真宗大谷派 円光寺 本文へジャンプ

  ニューエイジ・スピリチュアル・精神世界 3

1,ニューエイジ・スピリチュアル・精神世界とは何か
2,私とニューエイジ
3,ニューエイジ・スピリチュアル・精神世界の問題点
4,ニューエイジの霊魂観

 
 3,ニューエイジ・スピリチュアル・精神世界の問題点

 ニューエイジとは、今までの世界が終わって新しい時代(愛と平和と調和の時代、霊性の時代)が始まる、ということです。これはキリスト教の終末論、まもなく裁きの日が来て、古い世界は滅亡し、選ばれた目覚めた人による新しい世界が始まる、という考えが基礎になっています。

 ヨハネ・パウロ2世は、ニューエイジはグノーシス主義だとして切り捨てています(ヨハネス・パウルス2世『希望の扉を開く』)。ニューエイジの直接の源流はブラヴァツキー夫人(1831~1891)の神智学協会(キリスト教の終末論に加え、グノーシス主義や薔薇十字団といったキリスト教異端思想、それに東洋思想をまぜたもの)です。
 Wikipediaによりますと、グノーシス主義では、
「グノーシス主義は、地上の生の悲惨さは、この宇宙が「悪の宇宙」であるが故と考えた」
「善とされる神々も、彼らがこの悪である世界の原因であれば、実は悪の神、「偽の神」である。しかしその場合、どこかに「真の神」が存在し「真の世界」が存在するはずである」

と考えます。つまり、この現実の世界、この私は、本当の世界、本当の私ではなく、本当の世界は別にあるんだというわけです。 そして、肉体の中に魂が閉じこめられているから隠されている知に目覚めなさいと説きます。精神(霊性)を重んじ、肉体を軽視します。

 インド思想の梵我一如は個(我)から全体(梵)へ統一、ということを説いています。ヒンズー教のシャンカラの不二一元論は次のように説きます。

「宇宙にはたった一つの真の現実だけが実現する、と教える。それがブラフマン、永遠存在、あるいは西洋人流にいえば宇宙意識である。私たちが現実であると思っているものは、実際は私たちがそう思いこんでいるものに過ぎない。私たちが世界とみなしているものはブラフマンとの関係は、マーヤーとして知られる。自己と絶対存在との合体を完全に成し遂げたなら、解脱を迎える。永遠存在は、神秘体験、霊的直感、瞑想を通して到達可能である」(レイチェル・ストーム『ニューエイジの歴史と現在』)

 グノーシス主義やインド思想などの、どこか別のところに本当の世界があると考え、現実や肉体を軽視する思想がニューエイジに大きな影響を与えています。そして、19世紀に盛んになった心霊主義(スピリチュアリズム、霊魂の実在の科学的証拠があるという主張)も、ニューエイジに取り入れられています。

「論証を放棄し、知性よりも直観を、理論よりも感性を尊重することで、ニューエイジは異質な諸信念幅広く上手に取り込む」(レイチェル・ストーム『ニューエイジの歴史と現在』)

 ニューエイジの主張をまとめてみましょう。
 今の私とは違う「
もう一つの私」があり、それが「本来の私」である。今の私は「本当の私」「真の私」ではない。そして、今のこの世界は「本当の世界」ではない。だから、「本当の世界(リアリティ)」「本当の自分」に目覚めなければならない。
 「
霊性(スピリチュアル)」こそ「本来的自己」である。「本来的自己」は「宇宙意識」という超越的存在とつながっている。「霊性の覚醒」「意識の覚醒」をするためには、瞑想・苦行・薬物などによる神秘体験、あるいは超常体験による「自己変容」「意識の変容」が必要である。
 「
本当の世界」とは「高次の世界」「霊性の世界」である。「霊性の世界(スピリチュアル)」は近代科学ではまだ解明できないし、私たちの日常意識では認識できない。
 「
霊性の世界」にはいくつものレベル、ステージがある。「意識レベル」を向上させることが人間に生まれた目的である。そして、「高次の意識」を獲得する者が増えれば、人類は「進化」する。進化とは肉体面よりも精神面、霊性での進化である。「個人の変革」が「世界の変革」をもたらす。(「 」の中の言葉がいくつか出てきて、肯定している文章を見かけたら、さんくさいと思えば間違いありません)

