真宗大谷派 円光寺 本文へジャンプ

  近松 誉さん 「真宗の仏事」
     第2回 「本堂とお内仏の荘厳」

                            2022年4月22日
 こんにちは。よろしくお願いいたします。今日は「本堂とお内仏のお荘厳」というテーマで、本山や一般寺院の荘厳、家庭のお内仏の荘厳を考え、そして本山とそれぞれのお寺、ご門徒の家のお内仏(仏壇)との関係についてお話ししようと思います。

1 真宗本廟の歴史
 私たちの本山の通称は東本願寺で、これは正式名称ではありません。江戸時代の正式名称は「本願寺」です。東というのは便宜上ついています。江戸時代の古文書には「本願寺」と書いてある斜め上に、小さく「東」と記してあります。西本願寺さんでも正式名称は「本願寺」で、右肩のところに「西」と書いてあるんです。

 私たちの本山の正式名称は「真宗本廟」です。廟とは廟所のことで、墓所です。実は、本願寺はもともとはお墓所なんですよ。私たちの本山はお寺でありながら、御影堂が中心で本堂はその横ある。それは元々が廟所だからです。

 『真宗の仏事』(東本願寺出版)にこのように書かれています。
「一二六二(弘長二)年十一月二十八日、聖人は九十年の生涯を終えられ、京都東山の西の麓、大谷の地に遺骨が納められました。そして、一二七二(文永九)年十一月にそれまでの墳墓を改め、廟堂が建てられ聖人の御影像が安置されました。これが大谷祖廟の起源であり、本願寺の始まりです」

 親鸞聖人が亡くなって十年後にお墓を改めて廟堂というお墓所が作られました。これが本願寺の始まりなので、本山の正式名称は真宗本廟なんです。

 親鸞聖人のご廟、お墓を中心として作られたわけですから、真宗本廟と言っている由縁は御影堂にあります。それで本願寺の境内の中心に御影堂があるわけです。御影堂には御真影と呼ばれる宗祖親鸞聖人の木像があります。親鸞聖人のお住まいであり、御座所であり、道場でもあるという場所なんですね。そこで宗祖から念仏の教えをお聞きするという形を取っています。

 そして、御影堂の南にある阿弥陀堂が、いわゆる本堂です。本願寺と名のっている由縁は阿弥陀堂にあります。本尊があるから本尊堂、本堂です。浄土真宗の御本尊は阿弥陀如来ですね。

 本山を本願寺と言った時には本堂の阿弥陀堂、本山を真宗本廟と言った時は廟所である御影堂が重要な意味を持ってくる建物となるわけです。御影堂と阿弥陀堂という二つの大きなお堂を中心に真宗本廟があるということです。

 御影堂は境内で一番大きなお堂です。畳の枚数だと大きさがわかりやすいんですけど、御影堂は927畳です。阿弥陀堂は410畳ですから、御影堂の半分くらいですね。本堂なのにえらい小さいなと思いますけど、実は阿弥陀堂は、日本で7番目に大きい木造建築なんですよ。小さく見えるのは隣にある御影堂が日本で一番大きい木造建築だからです。東大寺の大仏殿より大きいわけですから、7番目の大きさでも小さく見えますよね。

 親鸞聖人の曾孫にあたる覚如という方が、親鸞聖人の廟所のお堂に御本尊の阿弥陀如来を安置して、本願寺と名前を改めました。なぜ改めたか、様々な理由があると思います。真宗は仏教の一つだと表明し、親鸞聖人の教えを末永く伝えていくためには単なるお墓では認めてもらえない、お寺でなければならないと考えて、覚如さんは廟所のお堂に御本尊を安置して本願寺を作られたんだろうと思います。覚如さんがお寺にしたので、真宗本廟でもあるし、本願寺でもあるということなんです。

 実は、覚如さんは専修寺という名前にしようとしたと言われています。専修とは専ら修めるということです。もっぱら南無阿弥陀仏と称える(=専修念仏)お寺ですよと名のろうとしたんですね。そしたら比叡山が文句を言い立てたんです。

