真宗大谷派 円光寺 本文へジャンプ

  近松 誉さん 「真宗の仏事」
    第4回 「東西分派と本願寺の儀式」

                            2022年9月17日

1 東西本願寺の儀式
 本願寺が東西に分かれてから、約260年間の江戸時代で、東西本願寺それぞれの特徴が出てきます。今回は、東西本願寺の儀式や声明がどういうふうに受け継がれ、変わっていったのかということをお話ししたいと思います。そして、東本願寺は両堂の焼失と再建、西本願寺は三大法論という教義上の論争が東西本願寺の教団の気質や体制に大きな影響を与えているんだと思います。この二点を中心にお話ししたいと思います。

(1)東西分派初期の儀式
 本願寺が東西に分かれたのは1602年(慶長7年)のことです。1600年(慶長5年)、徳川家康が関ヶ原の合戦に勝利し、2年後に征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開きます。その年に教如上人は徳川家康から土地を与えられて新たに本願寺を建立しました。これによって本願寺が東西に分派しました。

 分派当初は、東西本願寺ではほぼ同じお勤め、同じ装束だったと考えられます。西本願寺からすると、それまで何十年もしてきたことを、東本願寺ができたから変えようと考えるわけがないですね。なので、東西に分かれても同じ声明、儀式をしていたと思われます。

(2)西本願寺第14代寂如上人の大改革
 ①天台声明に変える
 東西分派して半世紀ぐらい経った1662年(寛文2年)に、西本願寺では寂如上人(1651年~1725年)が12歳で第14代門主になります。この方が西本願寺を大きく改革しました。まず、それまでの声明儀式をほぼすべて天台声明に変えてしまうんです。寂如上人は西本願寺に勤めている堂衆全員に天台声明を習わせます。それまでとはまったく違う声明を取り入れたわけです。

 伝統仏教における声明として、天台声明と並び立つのが真言声明です。鎌倉時代以降に誕生した仏教宗派の声明は、多かれ少なかれ、天台か真言のどちらかの影響を受けています。西本願寺は天台声明に近いので、他の宗派から見てわかりやすいものとなっていると思います。それに対し、真宗大谷派の声明は真言声明の影響を強く受けていて、大坂に本願寺があったころからほとんど変わっていないとされます。もともと本願寺は天台宗の末寺だったので天台流だった声明を、蓮如が独自の形に改めて、それからだんだんと真言風になっていくんですね。ですから、西本願寺の声明は蓮如以前に戻ったとも言えます。

 大きく野太い声で勢いよく発声していくのが真言流です。たとえば、大谷派では淘(ゆり)といって、三淘とか五淘は「南無阿弥陀仏」の「な」を「なー、あー、あー」というふうに声を揺すっていくわけです。リズム感を持って声を揺らしていくのは真言流なんですね。一方、天台声明は細い声でゆったりとお勤めします。

 西本願寺が天台声明に変えた時、坂東曲(ばんどうぶし)もやめたんですね。東本願寺では報恩講の最終日、結願日中の法要で坂東曲を行います。東西分派した当初は西本願寺でも坂東曲をやっていたわけです。ところが、寂如上人が坂東曲を廃止した。そのように、寂如上人の時代に東西本願寺の声明儀式が大きく分かれたわけです。

 毎年11月28日に本山で坂東曲が勤まります。西本願寺には勤式指導所という声明を研究している部署があるんです。特別法務員という資格を持った人たちが東本願寺に団体でお参りされ、外陣(矢来の内側)南側で坂東曲を聞いておられます。

 ②教団改革
 寂如は他にいろいろな改革をしています。本願寺は第11代顕如上人の時に門跡という寺の格式を朝廷から許可されます。僧侶になった天皇の一族が入る寺が門跡寺院です。

 門跡になると、お坊さんの仕事をする「院家(いんげ)」という役職の寺院を朝廷が勅許します。加えて俗務を取り扱うのが「坊官(ぼうかん)」であり、これも朝廷から任じられます。本願寺では代々、下間(しもつま)という家が坊官をやっていました。本願寺が東西に分かれると、下間家も東西に分かれて、それぞれの本願寺で坊官をしていました。