 たとえばエド・ミッチェルという宇宙飛行士はこのように言っています。立花隆もこの考えに同調しているように思われます。
「宇宙の本質は、物質ではなく霊的知性なのだ。この本質が神だ。人間のみならず、世界のすべてが精神的に一体である」(立花隆『臨死体験』) 


 ニューエイジ・精神世界の問題点には次のものがあると思います。
① 「本当の私」「本当の世界」という虚構
② 現実や肉体の軽視
③ 神秘体験至上主義
④ 悪徳商法やカルトとの関わり



  ① 「本当の私」「本当の世界」という虚構

 ニューエイジ・精神世界は科学では解明できていない世界、あるいは人間が認識できない、通常の感覚では把握できない世界があると主張します。

「通常私たちが理解している世界など幻想にすぎない」(レイチェル・ストーム『ニューエイジの歴史と現在』)

 それはその通りです。私たちの認識や知識は有限であり、不完全であり、部分的であることは認めざるを得ません。現在の科学で解明できていることなど本当に限られたものです。だからといって、現在の科学はまったくのデタラメではないし、役に立たないわけではありません。そして、私たちが生きているこの現実は幻ではありません。
 「本当の世界」とはどういうものかを科学では解明できず、日常の感覚では認識できないのなら、どうして本当の世界があるとわかるのでしょうか。それは神秘体験や超常現象によってです。しかし、瞑想や臨死体験などで経験した自分の神秘体験を絶対化し、体験を自分の考えに合うように都合よく意味づけし解釈しているだけのことです。「本当の世界」体験を語っているにすぎません。

「重要なのは体験であって、言葉ではない。メッセージは感覚を通してやってくる。知性を通してではない」(レイチェル・ストーム『ニューエイジの歴史と現在』)

 神秘体験や超常現象のように科学で解明できていない現象はいったい何なのか、その説明はあくまでも仮説です。仮説はいくらでも考えられます。しかし、ニューエイジでは自分の考えとは違う可能性、仮説は切り捨ててしまい、あらかじめ考えられている結論に強引に結びつけます。
 そのいい例が立花隆です。谷田和一郎が立花隆のオカルト的なものに対するパターンを書いています。

「まず、最初はオカルト的現象に対して、ひとまず疑問を提示する。ただし、これはあくまでもポーズでしかない。一応疑問を示しながらも、オカルトを頭ごなしに否定するのは非科学的であると言って、オカルトの実例をいくつも挙げていく。
 この実例が、かなり長い。あまりに長いものだから、途中で論理の道筋がよくわからなくなっていき、いつのまにか最初の批判的なトーンは薄れて、最終的にはオカルトに肯定的な結論が導き出されていく」
(谷田和一郎『立花隆先生、かなりヘンですよ』)

 これは臨死体験についての論法です。

「はじめに「本人の報告を信じる限り」と注釈をつけておきながら、最後には「このような例を否定するわけにはいかないだろう」と締めくくっている。最初に、報告を「信じる限り」と仮定していたのに、最後には報告が「正しい」ことになってしまうのである」(谷田和一郎『立花隆先生、かなりヘンですよ』)

 こうした論の進め方はニューエイジャーに一般的に見られます。「まず初めに結論がありき」です。そして実例(と称するもの)をあげ、「そうらしい」「ありうる」「かもしれない」という曖昧な表現を使いながら仮説(すでに用意されてある結論のこと)を述べ、こういう実例が積み重なると否定できないと言い、いつの間にか「これ以外考えられない」と断定するわけです。ところが、実例が真実かどうかは検証されません。そこを批判すると、体験していない者にはわからないと言って、反論を認めません。