 そもそも天台宗は念仏の教えを否定するものでありません。親鸞聖人も比叡山の常行三昧堂で念仏修行をされています。比叡山の言い分は、仏教にはたくさんの教えがあるのに、念仏だけ(専修)と説くのは間違いだ、ということです。そしたら、朝廷も「比叡山が言ってるから遠慮したらどうか」と言ったわけです。専修寺を名のれなくなった覚如さんは、阿弥陀仏の本願が成就する寺ですよということで、本願寺にしたんですね。

 最初は一つのお堂に親鸞聖人と御本尊をご安置していたようなんですね。これは、はっきりとは記録に残っているわけではないんですけど、おそらくそうだろうと。時代が下りまして室町時代、蓮如上人の父親である存如上人の時に、御真影を安置するお堂と、阿弥陀さんをお迎えするお堂の二つを建てたと言われています。

2 真宗本廟の荘厳と儀式、意匠について
(1)御影堂
 明治44年(1911年)に再建された御影堂の正面に、御影堂門という大きな門があります。あの門の上に真宗本廟という額が掲げられています。ですから、真宗本廟という言葉は最近になって作った造語ではないということはお分かりになると思います。

 もっというと、江戸時代から真宗本廟という言葉があるんです。御影堂の正式名称は「真宗本廟本願寺開山影堂」です。これは屋根裏に収まっている棟札に書かれています。御影堂の棟札は3m、横幅1mくらいある縦長の巨大な一枚板で、そこにものすごく太い筆で書いてある。

 ところが、江戸時代には棟札に「浄土真宗本廟本願寺開山影堂」と書かれてあったと記録されています(少しずつ表記は異なっていますが)。親鸞聖人のお姿が中心ですよということですね。つまり、江戸時代のほうが御影堂の役割がはっきりしていたんです。

 本願寺11代目の顕如上人と長男の12代教如上人は好んで「御開山ノ御座所」という言葉を何度も使われています。1570年~80年のあしかけ10年以上、織田信長と本願寺が大阪(大坂)で戦いました。以前は石山合戦と言われることが多かったですが、今の歴史研究では、大阪(大坂)にあった本願寺を石山本願寺とは言わないんですね。ですから、歴史家は大坂本願寺合戦、通称石山合戦という言い方をします。

 その大坂本願寺合戦の時に、顕如、教如の親子が、全国の門徒に「御開山の御座所を信長の馬の蹄に穢されるわけにはいかない。門徒衆は立ち上がってくれ」という激文を何通も出した。親鸞聖人のいらっしゃるところを信長の馬で踏み荒らされていいのか、みんなで助けてくれと命令したわけです。

 御影堂の内陣はどのようなお飾りになっているかを説明しますと、五つの部屋に分かれています。中央の部屋に御真影、親鸞聖人の座像が御厨子の中に安置されています。その向かって右側に蓮如上人がいらっしゃいます。本願寺を再興された8代目の蓮如上人をたたえようと、1998年の蓮如上人の御遠忌を機に安置されることになりました。その右側の部屋を「六軸之間」と言っていて、親鸞聖人が書かれた『教行信証』が置かれています。『教行信証』は六巻あるので六軸と言っています。

 御真影の向かって左側には、先門首の御影が掛かっています。先門首と前門首という言い方があって、どちらも前の代の門首という意味で、前門さんと言ってるんですね。ところが、前の門首はご健在なので、前門さんのお父さんである闡如上人を先門首と言っています。この御真影と蓮如上人、先門首御影のあるお部屋が、一般のお寺の内陣の本間にあたります。

 この本間部分の南にある部屋を「十字之間」といい、床の間の中央に十字名号(帰命尽十方無碍光如来)が掲げられ、その左右に、双幅御影が掛けられています。双幅とは二幅という意味です。歴代の宗主(2代・如信~23代・彰如)のお姿が描かれています。今の大谷暢裕門首が26代目で、前門さんはご存命ですし、先門首の絵像は別のところに掛けられているので、それらの人を除いた22人の御門首の絵像が描かれています。一幅に11人です。別院で掛けられることもあります。

