善の行方
<15.心の闇>
聖書の中に、人間の持つ「負の感情」を
以下のようにられつしてある箇所がある
「敵意」「争い」「そねみ」「怒り」「利己心」
「不和」「仲間争い」「ねたみ」
ここを読む時、いつも不思議に思うのが「そねみ」という感情だ
辞書を引いてみると
”そねみ=ねたみ・嫉妬”となっており
じゃあどうして同じ意味の言葉が重ねて使われているのだろう??
というわけで、今度は英語の聖書をめくってみると
「そねみ」の部分は「jealousy」
「ねたみ」は「envy」と記されていた
(ただし、文語訳聖書では反対になっている)
envyは人の幸運・能力などを見てあやかりたいと思う気持ち
jealousyはそれが自分にないのは不当だとして相手を憎む気持ち
なるほど、envyは単純に「うらやましい」という感情だが
jealousyになると「憎しみ」が入ってくる分、意味が重くなるらしい
これなら重ねて使う必要があるのも納得できるというもの
さて、語学の勉強はともかくとして
今回あらためてこれら負の感情を並べてみると
どれも相手がいてはじめて起こる感情であり
人は何かと”比べたがる生き物”であることがわかる
比べるからこそ
自分にないものばかりが目につき
劣等感を抱き
劣等感から逃れるために
自分を優位な立場に置こうとするところから
争いも起きてくる
更には、自分より優位な立場の者に対する敵意や憎しみへと
負の感情はどんどん膨れ上がる
みんなが仲良く穏やかに暮らせるようにと
学校教育に平等思想が入って久しいが
残念ながら人間の生まれ持った資質はみんな違うし
(ここからすでに不平等が始まっている)
負の感情もなくならないので
せっかく平等を教えても
義務教育期間最後の高校受験によって
学校格差を知り、自分の置かれた現実を知り
平等なんて大ウソじゃないか?!と
嫌でも子どもたちは気づかされてしまう
では、決して平等ではない世の中で
人と比べないで生きていくにはどうしたらいいのか?
それは、”自分で面白く生きる”ということに着眼し
実行していくことだろう
自分が楽しければ他人が何をしていても気にならないもの
しかも特別な時だけ面白いのではなく
日常的な面白さが重要だ
今年の大河ドラマ『平清盛』は史上最低の視聴率らしいが
この清盛に息子は夢中になっている
大の社会科嫌いの息子にとって歴史は全く興味がなく
今まで大河ドラマなど見ようともしなかったけれど
たまたま第一回の放送を見たことから
平安時代の背景を自分で調べ始め
そこから見事にハマっていったのだった
”このおもしろうもない世を変える”と言った清盛によって
息子は”おもしろうもない歴史”の面白さに目覚め
ドラマだけではわからない時代背景や人物関係を自分で調べては
自ら面白くする努力をして、いよいよ楽しんでいる
わたしたちを取り巻く社会はいつまでも面白くなりそうもないし
世の中を変えるほどの力も何もないけれど
自分の生活を自分で面白くする方法はいくらでもあると思う
まだ就職活動をやっていた時
たくさんの履歴書やエントリーシートを書くのが日課になっていた息子は
ある日ちょっと自慢げに紙を持ってきて言った
「これだけ履歴書とか書いてると、すごく印鑑の押し方が上手くなるよね〜
ほら、これなんて完璧っ!!」
その様子がとても嬉しそうで満足げで
相変わらず幸せなヤツだなあと感心したことを思い出す
そう、息子は昔からこうなのだ
例えば、朝起きて、まず一番にするのは枕元にあるメガネを手に取ることだが
手を伸ばしてさっとメガネが取れたら「よしっ!!」と嬉しくなる
ある時は、スパゲティを自分でゆでる際
お鍋に入れた麺がサーッと上手く広がったのを見て感激していた
この程度の「よしっ!」と思うことは日常にいくらでもあることなので
基本的に彼はいつも幸せなヤツなのだと思うが
そのルーツは夫にあるとわたしは確信している(「遊び心」参照)
そんな息子は以前からよくこう言っている
「今の学校教育が性善説をやめたら子どもは随分変わると思うね」
性善説とは
”人間の本性は基本的に善である”とする説
それを教育の中心にすえると
どうしても表面的なきれいごとばかりになり
上記の平等教育同様
本音と建前の間でむしろ子どもは戸惑うことになる
そして、大人に従う素直な子だけが良い子とされるわけで
本音で生きたい個性的な子どもはダメ出しされることになるのだ
だが、大人の作った理想像の中に押し込められて育つ子どもが
成長過程で何らかの心の問題を抱えていく現状に
きれいごとの中で純粋培養されることの弊害を感じずにはいられない
教会の子どもとして生まれた息子は
自分が人からある意味特別な目で見られることを知っている
一般的な世間の思い込みとして
”教会の子ども=品行方正な良い子”という何か型にはまったスタイルがあるが
息子の場合、自分が教会の子どもだと告げると
たいていの人は「とてもそんな風には見えない」と言うらしく
そう評価されることを息子自身はとても誇りにしているらしい(笑)
何を隠そう、牧師である父親もまた
昔から「とてもそんな風には見えない」と言われてきたし
また、わたしも、世間一般で言うような雰囲気には見られたくないと思う
とりあえず堅苦しいのはNG
でも下品なのはもっとNG
ならばどんなイメージを理想としているのかといえば
ごく普通の暮らしだけれど
何やら自由で気楽で楽しそう〜と言った感じだろうか
人間が常に良い子でいるのは実に苦しく、生き辛い
人生はたくさん素敵なことで満ちているのに
何も見えなくなってしまうのはとてももったいないことだ
もっと自由に、もっと正直に生きてもいいでしょう
「だって人間は失敗する生き物なんだから」と息子は常々言う
かつて周りの偏見や父親との確執の中で育った夫が
悪環境に振り回されず、押しつぶされず
”自分で面白く生きる”道をたどってきたこと
それも、道を踏み外すわけでもなく
良い友人にも恵まれながら
自然と楽しい方向へと進んでいったのは
夫の意地や頑張りではない力がそこに働いたことは確かだ
その”見えない力の恩恵”と、面白く生きる生き方を
息子も娘も受け継いでいく
「わたしは植え、アポロは水をそそいだ
しかし成長させて下さるのは、神である」
(コリント人への第一の手紙3章6節)
この写真は、今年の4月15日に息子が撮ったものだが
(写っているのは桜で、すでに葉桜になりかけている)
昨年乗っていた400ccの白バイ似のバイクから
今はこのスーパーカブ(110cc)にのりかえて
一般道をのんびり走ることを楽しみとしている
普通なら、250ccから400ccへと乗り換えてくれば
次は大型バイクへ行きそうなものを
いきなりこうなるのが息子の面白いところだ
(2012.8.24)
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