 こんなことを言うと、「いや、ちゃんと科学的に証明されている」とニューエイジャーは反論するでしょう。近代科学の限界を強調し、時には否定するのに、自らの仮説の正しさを言い立てる時にはなぜか科学的な装いをとります。(宗教でも、科学を教義の証明、正当化に使う教団があります。これは科学教という宗教の一種に膝を屈することです。教えの頼りなさを広言しているようなものです。この点も怪しい宗教を見つけ出すためのリトマス試験紙になるでしょう)

「奇妙な説やニューエイジ信仰に引き寄せられやすいのは、うわべだけの学術的世界に住む人々だと気づいた」(マイクル・シャーマー『なぜ人はニセ科学を信じるのか』)

 マハリシのTM瞑想の効果は科学的に実証されているとか、瞑想の時にアルファ波やシータ波が出ている云々とか、量子力学がどうしたとか言ってます。もっとも検証してみると間違っていたり、類似している点を強調し、こじつけているにすぎないのですが。おまけに、仲間内しか通用しない意味不明な使い方がされますから、第三者にはチンプンカンプンです。
「量子力学では」とか「
波動」「場のエネルギー」といった言葉が出てきたら、これは怪しいと思えば間違いありません。他にも、フリーエネルギー、磁気効果、活性酸素、右脳左脳、前頭前野、クラスター水、マイナスイオン、アルカリイオン、ホメオパシーなども怪しい言葉です。

「これら科学用語を使えば、それがなぜ効能があるかよくわからないけれども、なんとなくありがたそうに思える点が重宝される。難解そうな感じが、いかにも深遠な意味があるかのような気分にさせると期待するからだ」
「物理学の用語は硬いものが多いが、それがかえって受ける要素になっているのかもしれない。用語の硬さが難しそうな雰囲気を醸し出すとともに神秘性を感じさせ、信用できるという印象を与えるためだろう」
(池内了『疑似科学入門』)

「連中は、ハイゼンベルクの不確定性原理とシュレーディンガーの猫とゲーデルの不完全性定理を根拠にして、科学的証明などというものはない、科学は世界の一つの解釈に過ぎず、ほかに正当な解釈がいくつもあるなんて言っているんだ」(デイヴィッド・ロッジ『考える…』)

 仲間内でわけのわからない話をするのならまだしも、教授や博士という肩書きを持つ人が、「科学的にこうだ」とニューエイジの主張を肯定する場合があります。たとえばオカルトです。死後の世界、霊魂、超能力、超常現象、宇宙人などについて、「こうした現象が実際にあると科学的に証明された」なんてウソを平気で言う人がいるんですから困ったものです。

 心霊主義の創始者とも言えるフォックス姉妹は霊との交信はいかさまだったと告白しています。「天中殺入門」を書いてブームを起こした和泉宗章もその後、占い批判をしました。ところが、本人が明らかに否定しているにもかかわらず、いかにも事実のように書いている人は少なくありません。

 谷田和一郎は立花隆批判の中で次のように言っています。
「オカルト作家がオカルトの話を書いても、新興宗教の教祖がオカルト的なことを言っても、もちろんそれは許容の範囲内にある」(『立花隆先生、かなりヘンですよ』)

 しかし、大学教授、博士、著名人(立花隆のような)がオカルト肯定論を語ったら、信じる人が出てくるわけですから、その害毒は大変なものです。

 結局のところ、ニューエイジは島薗進の言うように、ニューエイジは「新宗教以後の宗教運動」です。
 宗教の定義は難しいのですが、土屋賢二『
ツチヤ教授の哲学講義』によりますと、
「宗教では、常識からすればとても信じがたいようなことを多くの人が信じているんですよね。それが宗教です」

「宗教というのは、この人生、この世界で、何が重要なことかということに関係するように思うんです。その人が何を重視するかという人生観の問題というか、価値観の問題というか、その人の生き方の問題なんです」

