1 本願寺の東西分派
みなさん、こんにちは。今日は本願寺と織田信長との戦い、そして本願寺が江戸時代の初めに東西に分かれるまでの事情といった話をいたします。本願寺の東西分派はたくさんの事情が入り交じっておりまして、一口でこうですよとは言えるものではないんですね。
(1)織田信長と大坂本願寺合戦(石山合戦)
①信長の施策と本願寺のあり方
親鸞聖人の三百回忌にあたる1561年(永禄4年)の2年前、1559年(永禄2年)、第11代顕如上人の時に本願寺が門跡寺院になります。天皇の一門が出家をして入寺する寺や、その寺の住職のことを門跡と言うんです。ところが、顕如上人は親鸞聖人の子孫、つまり下級貴族の日野家の末裔ですから、皇族でもなんでもない。だけど、門跡になったわけです。
門跡になることは功罪相半ばするものがあります。本願寺が全国の人に認められるお寺になったという一面があれば、天皇の側についたことによって権威主義的なものが生じてくる、そういう負の部分も少なからずあるわけです。
親鸞聖人の三百回忌を本願寺は史上初めて「御遠忌(ごえんき)」として勤めました。遠忌とは宗祖や中興の祖の50年ごとに行われる法要です。蓮如上人が盛んに活動されたころから百年ほど経ち、親鸞聖人の法要を御遠忌という形にしたいがために門跡の座をほしがったんだと思います。門跡になった時、顕如上人は17歳ですから、本人が、というより本願寺全体が欲したんでしょう。
それまでも50年ごとに法要をしてるはずですけど、本願寺の記録にほとんど記されてません。つまり、大がかりな法要ができなかったんですね。それが門跡になったことによって、大坂本願寺で三百回忌が盛大に執行され、お公家さんも大勢招かれたと伝えられています。たくさんの記録が残されているので、式次第もある程度わかっています。
本願寺の力が強くなってきたのと、信長が京都にやって来た時期は重なっています。信長と本願寺はいやでもお互いを意識せざるを得ない、そういう時代だということです。
信長が力を大きく伸ばした理由の一つに、経済基盤を重視したことがあげられています。兵を強くするために経済力を持つようにした。これは画期的なことなんですよ。それまでの戦争はプロ集団同士が戦ってたんじゃないんです。家臣や兵士は普段はお米や野菜を作ったり漁をしたりしてたから、田植えや刈り取りでお互い忙しい時は戦わない。農閑期しか戦をやらんかったんですね。そういう牧歌的なところがありました。
ところが、信長は兵隊を養うために経済活動を盛んにし、戦いだけをする集団を育てるんです。尾張の熱田神宮の港にはたくさんの商品が集まった。そこで、信長は熱田の港をおさえることでお金を稼ぎました。また、楽市楽座といって、信長の支配下では余分な税を払わず、自由に安心して商売できると保証します。それで信長のもとにたくさんの人とお金が集まった。
一方、本願寺は山科本願寺のころから寺内町を作って、本願寺の寺内では自由な経済活動を保証した。信長と本願寺は同じようなことをやっているんですね。どちらも共通するのは経済力です。本願寺の寺内は経済的に繁栄します。信長の領地も繁栄していく。
もう一つ、信長は安土に城を築くんですけど、ここにご神体である盆石を城内に祀って信長の化身としたと言われています。信長は経済だけでなく、精神的にも民を支配しようとした。おそらく信長は将来的には天皇を単なるお飾りの存在とし、自分を支配者とする、そういう体制を作ろうとしていたのかもしれません。ですから、朝廷との関係性の深い門跡寺院の本願寺はますます不要な存在でした。
信長は宗教を否定していたと言われます。そんなイメージがあるわけですけど、自分の言うことを聞く日蓮宗とか浄土宗には寛容なんですね。比叡山は焼き討ちしたけど、日蓮宗は保護しています。仏教だからダメというわけじゃないんですね。自分のしようとしていることと重なる部分がある宗派に対して弾圧したんだと思います。
そして、本願寺の寺内町は単なる経済の場所ではなくて、門跡のもとで信仰を同じくする人たちの集まりでもあった。つまり、経済の面でも精神面でも信長と本願寺とは対立せざるを得ない状況だったと思います。
