人生の分岐点
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もう一度確認のために書いておくと
これまで幼児教育のことなどあれこれかいてきたが
わたし自身は子どもにとって必要な教育は財産だと思っているし
そのためには投資を惜しまないつもりでいる
この気持ちは多くの親と同じだろう
ところが、気持ちはあっても投資するものがない・・・という問題もまた
多くの親にとって共通かつ最大の悩みなのだ
“子どもの教育にはお金がかかる”というのが今の常識で
実際にそれを心配して子どもを持ちたくないという夫婦も増えている
でも、漠然と“お金がかかる”とはいっても
それが具体的にどの程度どうなのかを、一般論ではなく自分のケースについて
真剣に調べてみる努力はまず大切なことだと思う
こういう“本当のところはどうなの?”という疑問を自分で調べる努力も
どうも最近は軽視される傾向があるように思う
今時期、受験関連の掲示板で
『今まで勉強してこなかったので
目標とする大学の偏差値に20足りません
今から一年浪人して勉強すれば合格できるでしょうか』
といった類の書き込みを見ることがある
こういうことを書く人の気持ちはわからないでもないが
答えは『努力すれば可能だが絶対合格できるかどうかわからない』
に決まっている
努力してもすべてのことが上手くいくわけではなく
だからといって努力しなくては何も始まらない
多くの人々が切羽詰った状況で戦っているのだ
もし努力してもそれが無駄になるのだったらもったいないという程度の気合なら
厳しさに立ち向かっていくことは難しいだろう
子どもの教育費については
今たちまち出すものがなければ、基本的には借りる以外に手立てはない
わたしは一昨年から子どもの進学にあたっての資金調達方法について
ネットで調べたり、直接役所や大学に電話もしてみたりしながら
具体的な情報収集にあたってきた
こういうものはじっとしていたのでは誰も教えてくれることはなく
自分でさがせば驚くほど色んな情報が隠れているのだ
しかし、こういった情報集めに熱心になっているうち
わたしの知らないところで様々な教育支援体制ができていることに
「日本て結構良い国じゃないの」と
認識を新たにしたのは大きな収穫だったと思う
マスコミで報道されるのはいつも一般国民が損をするような話が多いが
現実には日本はまだまだ良い所がいっぱいあるようだ
また、奨学金システムのように
社会からお金を借りることは
共同体の意味を知る良い機会になると思う
よく、国立大学に入った子は親孝行だとか
特待生でただで学校に行く子は偉いというけれど
これは単に親の経済的負担を軽減しているだけで
社会から見れば税金等を使って
つまり人様のお金で学校へ行かせてもらっているに過ぎない
人はひとりで生きているわけではなく
社会の中で助けられているのだという認識と感謝の心とは
決して忘れてはならないのだ
昨今問題になっている『ゆとり教育』の提唱者はエリートの家出身者だが
子ども時代の詰め込み教育の辛い経験がトラウマになって
理想だけが先走った理論を打ち立ててしまったことが
今日の失敗を生み出したとも言われている
彼自身は高い教育を受けられるだけの能力と豊かな家庭環境があり
現実にそのおかげで東大へ入り、文部科学省へ入ったわけだ
こうして
誰よりも教育のために親からお金を出してもらったことへの感謝はさておき
勉強を強要されたことへの恨みだけが残るというのもいかがなものか・・
親の教育が子どもの心を無視した強引なものであっても
彼が勉強するための環境に非常に恵まれていたことだけは確かだ
その部分にわずかなりとも感謝があれば
あのように極端な教育論は生まれなかったかもしれない
また、もし仮に彼の家が貧しくて
親が苦しい中から一生懸命学費を捻出してくれている姿を見ていたら
彼の感覚もまた違っていたかも・・などとも思う
とはいっても
大人になってもなお昔の恨みが残るほど
子どもにとって勉強の強要は大変なストレスになるともいえるのだろう
これはこれでやはり怖いことだ
先日、首都圏で中学受験が過去最高になったニュースを読みながら
リンクされたページに飛んでみると
そこは「中学受験のリスク」について記されたページだった
ここに書かれた内容はどれもなるほどと思わされるものばかりで
わたしも改めて色々勉強させてもらったが
やはり結論としては
子どもの能力や個性に応じた教育が必要で
それは親が冷静な目で見て選ばなくてはならないということだろう
家庭という共同体は一番小さな規模の社会だ
その中で生かされていることへの感謝を感じることは
やがて社会が支えてくれることへの感謝にも結びついていくだろう
格差社会と言われる今日でも
なおさまざまな助けの手がそこにはある
ありがたいと感謝すれば本当にありがたいし
足らないと不平を言えばきりがない
問題は、どの辺で満足するかということなのだ
満足すべき基準についてどのように考えればよいのか
聖書には面白い箇所がある
わたしは二つのことをあなたに求めます
わたしの死なないうちにこれをかなえてください
うそ偽りをわたしから遠ざけ
貧しくもなく、また富みもせず
ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください
飽き足りて、あなたを知らないといい
「主とはだれか」と言うことのないため
また貧しくて盗みをし
わたしの神の名を汚すことのないためです
(箴言30章7‐9節)
盗みをするほど貧しくなることも
傲慢になるほどお金持ちになることも
両方とも幸せではない
これを裏返せば
大多数を占めるであろう中間層はみな幸いなのだが
残念ながらそういう位置にある人が
みんな幸福感を持っているわけでもないだろう
それでもって
そういう地味な幸福感はどうも魅力に欠けるので
キリスト教はいまいち人気がないのかもしれない、、
(2007.2.4)
(8へ続く)
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