とあります。

 たとえば、神の子、最後の審判、信仰すれば幸運になる、悪いことをすればバチが当たるなど、反論することもできないし、証明することもできない、しかしその人にとって重要なことを信じることが宗教だという定義はニューエイジにも当てはまるように思います。もっともニューエイジはかなり怪しい宗教運動ですが。

「確かに魅力的なファンタジーだが、そうなるという根拠はどこにもない」(菊池聡『不思議現象 なぜ信じるのか』)


  ② 肉体の軽視、現実逃避  夢としての「本当の私」「本当の世界」

 精神性(霊性)を重んじ、我々の生きているこの世界は真実の世界ではないと説くニューエイジは、肉体を軽んじ、現実に目をつむります。そして、何かあればすべて心の問題にしてしまいます。アメリカのテレビ説教師がこう言っているように。

「病気で苦しんでいる人に対して、その病気はあなた自身が作り出した物語に過ぎない、犠牲者根性を振り捨てて、考え方を根本的に改めるかどうかも、あなた次第だ」(レイチェル・ストーム『ニューエイジの歴史と現在』)

 その極端な例がオウム真理教のポアです。死ぬのは肉体だけで、霊は不滅だから、肉体を離れることによって霊性をよりよいものにすればいい、と言っているわけですから。
 社会の問題(戦争、飢饉、病気など)を心の問題として片づけ、自分が今生きている現実、生活を見ません。だから、苦しんでいる人が目の前にいても、何が本当に問題なのかがわからなくなってしまいます。
そして、ニューエイジが与える
・私には隠された能力(超能力も含む)がある(本当の私)
・より素晴らしい未知の世界がある(本当の世界)
・願望は必ずかなう

という夢の中に生きるのです。。

「自己啓発本や精神世界本と呼ばれる本は基本的に人間の願望に肯定的である。いずれも人の直感力や感性のすばらしさをたたえ、誰もが未知の隠された能力を持つと説いている。気の持ち方次第で人生は成功する、医者や手術に頼らなくても病気は治る、死んでも魂は不滅だから怖くない!と」(菊池聡『超常現象の心理学』)

 ニューエイジで語られることは、あまりさえない日常、平凡な自分という現実を見つめ、受け入れることができない人の、こうあってほしいという願望(本当の自分はもっと違った存在なんだ、自分は特別な人間であり、選ばれた存在なんだ)を、科学的体裁を装い、もっともらしい語句を並べて説いているにすぎません。
 ニューエイジにはまっている人にとって、そうした「本当の世界」という虚構のほうが楽しいですから、自分自身や自分が生きている社会、環境をきちんと見ることをせず、事実を曲げてまでもニューエイジの与えてくれる物語を信じるわけです。
 自己啓発セミナーがはやるのも同じ理由からです。家庭や学校、会社などで演じさせられている自分とは違う「本当の自分」と出会えたという喜び(錯覚にすぎないのですが)を与えてくれます。
 もっともそれは夢を見ているにすぎません。いつかは醒めます。しかし、現実よりも夢のほうが居心地がいいものですから、醒めてもまた夢を見ようとして、宗教やセミナーのハシゴをすることになります。そうして現実に適応することが難しくなってくのです。

 死後の世界や生まれ変わりがニューエイジで説かれるのも、人間は死すべき存在であるという事実が認めず、死んでも死なないんだ、そう信じたほうが得だ、ということがあるからでしょう。

「ニューエイジは何が現実かという感覚すべてを失ってしまったように見えるのだ」(レイチェル・ストーム『ニューエイジの歴史と現在』)

 しかしながら、人生はいいことばかりではありません。つらいことが多く、いささかつまらない平凡な毎日をおくるという現実は楽ではありません。そして、人間は不完全で、誤りをしばしば犯します。だけど、それが現実です。残念ではありますが、私は別の人間にはなれないし、別の人生を歩むことはできません。

「いやなこと困難なことを避けて、心地よい楽な物語を提供するというのがニューエイジの特徴なのだろうか」(海野弘『世紀末シンドローム』)


