嘘をつく習慣
わたしが神学校にいた頃
毎日の食事は当番の学生が順番で作っており
当時23歳と若いながらも唯一主婦のわたしは
同じ年代の人たちの中でも料理が上手いに違いないと思われていた
突然30人分の料理を作ることはさすがに戸惑いもあったが
こうなったらとにかく経験を屈指して頑張るしかないと思い
周りの期待を裏切らないようにと
冷や汗もので奮闘していたものだ
2年間の在学期間の中で
わたしの定番メニューとなっていたのは
クリームコロッケとお寿司
どちらも手間がかかって大変なので
これを作るのは当時わたししかいなかった
特にお寿司を作るときには
前夜にシイタケやかんぴょうを煮たりと仕込み作業をしておき
当日は朝3時に起床する
朝昼夜の3食分の用意と片付けを
もうひとり補助の人と二人だけでこなさなくてはならないので
十分な時間の余裕が必要だったのだ
こうしていつもなるべく美味しいものが提供できればと思いながら
自分なりに頑張って
慣れてくるとこういう大量調理も楽しくて
わたし自身は炊事の担当はけっして嫌いではなかった
ある日
電話当番をしていたわたしは
当時の神学校の学院長と玄関で会い
「この前のお寿司は姉妹が作ったのでしょう?」
と、声をかけられた
その頃にはもうお寿司はわたしの定番になっていて
学院長からは
「姉妹はお料理が好きなの?」
と、ニコニコ笑いながら質問された
ところが
その質問に対して
わたしはとっさに
「いいえ、特に好きではないですけど・・・」
と答えた
それを聞いた学院長は
けげんそうな顔をして
黙ってその場を後にした
わたしはそれまでにも
本心とは別の答えをする癖があった
でも
わたしとしてはそれは「謙そん」だと思っていたので
それがいけないとは思っていなかったのだが
そのとき初めて
とても気まずい思いをしたのを今でも覚えている
そして後に「謙そんの傲慢」という言葉を聞いた時
傲慢だと思われないようにと自分を過度に謙そんに装うことは
人に見せるための謙そんに過ぎないのだと知り
そのために気まずい思いが残ったのだと気がついた
自分を過大評価する「傲慢」の心理は単純で
挫折して自分の本当の力を知れば
自然に治る可能性がある
ところが
自分をわざと過小評価する「謙そんの傲慢」の心理は複雑で
自分は良い事をしていると信じているため
これがいけないとは思えない
そのため
やがて嘘をつくのは習慣的になる
嘘の中には
他人を生かすための嘘というのもあり
当然、嘘がすべて悪いわけではない
でも
大方の嘘は自分を取り繕うためと
見栄を張るためにつくものだ
わたしの心の中には
「人からどう思われるか」との思いが常にあった
自分がどう思うかという以前に
まず人の顔色をうかがう
そして
状況に応じてさっと口からは本心とは逆の言葉が出てくる
こうして
自分の心に嘘をつくのが習慣になると
やがて嘘が自分の本心だと思い込むようになるようだ
ひとつの嘘をつくと
それをとりつくろうためには百の嘘が必要になるという
そして、嘘も百回つくと本当になるともいわれる
でも
自分の心の奥底では
それが嘘であることはわかっているので
そのためのストレスが増大するのだ
一般的にも
本当は寂しいのにどこまでも平気なふりをし
困っているのに何でもないようにかたくなに装うケースはよくあるし
あるいは逆に
豊かなのに貧しさを装い
大変な状況の中でつつましく生きている自分を
演出しようとするケースも時々見る
他にも
大嫌いなはずの人をわざわざ「良い人」と誉めてみたり
嘘をつく習慣というのは多岐にわたっている
こういう嘘というのは
どうしても言動が不自然になるもので
内容が時によってはつじつまが合わなかったり
嘘のストレスから時々本音が爆発してしまうこともある
では
爆発すればそこから嘘をつく習慣は改まるかというとそうでもなくて
またいつのまにか元の状態に戻っているものだ
なぜなら
そうすることが自分にとってとりあえず一番居心地がいいのだから
あの気まずさの経験以来
わたしは誉められた時には
素直に「ありがとう」ということにした
それがたとえお世辞であったとしても
おめでたくあった方が気持ちいいと思う
世の中には
「天然ボケ」とか「ノーテンキ」と呼ばれる人がいて
