人生の分岐点



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今から8年くらい前になるだろうか
地域の恒例行事準備のために
子どもたちや保護者が集会所に集められていた時の事
がやがやとにぎやかに準備が進む中、一匹のゴキブリが出没し
ある女性がスリッパで叩いて処分した
その瞬間、低学年とおぼしき男の子が言った
「ゴキブリだって生きているのにかわいそう!自然破壊だ!!」
女性も周りの大人も何も言わなかったが
その後も男の子はしつこく女性をののしる発言を繰り返していた

わたしたち人間は決して特別な存在ではなく
自然の生態系の中で暮らす生き物に過ぎない
その人間が傲慢になって、自然破壊を繰り返すことは大変な問題だ
だが、人間も含めてすべての生き物は他の生き物の犠牲の上で生きている
建前では自然破壊を問題視しながらも
本音では自分の生活が守られることを第一に考える
実際のところはそんなものだ
このようにわたしたちの生きる空間には常に本音と建前があり
そのどちらかだけで生きていたのでは
自分が苦しくなったり、あるいは人に迷惑をかけたりと
正常な生活を送ることが難しくなるのは
大人なら誰でもわかることだと思う

ところが、今まで「大人なら誰でもわかること」だと思っていたことが
実はそうでもないと感じるようになってからすでに数年が経っている
以前にも書いた“給食費未払い問題”のように
究極のわがまま、自己中心思想を持つ人が増えてきたかと思えば
一方では上記の男子のような“建前のきれいごと”だけで物事を判断し
結果的には周りを混乱させたり不愉快にするような人も増えてきた
こういう人は自分が絶対正しいと信じているだけに厄介だ

中味の伴わない格好だけの正義感を子どもに教え
表面的に立派に見える発言や行動をする子を良い子とする教育は
どこか歪んだものを残していく
自分の持っている“本音”の部分を否定するには限界があり
行き場を失った本音が、いつかは別の形で現れてくるからだ

長い年月の間に、人々の生活スタイルは目まぐるしく変化し
気がつけば世の中は非常にお洒落になった
女性が結婚して主婦になっても
見かけだけでは既婚者か独身かの区別もつかないし
やがてママになっても、スタイルも服装も独身者に負けないわ!とばかりに
今や“主婦=所帯じみている”なんてことは遠い世界になりつつある

さて、少子化問題の解決には
まず若い女性が結婚に前向きになるよう啓発することが先決と前回書いた
最近の若い女性が男性に求める結婚の条件として
ある心理学者が以下のような内容をあげている

Comfortable(快適な)今の生活水準を落とさない十分な収入
            (一般に700万円以上)
Communicative(理解しあえる)価値観やライフスタイルが同じ
Cooperative(協力的)家事や育児に協力的。進んで家事をしてくれること


わたしがまずここで注目したいのは3番目の家事や育児の協力についてだ
今でこそ夫が家事や育児を手伝うことは当たり前のようになりつつあるが
少なくともわたしが中学生だった30年前ごろには
そんなことはあまり一般的ではなかったと思う
いやもちろん男性の中にはそういうことを好んでする人は昔からあるだろうし
特に共働きの家庭では、夫が見かねて手助けすることはあっただろう
だが、これが大きな結婚の条件になることは特に考えられなかったはずだ

30年前と比べると
今や家庭電化製品は充実し、家事労働の負担は格段に軽減されている
スーパーへ行けばお惣菜だって色々売っている
雑巾をいちいち洗わなくても、使い捨てのものがいっぱいある
どう考えても主婦の家事労働は楽になっているはずなのに
なぜこんなにも家事が負担になるのだろか?
今の主婦はそれほどみんな怠け者になってしまったのだろうか??
いや、答えはNOだと思う

世の中が豊かになり、みんながお洒落になると
お洒落な生活を維持する必要が生じてくる
素敵な家を建てれば、それを維持する負担(日々の掃除やメンテナンス)が増え
そこにハウスダストだなんだと脅されれば
掃除の回数もまるで掟のように増えていくだろう
雑誌を見れば夢のような住まいの光景が載っているが
現実には家族が増えるほどに汚れる機会は増し
お洒落な住まいを維持するために掃除に明け暮れることにもなりかねない
こういう“維持するだけ”の仕事ほど人を疲れさせるものはないのだ

そのやり方については、特に決まりがあるわけでもなく
ルールは大抵の場合自分が作っていくのだが
それは自分が気持ちがいいからという本当の気持ちよりも
家族や他の人から文句を言われないために自分で抱え込んでいる場合もあるだろう
というか、現実には家族はなにも言わなくても
主婦が自分で勝手に大変なルールを作って疲れているかもしれない

かつては「ほこりで人は死なない」と言われたものが
今はホコリは健康の大敵といわれ
ほこりをそのままにするのは主婦の恥とばかりに
TVではお掃除用品のCMが花盛りだ
アンケートをとれば多分嫌いな家事NO.1ではないかと思われる“掃除”
一見その負担を軽減させるかのように次々出てくる新商品は
CMを通して常に主婦に「ほら掃除掃除!」とプレッシャーをかけている気がする

また、衣服の分野においても
お洒落になるほど持ち物は増し、当然管理も大変になる
衣服に加えて靴やバッグなども今は小さな子どものものまで大人並に色々あって
流行に従って次々買い出すときりがない
ほんの十年前までは子どもの服は大き目を買って
最低でも2年(できれば3年)着せるのが当たり前だったが
今の子ども達はみんなちょうどいいサイズのものを着ている
これは良いとか悪いとか言っているのではなくて
そういう時代になったのだと、ただそれだけのことなのだが
こういうことひとつをとっても
子どもに変な格好をさせられないという親の苦労はどんどん増えているといえるだろう