 ところが、寂如上人は下間家の坊官をいったん全員、解雇します。そして、頭を下げた下間家の者だけを戻しました。怒って東本願寺に移った下間家の人もいるんです。寂如上人がなんでそんなことをしたかというと、門主がすべてを取り仕切るためです。俗務を取り扱う人間を全員解雇して、権力の全部が自分に集まるようにしたわけです。ですから、戻ってきた下間家の人たちは寂如上人の顔色をうかがって何も言わなくなりました。寂如上人は門主を60年以上やっておられる間に、自分の思うように教団を変えたんですね。そうして西本願寺のあり方が大きく変っていったわけです。

 また、寂如上人は能筆家で知られていました。経蔵といってお経を納めている蔵が西本願寺にあるんですけど、そこにかかっている扁額の字は寂如上人が書いたものに変わりました。御影堂に奉懸されている十字名号と九字名号も、それまでのものを下ろして、寂如上人が書いた名号を掛け直しています。

 私のお寺(大阪教区慧光寺)はもともと西本願寺に属していたんですけど、寂如上人の時代に争いが起きて追い出され、東本願寺に寄せてもらったんです。ですから、うちの歴代の住職は寂如上人にいい感情をあまり持ってないですね。けど、西本願寺では寂如上人のことを悪く言うのはタブーなんです。今の教団の基礎を作った人ですから。

 寂如上人が声明を全部変えた後も、西本願寺では御遠忌などの大法要のたびに声明儀式や作法を変えるんですね。勤行本も御遠忌がある50年ごとに新しくするわけです。

 ③正信偈
 真宗大谷派では『正信偈』は九品(くほん)といって9種類の勤め方があります。ところが、西本願寺では真譜、行譜、草譜の3種類しかないんですね。本願寺派の人からすると「お東さんは『正信偈』の勤め方がそんなにいっぱいあるのか」という感じなんです。もっとも、大谷派でも一般寺院でお勤めするのは真四句目、行四句目、草四句目と、真読と中読がほとんどです。他は本山か別院でしか勤めないので、この5種類を覚えたらお寺でのお勤めはほぼできます。

 また、西本願寺では一つの法要で僧侶の装束が何種類にも分かれています。色のついた衣を内陣の人が着けるのに、外陣の人は黒い衣だとか、役職によって衣が変わっている。大谷派の場合は違いは袈裟と衣、袴の色くらいで、原則は同じ様式です。
※本山の晨朝や、四時逮夜(比較的軽い法要)等は、内陣と外陣とで袈裟が異なります。

 また、大谷派では内陣に出仕する者は履物を履いています。挿鞋(そうかい)という布を張った木製の履物か、藺草履(いぞうり)を履きます。我々は人間の立場で浄土の荘厳の中に入っていきます。浄土の世界に土足で入らないということで履物を履いているんです。西本願寺では履物を用いず、足袋のままで内陣を歩いておられます。このようにかなり違っているんです。

 ④坂東ごえ
 本願寺3代の覚如は『改邪鈔』という書物に、「生得になまれる坂東ごえ」と書いています。坂東曲がまさに「坂東ごえ」から連想されるものです。京都の人は「本願寺のおほかめ(狼)念仏」と揶揄したと伝えられています。関東の門弟が京都にやって来て本廟でお勤めすると、狼のようにワアワアほえていると。覚如上人はそれをあまり評価していなかったと思うんですが、覚如上人以降、蓮如上人、実如上人、証如上人、顕如上人と継承してきた本願寺の声明は覚如上人が批判した「おほかめ念仏」であり、なまれる坂東ごえ(=坂東曲)だったわけです。

 「おほかめ念仏」が特に象徴的に出ているのが、念仏和讃で初重、二重、三重と、大きな声でどんどん高く上げていくところです。天台声明の場合はそれが全然ないわけです。吼えるように勢いをつけてテンポよくお勤めするのが東本願寺の声明の特徴です。