1568年(永禄11年)、織田信長が京都に来て支配権を手に入れました。そして、足利幕府を再興するのにお金がいるということで、本願寺に矢銭(やせん)5千貫を要求します。銭1貫が現在のお金でいくらか諸説ありますけど、だいたい10万円から12万円だそうですから、5千貫は5億から6億円です。大変な額を本願寺に要求したわけです。
顕如上人は要求を飲んで、信長にお金を渡しました。だから本願寺は最初、信長と戦うつもりはなかったということです。信長にお金を払ってすむのならそれでよかったんですけど、信長は本願寺に大坂(明治初期までは「大坂」と表記していました)から出て行くよう要求するんですね。これを本願寺は拒絶します。
信長は大坂の地をおさえたかったと言われています。大坂はいろんな点で重要な土地なんですね。なぜかというと、本願寺の北は今の大阪湾に流れ込む淀川が流れていて、東は当時、大和川が淀川と合流していた。本願寺は大和川と淀川と大阪湾とに囲まれているので、南側だけ敵を防げばいい。そして、淀川を遡れば京都です。京都から本願寺まで淀川を下ると半日で着いたと思います。大阪湾からは瀬戸内海への流通もできる。経済的にも一番便利のいいところに本願寺があったわけですね。後に豊臣秀吉が大坂城を建てたことでも、いかに大坂が便利な場所かが明らかです。
大坂から出て行けという信長の要求を本願寺が断ると、信長は本願寺を囲むようにして砦をどんどん築いていくんです。そして兵隊を集めた。本願寺としては黙っておれないですよね。1570年(元亀元年)、信長方の砦を本願寺が襲った。これが石山合戦の始まりです。信長が攻めて石山合戦が始まったというイメージが何となくあるんですけど、実は最初に火蓋を切ったのは本願寺です。ただし、火蓋を切るように仕向けられたわけですけど。
②各地の戦国大名と本願寺
顕如上人が門跡になったのは17歳、御遠忌を執行したのが19歳、石山合戦が始まった時は28歳です。その時、長男の教如上人は13歳です。親子ですけど、15歳しか違わない。その年に信長は37歳でした。
顕如上人の妻如春尼は三条西家から来ているんですけど、如春尼の姉は武田信玄に嫁いでいます。だから、武田信玄と顕如上人は義理の兄弟なんです。2年後に教如上人が結婚した妻の父は朝倉義景、越前(福井県)の大名です。武田信玄は甲斐(山梨県)ですね。顕如上人、教如上人の父子は勢力のある戦国大名と親戚関係だったわけです。だけど、どちらも信長に滅ぼされました。
本願寺は姻戚関係からも信長と戦わざるを得ない。あるいは、信長と対抗するために信長の対抗勢力である武田や朝倉と親戚になったとも言えます。当時の本願寺は単なる浄土真宗の本山という存在ではなく、戦国大名とみなされていた勢力だったわけです。
こういうことを前提として知っていただかないと、石山合戦の意味がわからないんですね。信長が力をつけてきて本願寺にケンカを売ってきたんじゃないんです。ケンカを売るには理由があるし、対抗するにも理由があったということです。
③伊勢長島一向一揆と越前一向一揆
各地で信長の軍団といわゆる一向一揆、本願寺の勢力が戦っていました。有名なところでは1570年(元亀元年)から1574年(天正2年)に伊勢(三重県)の長島、愛知県と三重県の県境あたりで戦いが行われました。信長の弟が戦死し、柴田勝家も大怪我をしているんです。このことが一向一揆に対する信長の憎悪をあおったことは間違いないと思います。
この後の戦いで、信長は伊勢長島と越前で本願寺勢を「根切(ねぎり)」にしています。根こそぎ殺した。皆殺しです。長島に願証寺というお寺があります。信長は抵抗をやめたら命は救ってやると交渉して、そして武装解除して願証寺から出てきた一揆勢を老若男女問わず全員殺してしまうんです。
1575年(天正3年)の越前一向一揆でも門徒は根絶やしにされています。ある記録には、国の形を成してない、人が消えてしまったと書かれるくらいに殺している。数万人と言われています。越前で手を下したのは柴田勝家とその与力の前田利家です。前田家は江戸時代を通じて加賀国を治めるんですけど、私の歴史学の師匠の大桑斉先生は「金沢の人間は門徒が多いのに前田利家の祭りなんかやってるのはおかしい。自分たちの先祖を殺した奴らをたたえるなんて愚かなことや」と怒ってました。