  ③ 神秘体験至上主義

 本当の世界、本当の自分を知るには通常の意識では不可能です。瞑想・苦行・薬物などによる神秘体験、あるいは臨死体験のような超常体験によって意識が変容しなければいけません。

 諸富祥彦『
人生に意味はあるか』にこう書かれています。
「(トランスパーソナル心理学では)臨死体験などをある特定の意識状態(変性意識状態)におけるリアルな現実と認めていくのです。
変性意識状態とは何か。それはたとえば、夜見る夢や、宗教的な覚醒体験や宇宙や大自然との合一といった日常とは異なる意識体験のことです。神秘体験や臨死体験をはじめ、体外離脱体験、前世の体験、死者とのコミュニケーション体験などもここに含まれます。そして、こうしたさまざまな特殊体験の本質的な意味を理解するには、それぞれ意識状態に応じた科学が必要であると考えるのです」


 諸富祥彦自身はこういう経験をしています。中2の時から7年間、死に物狂いで人生の意味と目的を求め、心身はボロボロになり、自殺未遂までした。ある日、「このままでは仕方がない。これから三日間、飲まず食わず寝ずで、本気で答えを求めよう。そしてそれでもダメだったら、今度こそきっぱりと死のう」と決意した。三日後、答えは見つからなかった。「どうにでもなれ」と、すべてを投げ出した瞬間、答えはやってきた。

 諸富祥彦はここを具体的に説明しています。「どうにでもなれ」と、その場にうつぶせに倒れこんだ。しかし、からだがとても軽い。不思議だなと思って、あおむけになってみると、おなかのあたりの1メートルほど上に、何かとても強烈な「エネルギーのうず」のようなものが見えた。見たとたん、「これが私の本体である」とわかった。「何だ、そうだったのか」と、その瞬間、すべてがわかった。
そして、このように諸富祥彦は結論づけています。
「人生の意味は認識する真理ではなく体験する真理なのだ」
「その「体験」を持たない者は、決してその「答え」に至ることはできません」


 諸富祥彦は自身が体験した経験がいったいどうして生じたか、リアルな体験か、それとも幻覚なのかといったことを吟味しているようには思えません。どうも自分の体験を絶対視し、真理を体験したんだと思い込んでいるように感じます。
はたして本当にリアルな体験なのでしょうか。

 坐禅をするといろんなイメージ、たとえば金色の仏が見えたり、光が輝くのが見えたりと、実際にはありえないさまざまなものが見えたり聞こえたりするそうです。悟ったと早とちりする人がいますが、禅ではこれを魔境と言います。いかに明らかにいろんなイメージが見えたにしても、妄想にすぎません。魔境にとらわれてはならないと禅では教えます。

 オウム真理教でも神秘体験を重視していました。
「初めての体験(神秘体験)の感動は「今までこのために生きてきたんだな」と思うほどでした。
具体的にはまず気持ちが良くなり、身体が驚くほど軽く、柔らかくなり、ものすごい解放感と自在感に包まれ、「この肉体は仮の姿だったんだ」と気づき、輪廻転生の存在を確信しました」

「具体的な修行法があって、それをやることで自分が変わっていく。それをすることで、一時的だけれども心が安定したり、光が見えたりとかの神秘体験が起こるものだから、これは本物だと確信してしまう」(『オウムをやめた私たち』)

 オウム真理教を離れてみると、神秘体験をしたことは事実であっても、その体験に自分たちに都合のいい特別な意味づけをしたことが間違いだったと気づくわけです。

「あくまでも神聖な体験なのに、それを解脱だとか、成就だとか、エゴを満たす手段として使ってしまった」

「長年サマナをやっていたら、将来が不安になってくるんです。本当にこのままでいいんだろうか。でも、この状態でいい、正しい、自分の選択は間違っていないんだって自分を納得させる手段が神秘体験で、じつにうまく利用していましたね」
(『オウムをやめた私たち』)


