よくある質問コーナー(1)




Q. この教会はカトリックですか?プロテスタントですか?

A.  どちらでもありません。

 
 イエスキリストの復活から50日後のペンテコステ(聖霊降臨日)から
   その弟子である使徒たちが伝道活動を始めたのがキリスト教の始まりです。
   はじめの教えは一つでしたが、時代の流れと共に教えの内容は異なっていきました。
   カトリックもプロテスタントも、その時代の変遷のうちに生まれたもので
   教会とは元来一つであったのがたくさんの派閥に分かれて今日に至っています。
   当教会は、キリスト教が始まった当初の教会(初代教会)の形をとるもので
   カトリックにもプロテスタントにも属していません。



Q. 教会は誰が行ってもいいのですか?

A.  教会は万人に門戸を開いています。
   どなたでもいらしてください。
   家の宗教なども問いません。



Q. 教会ではどんな事をするのですか?

A. 毎週土曜日に安息日礼拝、日曜日に日曜聖会があり
  讃美歌を歌ったり、牧師のお説教を聴いたりします。
  その他相談事などは、日時を問いません。



Q. 安息日は日曜日ではないのですか?

A. 聖書の時代の安息日は土曜日です。
  日曜日は天地創造の日で
  6日間の創造を終えて、7日目に神さまがお休みになり
  この日を聖日として守るように命ぜられました。
  イエスの直弟子が伝道していた初代教会の時代はそのままこれが実行されていました。
  後に、ローマの皇帝がキリスト教を国教として取入れる際に(これがカトリックです)
  それまでローマにあった太陽神を拝む宗教「拝日教」の聖日が日曜日であった事から
  「日曜休業令」が出され、安息日は日曜日へと変えられました。


  

Q. 洗礼を受けたいのですが特別な勉強などがあるのでしょうか?

A. ヨハネによる福音書第3章5節に
  ”だれでも水と霊とから生まれなければ神の国にはいることはできない”とあります。
  「水」とは洗礼のことで、「霊」とは聖霊のことです。
  これを受けることは「新しく生まれ変わる」事で「救われる」といいます。
  ここからクリスチャンとしての歩みが始まるわけで
  洗礼は信仰生活の最終目的ではなく、あくまでも「入り口」ですから
  赤ちゃんであろうが聖書を知らない人であろうが何も勉強せずとも受けることが出来ます。
  聖書の時代には、イエスの弟子達が町々村々でお説教するのを聞いた人たちが
  その場ですぐに次々と洗礼を受けています。
  


Q. 教会に行く時、服装などに制約はありますか?

A. 一切ありません。
  神さまが見るのは人の上辺の姿ではなく心です。

  

  

Q. お酒やタバコは禁止ですか?

A. 聖書には特に牧師の立場の人に対して、濃いお酒を飲まないようにと誡めてあります。
  これは、人の大切な相談にのるべき者が酔っていたのでは正しい判断が下せないからです。
  お酒を飲むのが罪悪なのではなく
  お酒に飲まれて前後不覚になるのがいけないのです。
  よって、私共牧師は一切飲みませんが、信者の方々は自由です。
  タバコについては聖書に記述がありません。
  これもお酒と同様に、中毒になるほど吸うのは問題ですが個人の自由です。
  お酒にしてもタバコにしても個人の健康やモラルの問題で、「神の救い」には関係ありません。




Q. 救われると良い事ばかりあるのでしょうか?

A. 残念ながら良い事ばかりではありません。
  いわゆる「ご利益(ごりやく)」のために信仰するとつまづきます。
  人は洗礼と聖霊を受けて救われても完全な人になるわけではありません。
  その時点では、神の国に生まれたばかりの赤ちゃんです。
  これから成長しなければならない。
  赤ちゃんは食べ物もはじめはミルクでもだんだん堅いものが食べられるように訓練します。
  いつまでも努力せず楽なミルクばかり飲んでいたのでは大きくなれません。
  また辛い事がないように過保護に育てればわがままになります。
  色々な試練を通って、身体も心も成長して立派な大人になっていくのです。
  このように救われたからといっても私たちは完成されたわけではないのですから
  辛い目にも会いながら人間が練られていきます。
  その時もし神さまを知らなければその試練は一人で耐えなければなりませんが
  お祈りしていくと、それに立ち向かうための助けが与えられます。
  教会でのお説教を聴いて、発想が「死」から「生」へと変えられていくので
  どんな時にも希望をもち続けていけるのです。
  試練を乗り越えてまたひとつ大きくなれば
  先の試練はむしろありがたいことなのです。




Q. ユダヤ教とキリスト教はどう違うのですか?

A. ユダヤ人(イスラエル人)は神から選ばれ祝された「神の選民」です。
  そしてユダヤ人以外の民はすべて「異邦人」として扱われています。
  ところがユダヤ人は神の選民でありながら試練が来るといつも神に文句を言い
  助けられるとその時は感謝するが、再び試練が来るとまた文句を言う
  常に「言い逆らう民」でした。
  それでも神は彼らを選民として守り続けますが、その後彼らは
  イザヤ書の予言に応じて生まれたイエスキリストを救い主として受け入れる事をせず
  迫害して最後に十字架にかけたのでした。
  そしてその復活から50日後の聖霊降臨以降、使徒たちが伝道活動をはじめ
  キリスト教が確立されていきましたが
  その伝道活動の間も使徒たちに対するユダヤ人の迫害は激しく
  ついに「わたしたちはこれから方向を変えて異邦人たちの方に行くのだ(使徒行伝13-46)」と
  神の救いは異邦人へと移っていったのです。
  ユダヤ教は天地創造の主である唯一の神を信ずるユダヤ人のためのものです。
  キリスト教もその同じ唯一の神を信じているのですが
  ユダヤ教はその神がイエスである事を認めないところに根本的な違いがあります。
  そしてキリスト教では、イエスが十字架上で流した血を受ける事によって罪許されるところの「洗礼」と
  イエスご自身である「聖霊」を受ける事で人が救われる事が約束され
  それらを受けたものは旧約聖書に出てくる様々な掟(おきて)を守らなくても
  神の子として祝されていく自由が与えられたのでした。
  一方ユダヤ教ではこの「洗礼と聖霊との救い」がありませんから
  今日も食べるものや行動に厳しい制限のある「掟の生活」を送っています。
  




Q. では、ユダヤ人は見捨てられてしまったのですか?

A. 幸いにもそうではありません。
  ローマ人への手紙11章25節には
  「一部のイスラエル人がかたくなになったのは異邦人の数が満つる時までの事であって
   こうしてイスラエル人はすべて救われるであろう」とあり
  いずれユダヤ人はみな救われていく約束になっています。
  だから異邦人はユダヤ人を侮ってはならない事
  そして、全ての人に寛容である神の御心がこの章では語られています。

   


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