伊勢と越前では粛然とするくらい大勢の門徒が殺されたわけですけど、特に長島での信長の裏切りは教如上人に非常に大きな影響を残していますね。多感な時期に、長島や越前で何があったのかを聞いているわけです。想像してみてください。石山合戦があった13歳から23歳まで、いつ滅ぼされるかわからない本願寺で寝起きし、毎日たくさんの門徒さんが死んだことを聞く。教如上人はまさに、想像を絶する世界で過ごしていたと言えると思います。
④毛利氏の支援と安芸門徒
伊勢と越前は大坂の東にあるので、本願寺は東から支援される道を失ったわけです。本願寺を支える門徒の集団はどこにいるかというと、播磨(兵庫県)そして安芸(広島県)しかないということが石山合戦の後期です。
元号は元亀から天正に代わります。天正に改元するのに、信長は大きな影響を与えています。おそらく天正にしろと言っています。この天正年間に毛利氏は石山合戦で活躍します。
戦国大名の毛利氏は安芸国をはじめ10か国120万石と言われる広大な領土を持つ大大名でした。毛利氏が手を組んだのが本願寺です。石山合戦では安芸門徒も尽力してるんですね。最終的には石山合戦は和睦という形で終結します。織田信長と戦ってまがりなりにも負けなかったのは本願寺だけなんですね。ほぼ負けなんですけど。
石山合戦が始まって5~6年たち、石山合戦の前半に本願寺を支えた越前や伊勢あたりの門徒が力を失っていく。しかし、1576年(天正4年)7月に、援助の要請に応じた毛利氏は、村上水軍などが瀬戸内海を渡って本願寺に兵糧や弾薬を届けたんです。当時の記録によると、兵糧などを積んだ船が600艘、それを守る軍船が300隻だとあります。どれくらいのものかわかりませんけど、本願寺が2年間も戦えるくらいの兵糧だったそうです。石山合戦の後半は、毛利氏と安芸門徒が本願寺を支えたといって過言ではないですね。
信長も水軍で戦ったんですけど、この時は大敗するんです。毛利水軍は火矢や炮烙、つまり陶器や容器に油を入れて火をつけ、信長の船団に投げこんで舟を燃やしたと言われてます。それに対抗するために、信長は九鬼水軍に鋼鉄を張った軍船を作らせました。そして、九鬼水軍は2年後の1578年(天正6年)の戦いで毛利水軍を完全に打ち破って撤退させるんです。この敗戦で毛利氏は石山合戦から手を引きました。
石山合戦の十年間に本願寺と信長は何度か和睦しています。休戦するんですけど、すぐに信長が和睦を破るわけです。信長にとっての休戦は、自分が不利になると休戦をして軍勢を整え直し、また攻撃するということなんですね。
⑤和睦と大坂拘様(かかえざま)
毛利水軍を打ち破った信長は本願寺に対して非常に有利な状況を作り出しました。東からも西からも支援を受けられなくなった本願寺は、いよいよ危ないということになり、和睦を真剣に考えます。1579年(天正7年)からです。信長はこのまま本願寺を攻め滅ぼすことを考えましたけど、顕如上人や教如上人まで殺してしまうと、信長にとってあまり得なことにならないんですね。全国に散っている本願寺門徒が恨みに思って、各地でゲリラ戦をするに決まってますから。本願寺を完全に滅ぼすのは時期尚早だと考えていたと思います。
一方で朝廷としては、門跡にした本願寺が信長に滅ぼされると、政治的に厄介なことになります。だから、朝廷は本願寺を滅ぼしたくない。信長も今すぐ滅ぼすのは得策でない。というところから朝廷が間に入って、1580年(天正8年)3月に和睦を結びます。この和睦の条件が顕如上人らの大坂からの退去なんですね。「顕如と教如の罪は問わんけど、大坂を出ていけ」と。こうして、ようやく信長は大坂を手に入れました。この時に信長は、一文字茶碗という有名な抹茶茶碗を贈っています。今でも西本願寺に残ってるんです。
この和睦に顕如上人は承諾したんですが、教如上人は大坂退去に反対します。教如上人は信長を「表裏のもの」、「ウラオモテのある嘘つきだから、大阪を出たら殺すに決まっている。絶対に和睦してはいけない」と訴えるんですね。実際、長島では皆殺しにしたわけですから。教如上人を支持する人は多かったと思われます。
