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  スピリチュアル

香山リカ『スピリチュアルにハマる人、ハマらない人』 幻冬舎新書
 
 ニューエイジ

 スピリチュアルとは幅広い思想ですから、みんな適当な意味で使っているように思います。

 「世界保健機関憲章」の前文ではこういう健康の定義をしています。
「身体的・精神的・(霊的・)社会的に完全に良好な(動的)状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない」(カッコ内は改正案)
 医療の現場で「スピリチュアル・ペイン(スピリチュアルな痛み)」「スピリチュアル・ケア」が言われています。たとえば、末期の患者が「どうして死ななければいけないのか」「どうして苦しい思いをしてまで生きなければいけないのか」といった苦悩を持ちます。それがスピリチュアルな痛み、それをケアするのがスピリチュアル・ケアです。

 弓山達也はこういう定義をしています。
「教団が社会的な影響力を失っていくなかで、なおかつ求められているものを「宗教性」と呼ばせていただくと、この宗教性のことを「スピリチュアリティ」と呼び、また宗教を介さなくても、自己を超えた何者かとつながれるのであれば、それを宗教ではなくスピリチュアリティと呼ぼう、ということだと理解していいでしょう」(弓山達也「現代人の生命観とスピリチュアリティ」「親鸞仏教センター通信」26号)
 スピリチュアルとは宗教的なものをすべて含む概念だということです。

 ですが、一般的にスピリチュアル(霊性)というのは霊魂のおしゃれな言い方だと考えれば間違いないと思います。スピリチュアル・カウンセラーというと霊媒よりも高尚な感じがします。
 でも、江原啓之は『あの世の話』で、指導霊が天狗だと傲慢になりやすい(鼻が高くなる)、狐霊はずるい一面を持つ、龍神だときつい性格など、拝み屋さんみたいなことを言っています。

 香山リカはこのように定義しています。
「もともとスピリチュアリズムという語は日本語では「心霊主義思想」などと訳される。簡単にいえば、「死後の生」や「霊魂」などこの世を超えた目に見えない世界やそこでの現象を信じること、またその世界からのメッセージを受け取れること、と考えてよいだろう。(略)つまり、「スピリチュアル」は「オカルト」の一分野と言ってもよいだろう」(香山リカ『スピリチュアルにハマる人、ハマらない人』)

 しかし、オカルト愛好家とスピリチュアル好きの人とは違います。
「霊と交信することじたいが、スピリチュアリズムの目的ではない。あくまで、それを用いて、いまの自分について考える。しかも、自分が「なぜ生まれたのか」「生きている意味とは何か」「本当の幸福を得るためにはどうすればいいのか」といったことについて考える。それがスピリチュアルの目的だ」

 一見、スピリチュアルとは哲学的、宗教的なようですが、宗教とスピリチュアルとは違うと香山リカは言います。宗教は「人々の幸せ」、スピリチュアルは「私の幸せ」を問題にするからです。スピリチュアルは「実は圧倒的な自分中心主義であり、しかも「現世」中心主義なのだ」そうです。つまり、自己の欲望の正当化がスピリチュアルの特徴なわけです。

 「波動」「オーラ」など目に見えないはずものを、スピリチュアル信者はさも見えるように語ります。林真理子は江原啓之との対談で、「目に見えるものしか信じないというのは、すごく狭量だと思います」と言っているそうです。
 これは超常現象懐疑派を狭量と批判するのと同じで、スピリチュアルを信じるのは「柔軟さ」「心の広さ」の証拠というわけでしょう。徹底的な「現世利益」と「個人の幸福」の追求がスピリチュアルなのですから、狭量なのは自分たちのほうなのに。

 『スピリチュアルにハマる人、ハマらない人』の「スピリチュアルちょい批判」をまとめてみました。

  批判その1
スピリチュアルが説く「すべてのできごとは偶然ではなく必然」「あなたが生まれたのには意味がある」「あなたの役割は前世から決まっていた」というメッセージはオウム真理教と同じである。しかし、スピリチュアルにはまっている人にはその自覚はない。なぜか。
「それは、彼らの中には、自分がいま夢中になっているスピリチュアルが、オウム真理教のような危険なカルトや怪しげな新興宗教と実は地続きなのだ、という連続性の感覚が極めて乏しいからだ」
すなわち、スピリチュアルにハマる人は、カルトにもハマりやすい。

  批判その2
自分、特に自分のマイナス面を見ない。幅広いものの見方、自分に対する批判的な眼を持たない。ものわすれの深刻な人が増えている。
「外傷体験とも言えないほどの〝ちょっとしたイヤなこと〟で簡単に心の統合が崩れ、そのイヤなできごとの前後の記憶を意識から切り離してしまうのだろう。
その様子を見ていると、この人たちは〝イヤなことできごと〟に直面し、落ち込んだり腹を立てたり反省したりする手間よりも、それを心から切り離して、考えないようにしてしまうほうがずっと簡単でラクなのでそうしてるのではないか、と思えるほどだ」
「(ものわすれは)いまの世の中をあまり考え込まずにすいすいと泳いでいくための、ひとつの“生活の知恵”なのである」

すなわち、スピリチュアルにハマる人が増えたら、一億総白痴化になってしまう。

  批判その3
「問題は社会にある」と言われてもピンとこないが、「問題は前世にある」と言われるとストンと腑に落ちる。自分を棚に上げて「世の中が悪い」と言うのも問題だが、「自分の思いを変えればいい」とすべてを自分の心の問題とし、社会を見る目を失うことは、権力にとって都合がいい。
すなわち、スピリチュアルにハマる人は、権力の言いなりになる。

  批判その4
「科学的正当性、科学的根拠に対するハードルの低下が、社会の中で起きている」
たとえそれがウソであっても、「それでみんなが幸せになるならいいじゃないか」と真実かどうかは問題にならない。たとえば、ニセ科学、ニセ健康法・ニセ健康食品でも「何らかの効果があるなら、それが心理的効果でも本物の薬効でも、どちらでもいいじゃないか」ということである。
霊媒師、占い師は相談者が言ってほしいと思っていることを言うものだとわかっていても、「だまされてもいい、いい気持ちにさせてくれたら」と思っている。
「自分自身の頭や心で考えずに、その答えを誰かに求めようとする」
すなわち、スピリチュアルにハマる人は、悪徳商法にもひっかかりやすい。

 批判その4につけ加えるなら、佐藤愛子・江原啓之『あの世の話』で江原啓之は、精神分裂は憑依現象であり、ノイローゼ、躁うつ病も憑依体質が出すものだ、病院に行くよりも心霊の治療をすべきだと、言っています。これははなはだ問題です。精神をわずらっている人が霊能者のもとへ行けば、よくなるものも一層悪くなるのは自明だからです。
 夢を見たいというので、どんな馬鹿げたことでも信じることで、健康やお金などいろんなものを失ってしまうこともある、ということを知るべきです。