 ⑤坂東曲
 坂東曲はおそらく蓮如上人のころには始まっていたと思われますから、500年以上の伝統がある独特の声明です。さきほど「坂東ごえ」が坂東曲では、と申しましたが、坂東曲は実はイントネーションに関しては京都弁なんですね。名前は坂東曲だけど、実は京都弁だという不思議な声明なんです。例えば、「智慧の念仏うることは」という和讃(巡讃)があるんですけど、坂東曲の場合は、「智慧の」の「の」にアクセントをつける。イントネーションを京都弁に変えてお勤めするわけです。「なまれる坂東ごえ」を京都でお勤めしてみたら京都弁になりましたというのが坂東曲の極意だと言われています。坂東曲は京都弁でやらなあかんわけです。

 坂東曲は上半身を前後左右に揺らしながらお勤めします。あのように体を揺するお勤めは他の宗派でも見たことがないですね。なぜ体を揺するのか、様々な説があります。よく言われているのが、親鸞聖人が越後(新潟県)に流される時、揺れる舟の中で念仏を称えられた、その身体の動きを再現したという説です。流罪では陸路で行っても、最後の最後に一度、舟に乗って流されたという形を取るんでしょうね。ですので、親鸞聖人も越後へはほとんど陸路を歩いておられます。越後に入ってから木浦(このうら)という港で舟に乗って、一里ほどで居多ヶ浜に着いたと伝えられています。一里ではそんなに揺れないので、坂東曲が生み出されるはずがない。とはいえ、親鸞聖人の生涯を考えると、越後への流罪は重要な意味があるので、そこで坂東曲が生まれたという伝承が作られたと思われます。となると、名称(坂東)との矛盾が出てきますので、そのあたりは一考の余地があるかもしれません。

 民俗学的にいうと、踊り念仏の影響ではいかと言われてるんです。踊り念仏はほとんど見る機会がありませんが、時宗では今も続いています。踊り念仏は前後左右に体を揺すりながら念仏を称えて踊るんですね。ですから、座って踊り念仏をする、それが坂東曲の源流というか、影響を与えた可能性が指摘されています。

 ⑥所属寺院の転派
 西本願寺が天台声明になったことには、別の観点からの効果があります。というのが、東西本願寺では同じ『正信偈』や三部経、偈文をお勤めするんですけど、お勤めの仕方は違っています。装束なども違います。ですから、寂如上人が声明を変えたことで転派することが難しくなったんですね。

 というのが、江戸時代の初期には西に転派したり、東に移ったりする寺院がたくさんあったんです。東は独立したばかりなので、どんどん寺院に来てほしい。西はそれを食い止めたい。なので、お互いに引き合いをするわけです。たとえば、聖徳太子、七高僧の御影(掛軸)が傷んできたので、西本願寺から授与してもらわないといけない。このお寺が東本願寺に移りますと言うと、東本願寺は太子、七高僧を西本願寺の半分の御礼金(=半銀)でくれる。寺院の格や僧侶の格を上げるのも半銀でいい。そういう制度があったんです。おそらく西本願寺でも同じ手法がとられていますし、それで何度も転派した寺院があると思いますね。
※江戸時代、江戸を中心とした東日本では金本位制、京・大坂を中心とした西日本では銀本位制がとられていました。

 ところが、寂如上人が西本願寺のオリジナルを打ち出したおかげで、転派するハードルが高くなったわけです。それで寂如上人のころには東西の移り合いがかなり減ったと言われています。そうして、東本願寺に移る寺院が少なくなって西本願寺教団の力が安定したんです。西本願寺で寂如上人が評価されるのは当然ということもあるかと思います。

2 東西本願寺を特徴づける二つの事象
 江戸時代の東本願寺は四度も両堂を焼失していて、西本願寺は三大法論が起きました。この2つの大きな出来事はそれぞれの教団の性格を考える上で深い意味があります。