しかし、顕如上人は「朝廷が間に入ってくれているし、もう潮時である。大坂から出ていけば門徒の負担がなくなる。自分の望むところだ」とおっしゃった。そして、4月に大坂を出て、和歌山の鷺森に行きます。現在、本願寺派の鷺森別院があります。教如上人に対しては、「親でも子でもない。縁切りだ」と言ってるんですね。この状態を歴史用語で大坂拘様と言います。
教如上人は大坂や兵庫、滋賀あたりの門徒に「手助けしてくれ」という手紙を書いています。その手紙が近畿圏のお寺に今も何通か残っています。しかし、4か月ほど頑張ったんだけど、教如上人だけでは力不足で、8月に教如上人はとうとう大坂を出ていかざるを得なくなってしまいます。本願寺は突然出火して、三日三晩燃え続けて丸焼けになったと言い伝えられています。おそらく教如上人とその一派が火をつけて出て行ったんでしょうね。1580年(天正8年)8月で石山合戦の終結を迎えました。
(2)教如上人と徳川家康
①流浪と本能寺の変
鷺森に移った顕如上人に教如上人は会おうとするんですけど、顕如上人は「勘当したではないか」と会わなかったとされています。それからの教如上人は、1582(天正10年)ごろまでの消息はほとんど知られていませんが、美濃や近江、越前に来られたという伝承が残っています。『本願寺通紀』という本願寺の歴史が書かれている書物には、ここ中国地方一帯を流浪したと書かれていますが、実際には、当時のお手紙や御本尊の裏書とか残っているものからすると、信長につかまらないように、和歌山から奈良を通って滋賀、そして福井や岐阜あたりの山奥に逃げていたと考えるのが定説のようです。
この逃避行が終わりを告げるのが1582年(天正10年)6月です。何が起きたかというと、本能寺の変です。信長は明智光秀に襲われて命を落とします。本能寺の変の直後、明智光秀は顕如上人に手紙を送っているんですね。信長を倒したから協力してくれと。どうも顕如上人はあまりいい反応をしなかったようです。
顕如上人はたくさんの伝手がありますから、おそらく和歌山にいながらいろんな情報を得ていたんですね。本能寺の変から2週間後くらいに教如上人の義絶を解いて、和歌山で会っています。この当時の2週間は今だと半日くらいの感覚じゃないかと思うんですね。そのくらいスピーディーに顕如上人は教如上人を許しているんです。
だから、信長の手前、義絶しただけであって、連絡を取り合っていたんじゃないかな。でなかったら、岐阜や福井の山奥に行ってた教如上人がそんなにすぐ信長の死を知るはずないですね。2週間で和歌山に行ったということは、顕如上人と教如上人は密に情報のやり取りをしていたと思います。
そしてこの後、大きく情勢が変わっていくんです。本能寺の変の後10日ほどして、当時、羽柴と名乗っていた秀吉が明智光秀を山崎の戦いで討って、信長の後継者になります。
⑦本願寺の移転(鷺森、貝塚、天満)
顕如上人は秀吉と仲がよかったようで、この後に和歌山の北にある貝塚に本願寺を移すんですね。1583年(天正11年)のことです。ここには本願寺派の願泉寺というお寺があります。貝塚は和泉国ですから、泉州の本願寺で願泉寺と名づけたんですね。
貝塚時代のことを書いた記録が東本願寺に残っています。『貝塚御座所日記』という貴重な記録で、これは顕如上人についていた宇野主水という人の日記です。1583年(天正11年)から1586年(天正14年)のことが記されているんです。これは非常に面白くて、羽柴秀吉の家臣にどんな人がいたかといったことも詳しく書かれていて、石田三成や前田利家なんかの名前が普通に出てくるんですね。
1585年(天正13年)に秀吉は自分が作っている大坂城の北、川をはさんですぐのところの天満に本願寺を移転させます。ここには現在、東本願寺の天満別院があります。大坂城から見下ろせる場所なんですね。本願寺に協力的だった秀吉が本願寺を天満に移したということは、「本願寺は俺の支配下にあるんだ。武家に逆らうなよ。そんな力はもうないだろう」ということを見せつけるためだと思います。