  ④ 悪徳商法やカルトとの関わり

 ニューエイジは理性よりも感覚を重んじます。そして、心地よいことを言って、現実から目をそむけさせ、夢を見させます。理性の軽視は常識の欠如を生みます。ですから、夢と現実が区別つかないニューエイジャーはだまされやすいと言えます。
 それで満足しているんならいいじゃないかと言われそうですが、その人だけの問題ではなく、まわりの人にも迷惑をかけることがあります。たとえば、占いや血液型性格判断にしても、最初は遊びのつもりが、いつの間にか自分の行動、思考、判断を縛りつけられてしまい、縛られていることに気づかないまま、いろんなもの(お金・常識・自分で決断すること・責任感etc)を失います。
 そこで、悪徳商法、インチキセミナー、エセ宗教は人を操る手段としてニューエイジを利用します。ニューエイジャーは彼らの餌食になり、ニューエイジ商品(香やオイル、水晶、サプリメント、占いグッズなど)、自然食品や健康器具、あるいは瞑想の会やヨーガの会、そして自己啓発セミナーなどで無駄なお金を使うことになります。それなのに、騙されていることに気づかないままでいます。

 櫻井義秀『霊と金』に、札幌のすぴこん(スピマ)に出店している店舗について書かれています。その中からいくつかを紹介しましょう。
入場料1800円
癒しマッサージ部分20分1500円
オーラ写真撮影2000円、プラス1000円で解説
オーラ診断2000円
ワンネス、各種ディクシャ(脳にエネルギーを与える)2000円
ダウジングによるチャクラ測定20分2000円
リンパセラピーによる小顔マッサージ1000円
霊気による血液交換法15分1500円

 スピマでの料金はお試し価格で安めに設定してあるそうです。
セッション価格は、「オーラを見る教室」の2時間3150円、チャクラヒーリング1時間1万円、波動調整1時間2万5000円など。
研修講座は、光の言葉セラピーヒーラー1日3万円、直伝レイキセミナー6日間9万5000円、エナジーセラピスト総合講座(色エネルギーによる癒し)受講70時間390,600円など。
 セラピーという言葉、なんだかうさんくささを感じます。
「そんな夢を買うおまえなら、きっとなんだって買うだろうさ」(レイチェル・ストーム『ニューエイジの歴史と現在』)

 シャリー・マクレーンはチャネラーに何度も騙されていますが、それでもチャネリングを信じています。キューブラ=ロスは騙されたことすら認めようとしませんでした。
「キューブラー=ロスのメッセージは微妙な形で害を及ぼす。知的水準を低下させるのだ。少なくとも宗教的な問題においては、何であれ自分にとって喜ばしいことを信じるがよいと説いているに等しいからである。苦痛を回避することだけが善ではない。「誠実であること」にも価値があるのだ。たとえ不愉快きわまりない結論であろうと、それが正しいという証拠があれば潔く受け入れるという態度である」(ポール・エドワーズ『輪廻体験』)

 とりあえずは、「地球に優しい、人間に優しい、身体に優しい」「本当の自分探し」といった、いかにももっともらしいキャッチフレーズには用心したほうがいいでしょう。

 そして、気功・ホメオパシー・アロマテラピー・カイロプラティックといった代替療法、あるいは民間療法、さらには前世療法、催眠療法までをも含むホリスティック(全人的)医学を、私はうさんくさく感じます。

「ホリスティック医学の思想は、臓器や細胞などといった部分をみることに 急なあまり、人間を全体的にみることを忘れてしまった西洋医学に対する 反省から1960年代のアメリカで興った概念です。
 ホリスティック医学をひと言でいうならば、人間をまるごと全体的にみる医学といえます。健康や癒しとは本来、身体だけでなく目に見えない精神・霊性も含めた人間の全体性と深く関係があります」(日本ホリスティック医学協会HPより)