 そして、さらにその南側が「九字之間」で、床の間の中央に九字名号が掛かっています。

 面白いのが、内陣の本間と余間(十字之間、九字之間、六軸之間、御簾之間)と言っていますが、この部屋境に障子が入るように溝が上と下に作ってある箇所があります。実際、障子をはめている時もあります。12月20日(お煤払い)の朝7時に晨朝(おあさじ)にお参りしていただくと、本間の左右に大きな障子が入っていて、脇の方からは内陣本間から見えないようになっています。なぜ障子が入るのかというと、そこは親鸞聖人のお住まいだからです。

 もう一つ大事なことは、親鸞聖人の御真影は御厨子の中にありますが、この御厨子は朝開けて、夕方に閉めます。なぜそうしているかというと、親鸞聖人も我々と同じ人間だから、朝起きて夜はおやすみになる。だから、御厨子の開け閉めをするわけです。ところが、戦前までは朝開けて夕方は閉めるという習慣はなかったそうです。

 真宗本廟をあずかる本願寺住職を、留守職(るすしき)と言います。江戸時代は宗主、つまり留守職が出てくる法要の時だけ厨子を開けて、それ以外の時は閉めていたんです。それは、留守職は親鸞聖人の代理人だから、代理の方がいる時だけ親鸞聖人もいらっしゃるけど、代理の人がいない時、親鸞聖人はいないから閉めるという習慣だったんですね。ところが現在は、門首は親鸞聖人の代理じゃなくて、お給仕する人の代表とされています。位置づけが変わったので、お給仕の人がいらっしゃるかどうかにかかわらず、朝に厨子を開けて、夕方には閉めてお休みになられるという形をとっています。

 御影堂は建築様式としては和様、つまり日本独特の住宅風建物で、道場形式です。親鸞聖人がいらっしゃる道場であって、住宅だということです。住宅だから、御影堂の内陣は阿弥陀堂の内陣に比べて金箔がさほど使われてないんですね。こういう内陣で親鸞聖人が今もここをお住まいとされ、私たちに浄土真宗の教えを伝えておられるということを表しています。

(2)阿弥陀堂
 阿弥陀堂の正式名称は、「本願寺無量寿佛寶殿」と言います。棟札にそう書かれてあります。つまり、お寺の本堂にあたる阿弥陀堂こそが、本願寺を名のる由縁なんですね。私は本廟部の式務所というところにおりますが、式務では昔から「阿弥陀堂」とはあまり言わず、「本堂」と言っています。本尊が現れたお堂だから本尊堂、本堂なわけです。じゃあ、どんな仏さんがいらっしゃるのか。無量寿仏、つまり阿弥陀仏がいらっしゃる。宝殿とは本堂のことです。中国では本堂を宝殿と言うんですね。だから、本願寺無量寿佛寶殿とは、本願寺の阿弥陀さんの本堂ですよということです。

 阿弥陀堂には本尊の阿弥陀如来が安置されています。御本尊の向かって右側に聖徳太子、そして左側に法然上人の御影が掲げられています。これが内陣本間。そして、本間の右側(北側)の部屋には七高僧のうち龍樹菩薩、天親菩薩、曇鸞大師の御影が掲げられています。本間左側(南側)の部屋には道綽禅師、善導大師、源信僧都がおられます。法然上人を合わせて七高僧とお呼びしています。

 阿弥陀堂は『阿弥陀経』(『小経』)の世界を表しているといわれます。『無量寿経』と『阿弥陀経』は、インドの言葉ではどちらも「スカーパティー・ヴューハ・マハヤーナ・スートラ」という名前なんです。『阿弥陀経』は『無量寿経』の世界をより端的に表した経典で、その世界を具現化したのが阿弥陀堂です。御影堂はお住まいなので間仕切りがいっぱいあるんですけど、阿弥陀堂には一切ない。阿弥陀さんの世界だからです。

