心が その人の人生を変えているのだ
(2007.1.30)
(7へ続く)
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