更に、食の分野においては
これはもう昔とは比べようもないほどに食材は増え
メニューも色んな国のものまで多彩に楽しめるようになった
お金さえあれば全く料理をしなくても暮らしていける一方で
昔から家庭では手作りされなかった凝った料理も登場するなど
食の格差は家庭によってかなり広がっているのではないかと推測される
食の分野は趣味とも重なるので
好きな人はとことん凝ったものを作るが
料理が不得意な人にとってはある意味劣等感を感じる嫌な家事かもしれないし
好きな人でもいつも凝ったことをしなくてはと思うと負担になる
また、そこには経済的な問題もあるだろう
一ヶ月の食費が限られている中でのやりくりは
単純なメニューの繰り返しならまだしも
複雑になるほど大変なことなのだ

かくして、衣食住のどの分野においても
主婦の労働は、実際の労働以上に精神的な負担が増しているように思う
とにかくお洒落に生きることは非常に疲れるのだ
「わたしはこれだけ家事を頑張っている!」
現実にそう胸をはっていえる主婦がどれほどいるだろうか
一日二日は張り切っても三日目には疲れてしまう
それがエンドレス家事労働の現実だ
そのストレスを家族にぶつけ
勝手に作った家事のルールを家族に押し付けて手伝うことを強要する前に
まず自分に見合った基準をつくり
他人と比べない自分の家独自の心地よさを模索していくことが先決で
建前だけのかっこいい生き方ではなく
正直な本音と、自分の能力を合わせたところで考えていけば
主婦労働の肉体的精神的負担が軽くなる方法はいくらでもある

そもそも主婦というものが世間的に評価されたり
認められたりする必要などあるのだろうか
その世界は本来“空気のような”微妙な世界だった
妻であったり母であったりする主婦は
昔は男尊女卑でいかにもひどい立場であったかのように語られ
確かに一部にそういう理不尽なことはあったかもしれないが
どんな時代にあっても
夫の仕事が成功すれば妻もその労をねぎらわれ
子どもが立派になればその母が誉められた
表舞台に立つことはなくても
その存在が忘れられることはなかったのだ
なぜなら主婦は家族というドラマの演出者であり
家族一人一人が立派な役者として最も輝くように
常に考え、そのために行動する存在であることを
昔から人々は知っていたからだ

やがて時代は移り変わり
女性の学歴の向上と共に女性自身の中にプライドが生まれ
あるいは格差による劣等感からの”逆プライド”もあり
それと同時に主婦という微妙な立場は様変わりした
言ってみれば演出家も舞台に立ちたくなったのだ
というか、舞台にたつことこそ幸せだとあおられたといえるかもしれない
地道な生活なんてばかばかしくてつまらないから
もっと華やかなものに目を向けましょう・・・と

しかし、誰もが役者に向いているわけではなく
演出家としての幸せを放棄してまで役者になる必要があるのかどうかも
考えてみなくてはならないことだ
演出家がいなくなった家庭というドラマはどうなるのか
その答えは個々の現状が物語る

もちろん役者も演出家も立派にこなす器用な女性もたくさんいるに違いないが
そういう人は並大抵ではない努力をしていると共に
堅実な支援者(真に理解ある家族)をバックに抱えている場合が多い
それは女性本人に支援されるに足りる資質があり
家族もそれを自然と応援したくなるからだろう

結局のところ
女性は強くなると同時に
一部の女性が表向き立派なことを言ったために
格好良く生きなくてはならなくなったのだ
何か特別な技術を持っていて格好よく生きれる女性はそれでいいかもしれない
でも、現実に何もこれといったものを持たない女性は
宙に浮いた形になってしまった
かといって、なぜか今は専業主婦になることを
“暇を持て余している人”とべっ視する風潮もあり
そんな風に思われたくないからわざわざ働きに出ようとする主婦も少なくない
それに格好いい生活のためにはお金がかかるからそのためにも稼がなくては
という焦りもある
かくして
夫の限られた収入の中で地道にやりくりしてきた専業主婦の立場は脅かされ
かといってセレブ妻などと呼ばれる優雅な主婦などごく一部であることを思うと
大部分の普通の女性はものすごく立場が難しくなったように思える

昔から本来見栄を張るのは男性で
現実派の女性がそれを補って家庭生活は成り立っていた
格好悪い部分は主婦が受け止めて
やがて良くも悪くも「おばさん根性」といわれる生活力も生まれ
その支えがあって家族は成長してきたのだ
主婦の生活は聖域のようなもので
それぞれの家庭にそれぞれのスタイルがあるのが自然なのに
雑誌やテレビの影響もあって
いつの間にか格好いいカリスマ主婦像が主婦の鑑のようになってしまったことで
憧れとは裏腹にとてもそうなれない現実のギャップと
そうなれない自分はダメ主婦なのか・・・との劣等感が
ますます主婦という仕事を辛いものにしているとわたしは考えている
何しろ昔よりも女性のプライドは高くなっているのだから
そういう自分を許せない人が増えていてもおかしくないのだ

女性が自分に見合った主婦像を描いていれば
主婦であることはちっとも嫌なことではない
かつて学校の勉強で嫌いな科目はどうしてもできなかったように
主婦の仕事はひとつではない複合職だから
その中に苦手なものがあったとしても不思議ではないし
まずは自分のできるものから頑張って
だんだん自分なりに勉強していけばいいことだ
そして、それでいいという人と一緒になる(結婚する)こと
これが一番大切なことだろう
つまり、上記の「結婚の条件」においては2番目こそ最も重要なのだと思う

(2007.2.19)


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