 阿弥陀堂の世界で、聖徳太子や七高僧はどういう位置づけかというと、二千年以上の歴史を経て私たちに伝わってきた浄土の教えの歴史を表しています。それでインド、中国、日本の七人の高僧、そして日本に仏教を広めてくださったから「倭国の教主」と親鸞聖人がたたえられた聖徳太子の各御影をお掛けして、念仏の教えの歴史を表しています。そして、阿弥陀仏のはたらきを称える諸仏として大切にいただいているわけです。

 御本尊のいらっしゃるところは宮殿(くうでん)と言いますけど、阿弥陀仏のはたらきは一日24時間、365日とだえることがない。だから、扉がないんですね。ここで問題になるのは、両堂とも夕方になったら閉めるということです。阿弥陀堂は阿弥陀さんが閉めるんじゃなくて、お給仕している我々が「今日はこれで帰らせていただきます」と外陣から閉めます。阿弥陀堂の折障子は外陣のほうに桟が向いてるんですけど、たぶん人間が閉めるためじゃないかなと思うんです。人間の都合で閉めてるだけなんです。御影堂と阿弥陀堂はそういう違いがあります。

 そして、内陣と外陣の境に段差があります。入ったらだめだということじゃない。段差からこっちは我々人間の暮らしている世界、その向こうは仏さんの世界だと示しているんです。我々が手を合わせたら、御本尊はちょうど仰いで拝む高さになっています。

 建築様式でいうと、阿弥陀堂は禅宗様といって、中国から伝来してきた仏堂形式の建て方です。本山にお参りされることがあったら見ていただきたいんですけど、御影堂の屋根の軒先は先っぽに白いペンキが塗ってあるだけなんです。ところが、阿弥陀堂は軒先の垂木のところ全部に金色の金物がかぶさってます。内陣も金箔で飾られています。阿弥陀堂のほうがそれだけ金色なのは、浄土は「金銀瑠璃 玻璃合成」(『仏説阿弥陀経』)の世界だということを表しているからです。

 金箔も多く使っていますが、真鍮で金色を表現している箇所もあります。金はお互いが照らし合う浄土の世界を象徴しています。金とは光り輝くもの、貴重なものという意味があります。浄土は金で象徴される世界だということです。豊臣秀吉は権力の象徴として金箔で茶室を作っいてますが、そういうのとはわけが違うんです。

 毎朝、7時からの晨朝(じんじょう)のお勤めは、まず阿弥陀堂から始まります。浄土の荘厳を阿弥陀堂で知るわけです。そこでは漢音の『阿弥陀経』をお勤めします。漢字の読み方には呉音、唐音などあって、「仏説阿弥陀経」を漢音だと「ふせあびたけ」と読みます。微音で読誦するんです。ほんとに小さな声なんですね。だから、参詣している方からすると、なんか言ってるな、という程度にしか聞こえない。「わからへんやないか。わかるようにやってくれ」と、よく言われるんです。

 だけど、わからないようにお勤めしないといけないんですね。なぜかというと、聞こえてるとか聞こえてないとか、わかったとかわからないとか、阿弥陀仏の救いとは関係ないからです。小さな声でお勤めするということは、私たち人間にはわからないけど、ちゃんと阿弥陀仏の願いが私に四六時中届いているということを表しているんですね。

 話がわき道にそれますけど、よく「お経は難しい」と言われます。「何が書いてあるかわからへん。現代語訳のお経でお勤めをしなさい」という意見は一概に否定はできない。大事なことだと思いますよ。

 しかし、一つひとつの言葉を理解するのはたしかに大事だけれど、何をもってお経がわかりやすくなったと言えるんですかね。漢文じゃなくて日本語だとわかるのか。書き下し文でわかりやすくなるのか。だけど、阿弥陀仏のはたらきは人間がわかっているかどうかは条件ではない。わかるわからないに関係なく、私たち衆生を迎え入れてくださる。「ええこと言うとんな。わかった」と思う人だけが浄土に行くということではないですね。

 お勤めが聞こえて何を言っているかがわかったらどうなるんですか、という話なんですよ。聞こえないといけないとしたら、聴力に難のある方、障害があったり年齢を重ねて聞こえにくくなった方は阿弥陀さんのはたらきが届かないということになる。何を言われているのかわからなくても、仏の世界はたしかに私に届いていることを阿弥陀堂で体感するんです。そして、お堂を移して親鸞聖人のもとで、阿弥陀仏の願いのいわれを教えていただく。ですから、御影堂では親鸞聖人の著作である『正信偈』と念仏・和讃のお勤めがなされるわけです。