(1)東本願寺の焼失と再建
 1602年(慶長7年)に本願寺が東西に分かれた時、東本願寺はそんな大きなお堂ではなかったんです。兵庫県姫路市の船場別院本徳寺は17間四面ですのでだいたい32~3m四方ですが、記録によれば、それよりもちょっと小さいくらいの御影堂でした。今の御影堂は幅76mありますので、間口が半分ぐらいだったんですね。

 現在、東本願寺は烏丸通に面しています。東西に分かれた当初は烏丸通の一本西側にある諏訪町通に面していたんです。北側はちょっと引っ込んで、南側が出っ張る形だったんですね。1658年(明暦4年)に御影堂を今の大きさにしました。大きくすると境内が手狭になりますので、その時に境内の拡張工事をして、烏丸通まで境内地を広げたんです。

・天明の焼失
 ところが、1788年(天明8年)に都で大火がありまして、京都の市街地の8割が焼けた。天明の大火といいます。東本願寺は焼けたけど、西本願寺は焼けなかった。なぜかというと、西本願寺の前には堀川通という広い通りがあります。江戸時代には堀川という川がありました。さらに、西本願寺と東本願寺の間にある西洞院通にも、西洞院川があったんですね。天明の大火は鴨川にかかる団栗橋あたりの民家から出火したんですけど、西洞院川で火勢が弱まり、さらに堀川で完全に消えて、それで西本願寺は焼けなかったんだと思われます。

・文政の焼失
 この後、両堂はじめ境内の建物は1798年(寛政10年)、10年かけて建て直しました。その時に教如上人と徳川家康との関係から、江戸幕府が材木を寄進してくれています。ところが、1823年(文政6年)にまた焼けたんですね。25年で燃えてしまった。大変なショックだったと思います。

 境内の台所か書院から火が出たと言われていますが、放火されたという噂もあって、原因は定かではありません。当時記された書物等から推測される説によると、再建の際に、東本願寺の寺内町にあった稲荷社を全部追い出したので、それを恨んだ稲荷社の関係者が放火したという噂が当時あったようです。

 この時も幕府から材木の寄進がありまして、1835年(天保6年)に再建されました。この時は寛政にできた阿弥陀堂よりも二回りぐらい大きくなりまして、今の御影堂とほぼ一緒の大きさです。

・安政の焼失
 1858年(安政5年)、ペリーが黒船で来てすぐのころ、またしても焼けてしまう。今回は1860年(万延元年)に再建されています。たった2年です。ものすごく早いですね。なぜかというと、1861年(文久元年)に親鸞聖人の六百回御遠忌をしないといけなかったんですね。何もない焼け跡で御遠忌をするわけにはいかないので、かなり無理をして仮の建物を建てたんです。普通は心が折れると思いますけど、当時の門徒さんはやってくださった。

 この時は幕府も財政難で材木の寄進がなかったので、御影堂と阿弥陀堂は自前で用材を用意しました。本堂の再建を進めていた福井別院の材木を持って来たり、御殿、書院、座敷は地方の幾つかの別院の建物を解体して持ってきたとか、かなりむちゃなことをしています。い材料がなかったんので、柱を多めに立てたり、今の御影堂より12~13m低くして屋根荷重を減らしたりして工夫していますが、かなり今の御影堂とは異なる簡素な建築だったようです。

 けれども、平面(広さ)だけは今の御影堂と同じような規模のものを建てました。しかし、あくまでも仮堂という名称、扱いです。なぜ仮堂かというと、江戸幕府が木材を寄進していないので、これはあくまで仮堂ですと、幕府に遠慮したんだと思います。

・元治の焼失
 こうして、なんとか御遠忌を勤めて、ホッとしたのも束の間、1864年(元治元年)、蛤御門の変でまた両堂、境内が焼失しました。ですから、東本願寺は江戸時代の終わりごろの約80年間で4回も焼けたということになります。この4回とも、第20代達如上人(1780年~1865年)の時代でした。達如上人が物心ついたころに天明の大火で焼けて、ちょっと大きくなったら2回目の焼失があり、宗主を隠居してしばらくして3回目の焼失、そして4回目に焼失を経験した翌年に亡くなっています。