顕如上人がかつて住んでいた場所に自分の城を立て、そこから天満の本願寺を見下ろして、顕如上人を抑えつけようとした。日本史は土地の状況、成り立ちなどを知ることによって、どうしてそうなったか、なぜそうしたかという理由がわかってくるんです。こうして、顕如上人と本願寺は豊臣政権の下に組み入れられたわけです。
③本願寺の京都帰還と顕如上人の命終
さらに6年後の1591年(天正19年)、秀吉は本願寺に京都に移りなさいと命じます。京都の南、今の淀とか鳥羽あたりのどこでも構わないと。顕如が選んだのは堀川でした。西本願寺がある場所です。本願寺が1533年(天文2年)に山科から大坂に移って以来、秀吉のおかげで京都に帰ってきます。
1592年(天正20年)に顕如上人が亡くなりました。数え50歳です。28歳の時に石山合戦が始まり、38歳で大坂本願寺を退去して、そして10年後に京都に帰ってくる。その翌年に亡くなったわけです。それほど本願寺は目まぐるしく移ったんだと感じていただきたいと思います。
④継職と引退
顕如上人の長男が教如上人で、次男の顕尊は興正寺というお寺に養子に行っています。そして末弟が准如上人です。教如上人と准如上人は21歳も離れているんです。顕如上人の没後は、長男の教如上人が本願寺を継ぎました。ところが、母親の如春尼が秀吉に、顕如上人は准如上人に譲るとする譲り状を書いている、だから准如上人を後継者にしてくださいと頼んだんです。その譲り状を見た秀吉は教如上人を呼び出し、「10年間だけ宗主をやりなさい。そして10年たったら、弟に譲りなさい」と言ったんですね。教如上人はわかりましたと、いったんは引き下がります。
ところが、教如上人を支える家臣たちが「なぜ譲らなければならないのか。教如上人が立派に跡を継いでいるのに。秀吉からそんなこと言われる筋合いはない」と猛然と抗議したんですね。そしたら、秀吉が烈火のごとく怒って、「自分が間に入って解決してやったのに文句を言うとは何事か。言うことが聞けないなら出ていけ」となって、翌1593年(文禄2年)に教如上人は本願寺の北の離れに引き籠らされ、弟の准如上人が跡を継ぎました。
なぜ如春尼が弟に継がせようとしたのかわかりません。譲状は西本願寺に残っていて、その譲状をもとに、西本願寺が本家だと言っているんです。ところが、偽文書じゃないかという説は江戸時代からあって、今も答えが出ていません。
秀吉からすると、秀吉の主君は信長でした。教如上人は信長に最後まで逆らった人です。秀吉は「それを許してやったのに、また逆らうのか」ということで、教如上人が秀吉に嫌われたというのはあります。
また、如春尼側の理由の一つとして、教如上人が後を継いだ直後、教如上人はまわりを自分を慕ってくれる人で固めて、顕如上人のシンパだった人を遠ざけたんですね。それを如春尼が反対したという意見があります。さらにもう一つ、教如上人は何人か側室がいたようですが、側室の一人と如春尼の仲が悪かったと言われています。
さらにもっと大きな理由があります。秀吉政権の前期を支えたブレーンの一人が千利休なんですね。茶道の千家の創始者です。そして、秀吉政権の後期は石田三成が政権の中心を担います。石田三成と利休との勢力争いがありまして、利休は石田三成によって失脚させられるんです。
ここで問題になるのが、利休と教如上人は仲がいいということです。茶の湯の会でよく交流していた。つまり、教如上人は秀吉に取り入るために利休を利用していた節があります。ところが、利休が腹を切らされてコネがなくなった。利休を苦々しく思い、自分たち若手官僚で秀吉を支えようとした石田三成が力を持つことによって、教如上人の立場が悪くなったということもあるんですね。そういった事情があって、教如は隠居に追い込まれてしまったわけです。
教如上人は隠居の期間が5年くらい続くんですけど、その間も「本願寺教如」と書いた書状や、「本願寺教如」という裏書の御本尊を出しているんですね。つまり、准如上人が継いでいるけど、依然として教如上人を支える集団があったわけです。准如上人は当時まだ十代ですから、若い准如上人より30代後半の教如上人に従う寺院・門徒が多かったと言われています。
⑤家康、本多正信への接近
顕如上人が亡くなった6年後の1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が亡くなります。時代はまた目まぐるしく変わって、この2年後の1600年(慶長5年)に関ケ原の戦いが起きます。そして徳川の世になっていく。