 このように、阿弥陀堂と御影堂でのお勤めにはそれぞれ意味があるんです。二つのお堂の違い、そして二つのお堂が一つとなって存在している、それが本山なんだとご理解していただければと思います。

(3)御影堂門
 御影堂の正面に御影堂門という門があります。東本願寺と西本願寺との大きな違いの一つは、東本願寺の御影堂門が非常に大きく作られていることです。二重の楼門になっています。京都には南禅寺、知恩院、東福寺など同形式の二階建ての門がたくさんあります。禅宗寺院の三解脱門(さんげだつもん)と同じ形式なんですね。三解脱とは、空を観じる空解脱、形がないと観じる無相解脱、願いにとらわれない無願解脱の三つです。

 特に禅宗では、三つの解脱をはたした修行者だけが三解脱門から入ることができるとされているんだそうです。普通の人が通ったらダメなんですね。さらには、女性は入れない。そのことは、三解脱門の扉のところに蹴放(けはなし)という敷居のようなものがあるからわかります。蹴ったら取れるから蹴放です。よく敷居が高いと言いますけど、門に高さが1尺ぐらいの敷居があるわけです。

 江戸時代、女性は足(ふくらはぎ)を人目にさらすのはよくないとされていたそうです。高い敷居を女性がまたぐと、ふくらはぎが見えてしまいますね。わざわざそういう敷居にして女性を通らせないようにしたわけです。だから、蹴放は女人禁制を表すと言われているんです。入る人間を限定している門なんですよ。
 普通の門は境内に入る時にくぐりますが、三解脱門は境内の真ん中あたりにある法堂(はっとう)、つまり仏堂の前に建っています。門の両側の塀は途中でなくなっており、その横を普通に歩けるんですね。禅宗では僧侶が住職となる時に晋山式をいたしますね。三解脱門は、そういう時に儀式的にくぐる門なんです。象徴としてあるわけです。

 ところが、東本願寺の御影堂門は、三解脱門と形は一緒ですけど、蹴放がありません。なぜかというと、誰でも入ることができるようにするためです。

 江戸時代から、東本願寺の門は山門じゃなくて大門と言っています。明治になって、親鸞聖人が見真大師という大師号をもらったから、大師堂門を略して大門と言うんだと説明する人がいますが、これは間違いです。確かに、明治22年に御影堂の正式名称を大師堂とすると決められました。ただし、昭和56年までです。

 なぜ大門と言われているかというと、天親菩薩の『浄土論』という書物に、二十九種類の功徳が阿弥陀仏の浄土にあると説かれています。その17番目が荘厳大義門功徳という功徳です。浄土はすべての衆生を迎え入れるという功徳です。大義門功徳から大門という名称がつけられたと、江戸時代から言われております。単に規模が大きいから大門と言っていたんじゃなくて、どんな人でも入れる門だということです。すべての衆生を招き入れていく場所が私たちの本山なんですね。

 建築学の専門家によると、二階(楼上)が部屋になっていて、下には扉しかないという形式の門は、耐震構造が悪いそうです。したがって、門の下に敷居があることで耐震性能を格段に向上させています。ところが、私は本山に残っている江戸時代の図面を全部調べましたが、一度として御影堂門に敷居があったためしがありません。それは大義門だからです。年齢とか性別、国籍を超え、親鸞聖人のもとにみんなが集まってほしいという願いが、あの門にこめられている。だから、御影堂門には敷居がないわけです。そのことを知っていただきたいと思います。