 元治元年に焼けたあと、達如上人は御消息といって、全国の門徒に手紙を出しています。自分がいる間に本山を4回も焼いてしまった。自分はどれだけの悪業を背負っているのか。仏祖に申し訳が立たない。悲しんでもあまりある。もう御堂は建てなくてもいい。門徒の皆さんにもう一回建ててくれとはよう言えない、という内容です。

・明治の再建
 御影堂、阿弥陀堂は1895年(明治28年)にようやく再建されました。今の材料、技術では再現できないのではないかと言われるような素晴らしいものができあがった。それから130年ほど経っています。2003年から2008年にかけて御影堂を修復し、阿弥陀堂は2012年から2015年にかけて修復しました。修復後に国の重要文化財に指定されています。明治の建物で重要文化財に指定されるのはかなり早いほうだと思いますね。後世まで伝えていかなければいけないと、本山一同で大切にしています。

 焼失と再建は東本願寺教団にとって大きな痛手でした。日本全国が開国か鎖国かと争っている幕末の大変な時期に、東本願寺は何回も両堂を焼失しているわけです。それでも両堂が再建できたのは、焼失するたびに全国に浄土真宗の教えを伝える使僧、布教師ですね、が派遣されて本山がいかに困っているかを話し、真宗の教えを広めつつ、みんなの手で本山を建て直そうとお伝えした。そうして、ご門徒の皆さんが寄進されたんです。

 教区や組で事業をしながら、本山の経常費を納めていただくという現在のシステムは、江戸時代に何度も焼失したつらい経験から、みんなで本山を盛り立てていくシステムができ上がったんです。だから、東本願寺のあり方を考える時に、焼失と再建を考え合わせて教団の体制を考えていかなければならない。

・詰所
 東本願寺のまわりに詰所という宿泊施設があります。全国の色々な地域で門徒さんが維持費を出し、本山にお参りする人が安く泊まれるようにしてきたんです。明治の終わりには詰所は50軒あったと言われています。ところが、私が本山に入った平成7年に12、3軒になって、現在では5軒しか残っていません。旅館やホテルがたくさんできているし、地域の門徒さんに詰所を支える体力が失われてきたということもあります。現在では報恩講以外は詰所にお客さんがほとんど来られていない状況です。それでも、この5軒は結束が固くて、必ず月に一回お講を開いておられます。本廟部から僧侶を派遣して、お勤めとお話をさせていただいているんです。こうした門徒さんたちが東本願寺の近世を作ってこられたわけです。

(2)西本願寺の三大法難とその影響
 西本願寺は江戸時代の初めに両堂が焼けまして、1630年(寛永5年)に建て直しました。それから一回も焼けておらず、今は国宝になっています。

 その代わりといっては語弊がありますが、江戸時代に西本願寺で三大法論といって、西本願寺を揺るがす大きな教義論争が3回ありました。

・承応の鬩牆
 東西が分派して半世紀ぐらいしたころ、寂如上人が門主になる少し前に、「承応の鬩牆(げきしょう)」という法論が起きます。鬩牆とは言い争うという意味です。

 西本願寺では学林という僧侶の教育機関があって、その長を能化職というんです。龍谷大学の学長みたいなイメージですかね。1653年(承応2年)、能化である西吟師の講義が禅宗や天台宗のような、ある種聖道門的であり、他力本願を教義とする浄土真宗にふさわしくないと、西吟師の兄弟子の月感師が批判しました。月感師は熊本の在野の人なんですね。本山と地方の学者さんの間でもめごとが起きたということです。

 この時、西本願寺は自分たちで解決できなくて、江戸幕府に訴え出ています。どっちが正しいか、本山の味方をしてくださいということです。その結果、1655年(明暦元年)、月感師は出雲(島根県)に流罪となり、その後、罪を許されると大谷派に移ります。それが最初の法論です。