教如上人は秀吉が亡くなる前から徳川家康と仲良くなっていました。家康の家臣に本多正信という人がいます。この人は家康の家臣だけど、熱心な真宗の門徒で、三河の一向一揆が起きた時に一揆方で戦った人です。教如上人は本多正信と強くつながっていて、正信を通じて家康と教如上人は、秀吉が亡くなる前から通じていたとされます。
教如上人のお母さんは武田信玄の義理の妹。最初の妻は朝倉義景の娘。そして,千利休と仲良くて,秀吉に怒られる。そしたら徳川家康と仲良くなる。大河ドラマの主人公や登場人物になっている人たちと軒並み関係があるのが教如上人なんです。こういう人は珍しいと思います。教如上人を主人公にして大河ドラマ作ったら面白いと思いますけど、一宗派の僧侶を取り上げるのは、なかなか難しいでしょうね。
関ケ原の戦いの2か月前に家康は江戸に帰っています。五大老の一人である上杉景勝、この人は上杉謙信の養子ですけど、この上杉に不穏な動きがあることを知った家康は上杉征伐に行くんですね。そのすきに石田三成が毛利輝元たちを担ぎ出して兵をあげます。そして、関東からやって来た家康と戦ったのが関ケ原の戦いです。
実は江戸に帰っている家康を教如上人が訪ねたという記録が残っているんですね。おそらく京都の情勢を家康に報告しに行ったんだろうと言われています。7月の段階で京都の状況をあらかた理解していた徳川家康は、万全な準備をして東海道を戻り、関ケ原の戦いで勝つわけです。そして、家康が関ヶ原から京都に向かう途中、教如上人が滋賀の大津で家康を出迎えたと言われています。その場所が東本願寺の大津別院になっています。
准如上人も家康にお祝いを言うために出かけたんですけど、山科あたりで家康の家臣から「来なくていい」と言われて足止めを食らい、家康に会えなかったと伝えられています。
徳川家康はその後も京都に滞在し、2年後に征夷大将軍になるんです。その間、家康は伏見にいて、何回も教如上人と面談したという記録が残っています。おそらく本多正信を交えて話し合われたのが、教如上人が本願寺を改めて継ぐということです。ところが、教如上人は「もうすでに弟が継承していますから」と断るんですね。そしたら、家康は「本願寺は二つに分かれているようなものだから、新しい本願寺を作ったらどうか」と提案して、それで東本願寺ができたと言われています。
なぜ西本願寺のすぐ近くに東本願寺を作ったのか。これも記録が残ってないので謎です。離れたところに作ったほうが揉めないと思うんですけど。東山を超えた山科だったら揉めることないですから。あえてすぐ横に作ったのは何か意図があったと思われます。
大桑斉先生に教えていただいたのは、鴨川の東に方広寺という秀吉が作ったお寺があるんですね。大仏があるお寺です。この方広寺の鐘に徳川家康を呪う言葉があったと難癖をつけて豊臣家を滅ぼしたんですけど、それはまた後の話。方広寺は秀吉ゆかりの寺で、本願寺も秀吉によって作られた寺ですよね。その中間に東本願寺を建てることで、秀吉の影響があるラインをぶった切って、京都は秀吉の町じゃないというアピールをする意図が家康にあった。このように大桑先生が話されてました。場所の選定ということにはそれだけ意味があるんだともおっしゃっています。たしかにそれくらいしか理由がないんですね。
1602年(建長7年)、家康が征夷大将軍になったのと同じ年に、教如上人は新しい阿弥陀堂と御影堂を建てました。こうして本願寺は二つに分かれたわけです。本願寺が東西に分かれる時に、こうした複雑な事情があったんですね。
しかし、本山だけ作ったってしょうがないですよね。本願寺を支える教団の体制を新しく作っていかなければなりません。それに関しては、時間になりましたので今回はお話しできませんけど、本願寺が東西に分かれた事情の一端でも知っていただけたらということでお話ししました。
(2022年7月25日に広島別院で行われた法座でのお話をまとめたものです)
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