その言葉は
ちょっと小ばかにしたような意味合いで用いられているが
もし「人からどう思われるか」を評価するなら
こういう類の人の方が
心安く受け入れられるような気がする
正直で
人のことも悪く思わない
自分を取り繕いもしないし
いつもにこにこしている
世の中で「癒し系」と言われる人は
こういう人なのではないかと思う
自分をスキのないようにつくろう人は
人に癒しの感覚を与えることは少ないだろう
見た目に完璧な人というのは
一緒にいると実に疲れる
誰にも弱みや本音を見せない人は
「得体の知れない人」としてかえって損をするのだ
自分の虚像が独り歩きすることは恐ろしい
しかし
その虚像は
自分の口から出る嘘によって作られる
要するにそれは自分の責任だということ・・・
『老いること』にも書いたように
ある一定年齢を越える頃から
人は無理に頑張ることができなくなる
若い頃には虚像の自分を演出できても
加齢によって心身が弱ると
それもできなくなる
「自分は年をとったと思ったら生きていけない
だから年を忘れて毎日若いつもりでいる」
という人がある
一見頼もしく思えるこの発言には
実は老人性うつ病の引き金になる危険性が潜んでいるようだ
気持ちを若く持っているのは素晴らしい
それはわたし自身も常にそうありたいものだと願っている
しかし
現状をわきまえないで行動すると
思うように行動できなかったり
あるいは良い結果が出ないことに対して
非常に情けない思いをすることも多い
ここが「若いつもりでいる」ことの落とし穴だ
情けない思いというのは
積み重なると落ち込みにつながる
それがグチになれば周りにも敬遠され
ますます情けない
虚像と実像を混同した生き方は
こうして自らを闇へ陥れていく
ちょっとだけでもいい
本当の自分に目を向ければ
「ああ、こうなるのも仕方がないんだね・・・」
と思える
でも
常に虚像ばかりを見る習慣がついていると
実像にはすぐに背を向けようとするものだ
自分の現実を知ったからといって
そこからすべての行動を制限する必要があるわけでなし
自己責任において何でもチャレンジできるわけだ
そこから本当の幸せな老後がスタートするのではないだろうか
自分の人生は
人に見せるためのものではない
人生の終わりこそ
「人にどう思われるか」という思いにとらわれず
本当の自分と向き合い
正直に生きることに心と時間を費やしたい
一方
若さゆえに
虚像にある程度夢をはせられる世代もまた
同様の落とし穴に陥らないよう
十分注意する必要がある
子どもに対して
愛情と共に過剰な期待をかける親と
親の励ましの言葉を信じて
自分は「できる」と勘違いする子どもたち
”子どもは誉めて育てよ”
いつしかこの教育方法は
親子に虚像を追いかけさせるようになった
子どもには限りない可能性がある
だから決してダメと決め付けてはいけない
だが
ただ誉めただけでは
現実逃避の勘違いが生まれるだけ
人に自慢できる「良い子」を育てようとするのは親の見栄だが
社会的に「正しい子」を育てようとするのは親の義務だ
そのためにも
子どものどこがどう間違っているのか
その部分を指摘するのは親の最も重要な役目だと思う
親子が仲良し関係になり
”嫌われ役”を放棄しはじめた頃から
日本の社会はずいぶんおかしくなってきた
子どもに実像を指摘できるのは親だけなのに
いつしか
それをするのを恐れる風潮ができてしまったのだった
子どもを叱るとグレるかも・・・
そう思って恐れている親のなんと多いことだろう
曲がりつつある子どもを
「無理にとめないで、さもなくばもっと悪くなる」と
無責任に放任させようとする社会の風潮もある
だが
親が愛情を持って必死で止めなければ
誰がいつこの子を止めてくれるのだろうか
親子の描く虚像と実像のギャップは
やがて大きなストレスへと発展する、、、
自分の人生は
人に見せるためのものではない
できれば人生の若いうちから
「人にどう思われるか」という思いにとらわれず
本当の自分と向き合い
見栄を張るための嘘をつかず
正直に生きることに心と時間を費やしたい
(2005年記)
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