 御影堂門の楼上には釈迦三尊像が安置されていて、我々衆生をお迎えしておられます。通常の釈迦三尊像は、お釈迦さんの脇侍が普賢菩薩と文殊菩薩です。ところが、御影堂門の釈迦三尊像はお釈迦さんと『無量寿経』上巻の対告衆(たいごうしゅう)である弟子の阿難尊者、そして下巻に出てくる弥勒菩薩をご安置している。お釈迦さんと阿難と弥勒という脇侍が迎えている門は、東本願寺の御影堂門だけで、これは大谷派独自の形です。『無量寿経』の教えを聞くために集まってくる人を広くお迎えするということを表しています。門をくぐれば、そこには『無量寿経』の世界が表現されているということです。

3 真宗本廟(東本願寺)の伽藍形式
 御影堂と阿弥陀堂の役割の違い、意匠、どんなお飾りがされているか違いをまとめますと、御影堂は親鸞聖人のお住まいであって、道場でもあります。阿弥陀堂は『仏説阿弥陀経』の世界を具体的に表しています。それぞれのお堂に掛けられているお軸も、御影堂でしたら御廟所を代々あずかってこられた留守職がいらっしゃる。そして、阿弥陀堂にはインド、中国、日本の三国の七高僧、そして聖徳太子が諸仏としていらっしゃる。これは浄土教の歴史を表しているんです。

 阿弥陀堂の内陣は仏さんの世界で、段差から手前は人間の世界です。御影堂の段差も、親鸞聖人は90年の生涯を送られた人間だけれど、応化身(おうげしん)、すなわち私たちに阿弥陀仏と出会う縁を与えてくださった諸仏でもあることを示しています。仰いでいくべき存在だから、敬意をもってあのような形をとっているんです。

 東本願寺の伽藍の特徴をまとめますと、総じて禅宗寺院に代表されるような、日本仏教の伝統的な伽藍形式をまねて作られています。御影堂は禅宗の開山堂と同じような形。そして、阿弥陀堂は法堂と同じ形をしています。そして、御影堂門は三解脱門と同じような形です。こうした類似性は、多くの人に仏教の本山として認められるようなことも意識しているでしょう。だけど、それぞれの持つ意味は他宗とはまったく違います。御影堂は開山堂だけど、親鸞聖人のお住まいであり道場だと。そして阿弥陀堂には『阿弥陀経』の世界が広がっている。そして、境内にはすべての衆生がどんな区別もなく入れるように御影堂門の門戸が開かれている。それぞれの建物一つひとつに、真宗本廟としての意味が表現されていることをご理解いただきたいと思います。

4 真宗本廟と別院、寺院、教会との関係
 本山と別院、あるいはそれぞれのお寺や教会、さらには家庭のお内仏との関係についてお話をいたします。

(1)影向ということ
 影向(ようごう)とは、影は姿ということで、それが向かってくるということです。どういうことかと言うと、私たちは本山にお参りすることで親鸞聖人の教えに出会い、阿弥陀仏の教えを聞かせていただきます。ところが、実際は本山になかなか行けないですね。遠いですから。江戸時代なら何日もかかる。相当な労力が必要となります。

 それに、本山に来ることができた人だけが、阿弥陀仏の教えに出会えるとしたらおかしいですね。阿弥陀仏は人間の側に条件をつけていない。すべての衆生に自分の名前、すなわち「南無阿弥陀仏」を申してほしいと願われています。だから、本山まで来ることができない人のために、仏から歩み出して自らの姿を、それぞれの地域に現れてくださるわけです。それをお迎えしているのが別院や寺院です。

 けれど、別院や寺院も、お参りできる方ばかりじゃないですね。忙しかったり体調の悪い人もいます。じゃあ阿弥陀さんには出会えないのか。そこで再度、仏さんが姿を現してくださるのがお内仏です。お内仏という形でお姿を現してくださる。このように、お姿が我々のところに向かってやって来てくださるというはたらきを、影向と言うのです。

 ですから、我々の先達は「御本尊をお迎えする」という言い方をしてきました。「同朋新聞」に「御本尊は本山からお受けしましょう」と書いてあるはずです。これは、別に本山の収入になるから言ってるわけじゃないんですよ。阿弥陀仏が煩悩にまみれた衆生を悲しんで本山に現れ、お寺にも現れてくださった。さらには、それぞれのお家に仏さんが現れてくださる。私たちのために姿を現してくださったはたらきを私たちはお迎えしてきた歴史があるんです。お迎えするという言い方をするのはそういう意味からなんです。

