よくある質問コーナー(2)
Q. こちらでは「救われる」にはヨハネによる福音書3章5節の「水と霊の救い」を受けることが必要で
その救いは”何も勉強せずとも受けることが出来ます”とありますが
聖書の中には「悔い改めなさい」といっているところもあります(例えば使徒行伝3章19節)
「救われる」には「悔い改め」は必要ないのでしょうか
A. サタンの支配するこの世の中にあって、その世の中の価値観で生きるのではなく
神に目を向け従っていく道を選ぶことを”悔い改め”と言うわけですが
救われるために教会へいらっしゃる行為そのものが
すでに神に目が向けられていること”悔い改め”によるものではないでしょうか
神さまの事を信じる気もない人はわざわざ洗礼を受けようかとは思わないでしょう
例えどのような悪人であったとしても
心の中に神を求める気持ちがあれば神さまはすべての人を受け入れて下さいます
実際に「困った時の神頼み」という言葉があるくらい人は誰でも本心は神さまを頼りたいと思っているのです
それはすべての人は神によって造られたのでその創造主を慕う心をみな持っているからです
Q. 洗礼と聖霊を受けることで「救われる」とありますが、信仰は「救い」には関係してこないのでしょうか
洗礼と聖霊を受けても、神に立ち返ることなしに、あるいは信仰なしに人生を終えたとしても
それらの人々は神の子として天国に行くことになるのでしょうか?神を知ることなしに?
A. 質問コーナー(1)にも書いているように、救われることは「入り口」であって
そこから信仰生活がスタートします
ですから当然試練もありますし
その試練の疲れを癒し、また人生の戦いを戦う知恵と力をいただくために
礼拝に集ってお祈りし、賛美し、お説教を聴いて聖書を学びます
もし洗礼と聖霊を受けるのみで礼拝に集わないなら
天国へ行くことは約束されていても
この世で生きていく上においては
神を知らない世の中の人と同じ苦悩の中に埋もれることとなり
そこから自力ではい出す道を模索せねばなりません
しかし信仰生活をしていると
同じく苦労は及んできても”神の平安”によって乗り切る力が与えられ
心も体も鍛えられて
この先どんな事が起きても神さまがついているから大丈夫だと安心して生きていくことができるのです
このように書いてしまうと何でもないことのようですが
この”神の平安”のあるなしが人の生きるか死ぬかを左右する重要なポイントです
できればすべての人が救われて信仰生活をして下さればいいのですが
それもこれも全部運命というか神さまの側の問題もあるので
人がとやかく言うことはできないのかもしれません
このように、教会へ集うこともなく気ままに生きた人が気楽な人生を送ったかといえば
現実はそうではないと思います
それでもせめてその方が天国へいけたら良いと思いませんか?
その時はその人は本当に神さまはいらっしゃったんだと
それもこんな自分までも天国へ入れてくださったのだと誰よりも感謝するでしょう
その感謝の心は
ずっと信仰生活を続けたのだから天国へいけるのは当然と思っているクリスチャンと
どちらが神の前に喜ばれるでしょうか
Q. 「〇〇をしなければ(したら)神の国にいけない」などの意味の記述が
聖書にはあちこちにあります
これらは「救い」には関係してこないのでしょうか
ヨハネによる福音書第3章5節のみに、こだわる必要はないように思われるのですが
A. ヨハネ3章5節の記述とそれ以外のところの記述の異なる点は
洗礼と聖霊を受けるということは神さまから一方的に与えられる恵みなので
人の努力を要しませんが
その他のことはいわゆる「律法(おきて)」ですから人の努力や訓練なしには難しいです
ルカによる福音書18章18-27節にはあるお金持ちのたとえが語られています
自分は常に戒めを守り正しく生きていると自負している彼は
自分の欠けたところを指摘されて悲しみます
結局人はみな「欠けた器」なので律法の行ないによって救われるのは無理なのです
しかし人にはできないことも神にはできる
そのために神は人の形をとって生まれ十字架にかかり血を流して
その血が万人をあがなう洗礼としてわたしたちに与えられました
こうしてすべての「欠けた器」が平等に救われる機会を与えられたところに
ヨハネによる福音書第3章5節の大きな意味があると思います
ただし、当教会の場合は救われるための特別な勉強も試験も捧げ物も不要ですが
教派によってはその辺の考え方も異なるのでそこにはまた別の主張もあることでしょう
(追記)
人にはそれぞれの考えや都合がありますが
神さまの考えはまた人とは異なるようです
神さまは義人ではなく罪人のために心をかけて下さいます
そのためクリスチャンという存在を崇高なものととらえている方には
みことば自体も「つまづきの石」となるかもしれません
教会に来ている方にも色々あって
いつも居眠りしていたり
あるいは他の信者さんを攻撃してみたり
こういうトラブルは教派を問わずどこでもあるようです
でもこれが人の現実の姿です
