真宗大谷派 円光寺 本文へジャンプ

  虐殺

山田寛 『ポル・ポト〈革命史〉』 講談社選書メチエ

小倉貞男 『ポル・ポト派とは?』 岩波書店

フィリップ・ゴーレイヴィッチ『ジェノサイドの丘』 WAVE出版

2006年に書いたものです

 カンボジア難民として日本に来た葉沢業久さんの話をお聞きし、少しは勉強しなければと、山田寛『ポル・ポト〈革命〉史』、小倉貞男『ポル・ポト派とは?』などを読みました。

 カンボジアでは、1975年から1979年までの3年8ヵ月の間に、800万人たらずの人口のうち、約150万人が虐殺や処刑、飢えや病気で死んでいます。
 ポル・ポト軍がプノンペンを制圧するや、すぐさま市民を市内から追い出し、農村やジャングルに強制移動させ、重労働をさせたのです。知識人(医者や教師、技術者、留学生など)をはじめとして、革命を汚染すると見なされた人は殺されました。
 さらには、通貨や市場を廃止し、外国からの援助を断ったため、食糧や日用品が不足し、飢えが日常化して、死者が続出したのです。
 大人は信用できないというので、子どもが医者や薬剤師になり、治療を受けた病人が死んだということもありました。そして、子どもが兵士になり、ベトナム軍に蹴散らされて、多くの子ども兵士が死んだのです。

 ベトナムのカンボジア侵攻後も、ポル・ポト派は反ベトナムの三派連合政府の一員となり、1999年まで存続しています。
 おまけに、帰順したポル・ポト派の幹部たちのほとんどが恩赦を受けて、罪を問われていません。彼ら幹部たちはポル・ポトに責任を押しつけて、のほほんと生活をしている。
 結局、ポル・ポトは死に(病死か他殺かは不明のまま)、二人が逮捕されただけで、ポル・ポト派を裁く国際裁判はいまだに行われていないのです。

 どうしてかというと、まずベトナム(=ソ連)の力がインドシナ半島で強くなることを警戒した中国、タイがポル・ポト派を支援し、アメリカもそれに同調したため、ポル・ポト派は生き延びたわけです。
 その後も政治の駆け引きと責任逃れ、すなわち中国やタイ、アメリカの思惑と、カンボジア政府要人もポル・ポトと無関係とは言えない人が多いため、裁判が行われないのです。
 このことを思えば、イラクのフセイン元大統領の裁判などは茶番としか思えません。

 2003年、「カンボジア・デイリー」の投書欄に、「この国にもヒトラーのように国を愛し、スターリンのように真面目な、立派な指導者が欲しい」という、15歳の高校生の投書が載ったそうです。ポル・ポト時代を知らない人が増え、風化しているわけです。

 桜木和代弁護士はこう言っています。
「(ポル・ポト派を裁く)この裁判はなお政治駆け引きに相当利用されるだろう。しかし、事実の検証だけはしっかりやってほしい。たとえ被告人が少なくても、背景の事実をきちんと裁判文書として残すことが大事だ。ベースをしっかり出せば、後で歴史が判断できる」

 ポル・ポトはどういう人間なのでしょうか。
 独裁者というのは目立ちたがりが多いようですが、ポル・ポトは表に出ることを好みませんでした。国民の前に出ることはほとんどなく、私生活を語っていません。76年4月に首相に就任した時も、国際的には知られていなくて、経歴や写真も公表されていません。
 ポル・ポトは猜疑心が強くて人を信用せず、つねに暗殺を怖れていたので、側近も次々と粛清しています。
 そういう人物なのに、シアヌークですら「柔和で微笑し礼儀正しく話す」ポル・ポトに感心し、カリスマまで感じてしまうのです。話にはユーモアがあり、人を魅了したそうです。
 人間というのは不思議なものだと思います。

 ルワンダでは、1994年4月から約100日間で750万人の人口のうち、少なくとも80万人が殺されました。多数派のフツ族至上主義者がかつての支配層ツチ族の絶滅をもくろんだのです。フツ族であっても、反体制派や虐殺に参加しようとしない者もツチ族の仲間と見なして殺しました。