 ですから、御本尊を授与物と言っています。ご門徒さんやお寺さんが本山に御本尊を頼まれたらお渡しをしますよということで、授与物と言うんですね。自分が選んだ本尊を買ってきて安置するんじゃないということです。御本尊の阿弥陀如来は、私たちがこの仏さんはええ仏さんやと、自分で選んだ気になっているけど、そうじゃないんです。

 私たちのことを、阿弥陀如来が見てくださってくださっているから、その阿弥陀さまを、お迎えするわけです。様々なご縁が積み重なり、機縁が熟して、阿弥陀仏が私の前に現れてくださった。それを私たちはお迎えをしているんです。
 私たちの能力とか器のようなもので選んできた、そういう歩みをしてきたと私たちは感じるんですけど、実はもっと深くて遠いところから積み重なってきたんです。

5 お内仏の荘厳
(1)本山と寺院の荘厳の違い
 本山には御影堂と阿弥陀堂があります。ところが、皆さんのお手次のお寺は本堂だけですね。本堂の正面に御本尊があり、親鸞聖人は右横におられます。本山と形が違うじゃないかということになるわけです。これは、御本尊が本山を飛び出して私たちのために現れてくださったから、それをお迎えする御堂として、阿弥陀仏が中心なんです。

 では、親鸞聖人や蓮如上人、あるいは広島別院を開いたとされる教如上人、七高僧や聖徳太子はどういう存在かというと、御本尊の阿弥陀仏に付き従う諸仏として、阿弥陀仏の徳をたたえる諸仏として、私たちのところに来てくださってるんですね。だから、親鸞聖人も諸仏の一人なんです。我々の先達です。それで、本山と別院や寺院は配置が違うんです。

(2)庫裡のお内仏
 お寺は何かと言うと、会堂とか公堂、いわゆる公会堂なんです。ですから、住職一族の私物じゃなくて、門徒さんの共有物です。住職はそれをあずかっているだけなんですね。本堂の横に庫裏(くり)という住職一族の生活の場があります。庫裏にはお内仏があるんです。庫裏にお内仏を置いていないお寺はまずないですね。つまり、お寺には本堂と庫裏に御本尊があるわけです。いずれも本山の親鸞聖人のご座所からやって来てくださった御本尊です。

 みなさんのおうちのお内仏もまた本山からの影向です。本山、寺院、そしてみなさんのおうちに三たび現れてくださった阿弥陀さん。その形は掛け軸だったり木像だったりしますけど、方便法身(ほうべんほっしん)の仏としては同じ存在です。

(3)脇掛
 お内仏の正面に御本尊がいらっしゃる。御本尊の両脇には南無不可思議光如来の九字名号と帰命尽十方無碍光如来の十字名号という二幅が掛かっています。九字十字の名号は、「阿弥陀如来のはたらきを文字にするとこうなりますよ」と教えてくださっています。真ん中で光を放っている仏さんに帰依しましょうと呼びかけてくださっている。つまり、絵像本尊と脇掛の三幅で一体となっているということになります。

 あるいは、江戸時代の終わりごろからですが、お寺の本堂にならう形で、親鸞聖人と蓮如上人の絵像が掛かっているおうちもあります。阿弥陀仏をたたえる諸仏としての親鸞聖人と蓮如上人が来てくださっていることを表しています。阿弥陀仏のはたらきを文字化したものを安置する場合と、阿弥陀仏のはたらきを私たちに教えてくださった方をご安置する場合があるわけですけど、どちらも同じ意味ですね。

(3)法名軸と過去帳
 お内仏の両側面に先祖の法名軸を掛けているお宅もあるかと思います。これは親鸞聖人や蓮如上人と同じように、仏道を歩む先輩として、阿弥陀さんの教えを伝えてくださる諸仏として、ご先祖が現れてくださっているといただくわけです。