またそうする人の心の奥までは誰もわかりませんが
みなそれぞれの理由を持っています
ですからみなさんにはいつも「寛容」を呼びかけています
偉いからクリスチャンになるわけではなく
またクリスチャンになったから偉いわけでもない
自分は所詮いつまでも「ただの人」なのだとみんなが悟ればトラブルはなくなります
結局神さまはみことばを通じてわたしたちに
「許せない人をも許す神の愛」を教えて下さっているのだと思います
自分も大いに欠けたところがあるのだから
人の落ち度も許さなくてはならない
多く許すものは多く愛されるとあります
神さまの愛は人の想像をはるかに越えた高さ深さ長さがあって
理解しがたいところがあるのも当然かもしれません
「なぜこんな人まで天国に行けるの?」という疑問は多くの方がお持ちのはずです
一方では、たくさんの方々が神の救いを求めておられるのに
「教会は敷居が高い」と思われているのも困りものです
実際にはじめて教会に来会される方にはよく言われます
どうやら「特権階級」のように思われているようですが
この間違ったイメージはもっと正されるべきだと常々感じている次第です
Q. 世の中には、真の神を崇める信仰と、別のさまざまな宗教や教えを信じる信仰がありますが
それぞれの信仰によって得られる「平安」は人間の人生においてどこが違うのでしょうか
A. 世の中には雑多な宗教が存在しますが
その中でも人々が魅力を感じて集まるのは「律法」や「行ない」を重要視する宗教のようです
本当は誰でも自分の努力なしに救われて平安を得たいと思っているのですが
人間というのはおかしなもので
何か課題を言い渡されてそれに向かって一生懸命頑張る方が燃えるのです
そして「これだけやっていれば大丈夫だろう」という安心感がその人を支えている
実際に指導者もそれをあおるので信者はますますその気になって頑張ります
あるいはあおるのを通りこしてそれが脅しになっている場合もある
人は「ばちがあたるぞ」と言われると怖いものです
こういう信仰生活をしている人たちは
自分が難行苦行することと引き換えに平安を得ようとしています
でなければ誰が好んで厳しい修行やあるいは自分の家までも売り払って捧げるでしょうか?
また、ユダヤ教やイスラム教の信者のように
生まれながらにその思想の中で育った人々にとっては
その律法にのっとって生活することが常識であり
それ以外の生活には違和感があると思われます
とりあえずみんなと同じことをしていれば安心ということもあるでしょうし
わたしたちが同じ生活をしろといわれればとても平安からは程遠くても
「この信仰生活スタイルを守っていきさえすれば救われるのだ」と信じきっていれば
それはそれで平安なのでしょう
キリスト教の中でも”律法派”とよばれる教派は同じように行ないを重視するので
その信仰生活は”修行のようなもの”とのことです
もともとキリスト教は律法とは縁切りしていたはずなのですが
なにしろ元ユダヤ教の人々が多かったのでどうしてもその思想が色濃く出たのかもしれません
というか、この方が教会としてまとまりやすいなどの利点があるのも事実です
国を統一しようとするなら厳しい掟で国民を制御するのが手っ取り早いのと同じです
自由を強調するとみんな勝手気ままにばらばらになってしまいますから
しかし、人の行ないによって得る平安は神の平安とは異なります
これは救いと同様に神の側から与えられる恵みで
人の頑張りとは違う次元の問題だと思います
その信仰生活は実に単純で
ただ毎日聖書に教えられていることをなるべく守るように努め
それでも多くの至らないところは神に憐れみを乞い
日々与えられたもので喜び楽しみ感謝して過ごすというもの
これは世の中にいらっしゃる多くの立派な人々と比べると
「行ない」においてはとても見劣りするものでしょう
でもわたしたちは自分の行ないにすがることなく
神の憐れみにすがって生きていくのを一番大切なことと考えています
こうして神さまにすべてをお任せして感謝する生活にこそ真の神の平安があると思います
「聖書に書いてあることはわかろうがわかるまいが
とにかく実行していれば神の祝福は与えられますよ」
その言葉を信じて特に深く追求することもせず今にいたっていますが
今本当にそうだと思います
なぜならわたしたち牧師の生活はこんなにも不安定だというのに
心はこんなにも平安なのです
自分の行ないと引き換えではなく
神の祝福や憐れみによって与えられる平安は本当の神の平安だと思いますし
これは真の神だけが与えうるものだと思っています
では人はさっさと救われたら後は好き勝手なことをやって
時々神さま〜とすがっておけば良いのかと言われそうですが
神の前に成長していくことについて聖書にはいろいろな戒めが記されていますから
これを模範として生きていくべきなのは当然です
「救い」とその後の「歩み」とは違うものなので
教会に集って「歩み方」を聖書を通じて教えられるのは大切ですし
そうして少しでも神に似るものとなる努力は必要です
救われた者は決して「完成品」ではないということです