 これまたもっともらしい説明です。しかし、ある人はこういう意見を言っています。

「全人的(ホリスティック)診療というのは結構でしょうが、それが非科学的な診療の体のいい言い訳に使われるのではたまったものではありません。
 近代医学を否定されるのならそれはそれで結構で、ご自由にシャーマンなり呪術医になりおなりになればいいのですが、それなら抗生物質を使わずに感染症が治せるのか、ワクチンなしでポリオが予防できるのか、外科手術なしで盲腸をどう治療するのか、近代医学を否定される方にはぜひ答えていただきたいところです」
 その通りですね。

 ホメオパシーという疑似科学の治療法があります。ウィキペディアにはこのように説明されています。
「ある症状を持つ患者に、もし健康な人間に与えたら、その症状と似た症状を起こす物質を薄めて、わずかだけ与えることによって、症状を軽減したり治したりしようとする療法のことである」

 物質を薄めれば薄めるほど、なぜか治療効果は強くなるそうですが、その理由がホリスティック医療をうたう帯津三敬病院HPにはこう書かれています。
「これが徹底しているのです。一兆倍以上に薄めて、薬剤の成分が一分子も含まれないような液にしてこれを用いるのです。一分子も含まれてないのでは、ただの水ではないか。それがどうして効くのかと、誰でも疑問に思います。ではホメオパシー側の言い分はどうなのでしょう。
 ホメオパシー側ではこのことを、「徹底的に薄めることによって薬剤の物質性が排除されて、薬の霊魂だけが残ります。これが効くのです」と言うのが、ホリスティック側の言い分です。
 これを額面通りに受け取ってしまうと、「それみたことか。霊魂なんて言って、私たちが求めているのは医学なんですよ、宗教ではないのですよ」と、西洋医学側からのホリスティック医学に否定的な陣営からの非難に、火に油を注ぐ結果になってしまいますが、霊魂といっても世間でいうような、おどろおどろしいものではありません。
 霊魂とは「いのち」の場のエネルギーです。ホメオパシーで用いられる薬剤はレメディ(Remedy)と呼ばれ、わずかな例外を除いて、自然界にあるもの-植物も、動物も、鉱物も、そのまま使います。
 そのレメディの持つ場のエネルギーが、与えられた者の「いのち」の場に働いて、このエネルギーを高めるのです」


 私はこれを読んでのけぞってしまいました。もとの物質の分子が一つもないような水は、ただの水にすぎません。そんなものが薬だとしたら、メリケン粉を薬だと信じて飲むのと変わりません。仮に治癒したとしたら、それはプラシーボ(偽薬)効果です。

 帯津三敬病院のHPでは、
「ホリスティック医学を目指す者にとって、ホメオパシーを避けて通ることは出来ません。日本にホリスティック医学を成就させるためには、ホメオパシーの普及が不可欠であり(略)日本の医療レベルがアップするためにはホメオパシーが必要であるとの認識が強まっています」
とあります。私はこんなことを本気で信じている医者に診てもらおうとは思いません。

「きみはもし癌に罹ったら、足の裏をマッサージする反射療法とアロマセラピーは外科手術と化学療法に劣らないと考えているポスト・モダンの腫瘍専門家のところに行くかい」(デイヴィッド・ロッジ『考える…』)

 そしてニューエイジはカルトとの関わりもあります。アメリカ西海岸では70年代以降、多くのカルト集団が生まれました。

「アメリカでは1960年代のカウンターカルチャーに挫折したヒッピーたちが70年代にカルトに流れ込んだ」(越智道雄「カルトと終末思想」『新宗教時代5』)

 ニューエイジは既成教団との関わりを否定しますから、宗教を警戒する人も受け入れやすい。宗教ならうさんくさいけど、科学なら間違いない、というわけです。
 しかし宗教と無関係でないどころか、多くのニューエイジ系の宗教が生まれています。サイババがそうですし、アメリカでは、愛の宗教、ラエリアンムーブメント、サイエントロジーなどの明らかなインチキやカルトもニューエイジと関係しています。日本でもオウム真理教や幸福の科学などニューエイジ系の新宗教が生まれています。オウム真理教は新しい時代(ニューエイジ)を自分たちの手で実現しようとしました。
 私は、ニューエイジはカルトの温床だと思います。