 帰敬式を受けると法名をいただきますね。法名には必ず釈、もしくは釈尼がついています。お釈迦さんの弟子だという名のりです。先祖の方たちも諸仏なんです。ちなみに、浄土真宗では他の宗派みたいに、この漢字でお金がいくらかかる、ということありません。法名をおつけする時に、いわゆる戒名料はいらないということです。
 掛軸じゃなくて、過去帳を置かれている家もありますね。これも釈・釈尼の仏弟子が集まっているということなんです。それが仏の世界というものです。

(4)お備えとお供え
 住職さんから「遺影はお内仏に入れないでください」と言われたことがありませんか。それから、「缶ビールとかお菓子といった供物は入れたらダメ。お内仏の手前に置くように」とか。言われることはありませんか? なぜダメかと言うと、遺影は人間の姿だから、そこには人間という属性があるわけです。でも、お内仏は浄土の世界ですよね。亡くなった方はお釈迦さんの教えに生きる釈・釈尼の方たちなんですから、それ以外の属性はいらないんです。

 缶ビールやお菓子、タバコとかは嗜好品です。仏の世界に備わっているものじゃないんですね。遺族の気持ちとして、故人の好きやったものを置いているのであって、本来は置く必要のないものなんです。ですから、故人の嗜好品とか写真とかはお内仏の中に入れないほうがいいんです。お内仏は私たちが作り上げた世界ではなくて、浄土のはたらきを表すからです。それで缶ビールやタバコをいれないほうがいいということです。

 お仏供(ぶく)さんや供物としてのお華束(けそく)はいいんですよ。浄土に備わったもの、満足した世界を表しているからです。もっと言うと、具足という言葉がありますけど、浄土は食べることとか心配する必要のない世界だということを表しているんですね。すべてが備わった世界だと表現するために、仏様の前に供物が備わっているということです。仏さんのほうからやって来た世界やからとご承知ください。
 だから、「そなえる」という言葉は、浄土真宗では動詞としては「備える」を使うんです。「供える」を使っちゃダメです。私たちは備わったものをお給仕させてもらってるんです。自分の力で立派なものをお供えしているわけではないから、「供える」という字は使ってはいけないんです。

 だからといって、「遺影を捨てろ」と言ってるわけではないんですよ。これは気持ちの問題で、私たちは故人を思い出す何かがほしいんです。「お父さん、タバコ好きやったなあ」とか「缶ビール好きやったなあ」という気持ちは大切です。亡くなった方は諸仏ですから、身近な人が亡くなったことをご縁として仏法を聞く。だから、遺影や供物を置くのはかまいません。遺影は横の鴨居の上にお飾りしてくださればいいと思います。ただし、間違ってもお内仏の真上には置かないでくださいね。私の預かっているお寺では、ビールやお菓子などはお内仏の前、あるいは斜め前に場所を作って置き、亡き人を偲んでいただきたい、とお願いをしています。

6 本堂とお内仏の荘厳 阿弥陀さまから私へ、あなたへ
 今日は本山と別院、お寺、そしてみなさんのおうちのお内仏のお話をしました。 お寺やお内仏の荘厳は私たちがこしらえたものではなくて、仏の側から私たちに手向けられた世界としてあるんです。私たちが仏にお花を供えているんだとしたら、お花は仏様のほうを向いてお供えしないとダメですよね?。でも、実際はそうなっていなく、お花は常に仏様のほうから私たちに向かって用意されているんです。仏華を立てるのは私たちですけど、浄土に備わっているものをお給仕し、お手伝いをさせていただいているわけです。必ずお花はこちらに向けられているのは、仏さんから私たちに浄土の世界を教えてくださるということなんです。

 そのようにお寺の本堂や私たちの家のお内仏を意識していただきたい。影向という言葉は最近あまり使わなくなった言葉なんですけど、大事な意味があるんですね。御本尊をお迎えしたいという気持ちは、さまざまな仏縁が熟したからなんです。

今回は、本山とお寺とお内仏の意味は、ちょっとずつ異なっていることを知っていただければと思い、お話ししました。
(2022年6月23日に広島別院で行われた法座でのお話をまとめたものです)

第3回「東西分派」