・明和の法論
 次に、1764年(明和元年)から1770年ごろにかけて「明和の法論」が起きました。能化の法霖師が、浄土真宗の本尊は『観無量寿経』で韋提希の願いに応じて空中に現れた住立空中尊だと説いた。ところが、播磨の学僧である智暹師が「それは違う、『無量寿経』に出てくる華光出仏、蓮華の光の中から出てくる阿弥陀仏が本尊だ」と反論したんですね。本尊はどちらかということで、両派の学者が大論争を起こします。これも本山の教学と、地方で学んでいる人の教学が異なったために起きた論争ですね。

 ところが、なかなか決着がつかない。1768年(明和5年)には当事者の2人が亡くなり、門主である法如上人が「『観経』に出てくる住立空中尊が本尊である」と判定することによって、収まりました。しかし、親鸞聖人は『無量寿経』は「真実の教」である、『観経』は真実の教に目覚めるための方便経だと言っているので、方便経にしか本尊が出てこないのは問題があるわけですね。大谷派も両方の意見があるのは同じですけど、どっちが正しいか、公式に判定はしていません。大谷派出版部から出ている『真宗の儀式』では、『大経』と『観経』のどっちにも出てきますよと書いてあります。

 ③三業惑乱
 三回目の法論は、1790年ごろから1800年ごろに起きた三業惑乱です。本山の学者が三業帰命説をとなえるんですね。三業というのは身、口、意のことで、体と口と心で阿弥陀仏をたのまないと安心をいただけないということが三業帰命説です。

 どういう事情であったかというと、当時の越前(福井県)あたりで無帰命安心という説がはやったんですね。「阿弥陀さまが救ってくださるんだから、人間は煩悩のままに、何やってもいい。いちいち安心とか気にしなくてもいい」と、極論するとそんな考えです。

 この異義を批判するために、能化の功存師が1764年(宝暦14年)に三業帰命説、体と口と心で阿弥陀仏に帰命しないといけないと説いたわけです。門徒の行儀作法を整えようとしたんですね。ところが、1797年(寛政9年)に能化になった智洞師が三業帰命説を唱えると、安芸の大瀛師たち在野の学僧が、三業でたのむのは自力だと、智洞師や学林を批判して大問題になったわけです。

 この論争によって、西本願寺内部は大混乱に陥ります。この論争が各地に広がり、門徒さんも動揺して争いが起きました。1802年(享和2年)には美濃国大垣藩の門徒が本山に詰めかけようと河原に集まり、殿様が幕府に届け出て大ごとになったんですね。翌年には、三業安心派の僧侶や門徒が本山に押し寄せ、門主の部屋の近くまで侵入するという事件も起きています。

 今回もまた教学上の問題を教団で解決できず、収拾がつかなくなった西本願寺の首脳陣は幕府にまかせることにしたわけです。幕府の寺社奉行が預かることになりました。当時の寺社奉行は脇坂淡路守安董という人です。優秀な方で、しかもお東の学者である香月院深励師と親しかったんです。香月院深励師に真宗の教学を学んだ脇坂淡路守は、1806年(文化3年)、親鸞聖人は身口意そろって帰命しないと救われないとは説いていない、学林の主張が間違っていると裁定しました。そして、西本願寺は百日間の閉門という処分を受けることになります。

 そういう事情もあって、西本願寺は三業帰命説の影響が今も非常に大きいのではないでしょうか。西本願寺の御寺院、御門徒たちは「合掌」と言うと、大きな声で「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と称えられますよね。口に念仏と称え、「礼拝」で頭を下げる。身口意で念仏することを実践しておられるわけです。幕府によって三業帰命説は否定されたような形になったけれども、今も宗派の行儀のような形で、「皆でお念仏を申しましょう」と、そういう部分が残っているように思います。

 いずれにしましても、東本願寺では焼失と再建という苦難を乗り越えて体制を作っていった。西本願寺は三大法論という混乱があって、その苦難を乗り越えて教団の体制ができあがっていく。それぞれが、そういう歩みを重ねて特徴ができていったわけです。そういう歴史を知っていただければと思いお話しいたしました。
(2022年9月17日に広島別院で行われた真宗講座でのお話をまとめました)

第5回「お内仏と仏壇」