 ルワンダを植民地にしたベルギーは、ツチ族にフツ族を支配させ、小学生に人種の優越性と劣等生の理論を叩きこみ、両者を対立させました。独立を求める運動の中で、フツ族はツチ族を敵視するようになったのです。
 フィリップ・ゴーレイヴィッチ『ジェノサイドの丘』によりますと、
「虐殺がはじまる前、殺人者と犠牲者は隣りあって暮らしていた。フツ族とツチ族の結婚も当たり前のことだった。にもかかわらず、ある日殺害がはじまると、殺人者たちは山刀と釘を埋め込んだバットを手に、隣人を、親戚を、商売相手を殺していったのである。あまりにも多くの人が、あまりにも簡単に殺人者となることを選んだ」

 国連をはじめとする国際社会は、ルワンダで虐殺が行われるかもしれないこと、そしてルワンダで虐殺が行われていることを知りながら、ただ傍観していたのです。ツチ族絶滅作戦が計画されているという情報を手に入れたUNAMIR(国連ウガンダ支援団)は、国連平和維持活動本部にFAXを送ったが無視されました。というのも、その数ヵ月前にソマリアから国連軍が撤退しており、国連としてはアフリカの内紛にこれ以上関わり合いたくなかったからです。虐殺が目の前で行われていても何もせず、そればかりか国連は4月21日にUNAMIRの要員を9割削減し、270名を残して撤退しました。
「金持ちでないかぎり国際社会を頼ることはできない。我々は違うんだ。我々は石油を持っていないから、たとえ我々の体に血が流れていようと、我々が人間だろうと、そんなのはどうでもいいことなんだ」

 私たち日本人も虐殺について無関係だとは言えません。私たちはルワンダで百万人が死んだということを気にもとめていませんでした。ルワンダ人を見捨てたということでは同罪なのです。

 反政府軍RPFがルワンダ全土を制圧すると、何十万人ものフツ族難民とともに、フツ族至上主義者や民兵がザイールに逃げました。ところが、彼ら武装集団がザイールの難民キャンプを支配し、世界中から集まった人道援助の食糧、医薬品などを占領したのです。
 フツ至上主義者や民兵がキャンプを牛耳って、毎月、ザイールにいるすべての難民家族から現金や食料援助の一部というかたちで税金を取り立てており、帰国しようという難民を脅かしているという状態でした。にもかかわらず、国際部隊によって、国連の国境難民キャンプ内にいるフツ至上主義軍と民兵を制圧して武装解除することは実現しませんでした。そのかわり彼らを保護していたのです。

 ジェノサイド(民族虐殺)は周到に準備されており、加害者たちだけでなく被害者たちまでもが起こるのを待ちかまえていたそうです。なぜ虐殺の犠牲者は抵抗しなかったのでしょうか。
「わたしは死を受け入れていた。拷問は受けたくないが、死は避けられないものと思ってしまう。マチェーテ(山刀)で殺されるのではなく、銃弾で殺されればいいと思う。お金さえあれば、射殺してくれるよう金を払って頼んでもいい。死は当たり前のこと、諦めて受け入れることになっていた。戦う意志をなくしてしまうんだ」

 では、なぜ隣人や同僚を殺すことができたのか。
「中にはためらう人間もいる。そいつが棒を持ってきたとしよう。連中は『駄目だ、マス(釘を埋めこんだ棍棒)を持ってこい』と言う。はい、っていうんでそいつはマスを持ってくるけど、誰も殺そうとしない。するとこう言われる。『おい、こいつは後から訴え出るかもしれない。こいつにも殺させよう。みんな少なくとも一人は殺すんだ』そうやって、殺人者じゃなかった奴もやらされる。次の日からはそいつにとっても楽しみになる。もう無理矢理やらせる必要はない」

 殺される側にまわるか、殺すほうになるか、それはたまたまなのです。私たちだって、条件がそろえば嬉々として人を殺すし、条件が違えばおとなしく殺されていくかもしれません。
「殺人はごくたやすいことだった。ただ政治家から憎悪を吹き込まれ、ひとふりのマチューテをわたされるだけで誰でも殺人者になれてしまう。その恐ろしさを我が身のこととして考える想像力があってもいいのではなかろうか」

 そう、私も殺人者になるかもしれません。自分はそんなことはしないと言いきれる人がいるでしょうか。ちょっとしたきっかけで誰もが殺人者になるのです。