「生まれ変わり生きがい論」 1
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飯田史彦『生きがいの創造』、スピリチュアル批判 |
ポール・エドワーズ『輪廻体験』 太田出版
斉藤貴男『カルト資本主義』 文藝春秋
福本博文『ワンダー・ゾーン』 文藝春秋
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ニューエイジ
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私はスピリチュアルは非常に問題のある考えだと思っています。スピリチュアル批判として飯田史彦の『生きがいの創造』を取り上げます。
死んだらどうなるかを科学的に解明したと主張する本がたくさん出版されています。たとえば飯田史彦『生きがいの創造』などはベストセラーになっています。
この本の書評をネットで検索すると、あるサイトでは、
「なによりも、感動的で、心打たれる本です。この本を紹介することで、何度も感謝のメールを頂いています。生と死について悩んでいる方は、心の拠りどころを得られるかも知れません。」
と絶賛しているなど、おおむね高い評価が多いようです。
しかし、私は「生きがいの創造」を読んで、まずうさんくささを感じました。矛盾している文章を引用していることはしばしばだし、仮説だと言いながら反対意見は取り上げないなどごまかしが目立ち、とてもじゃないけど「あくまでも科学的な立場を貫いている」とは言えません。また、自信(うぬぼれ)に満ちた文章は「真摯に誠実に伝えようとしている」とは思えず不快です。
オカルト経営コンサルタントの船井幸雄が持ち上げていることもマイナス材料です。なにせ船井幸雄が推薦するのは春山茂雄の『脳内革命』、比嘉照夫のEM法など、まともな研究者なら誰も相手にしないものばかりですから。(船井本については斉藤貴男『カルト資本主義』、東京フナイ研究会『船井幸雄大研究』)
どうして「うさんくさい同種の本とは一線を画している良書」と思ったのか不思議です。
飯田史彦の説く「生まれ変わり生きがい論」とはどのようなものでしょうか。
・人間は成長する存在である。
・そのためにこの世に何度も生まれてくる。
・魂が成長するためにはさまざまなことを学ばなくてはいけない。
・人は学ぶべき課題を自分で選んで生まれてくる。
・その課題が苦難やハンデである。(能力、性格、生活環境から身体障害、両親の離婚、子どもの死、仕事の失敗、失恋などなど)
・死後には愛と光に満ちた世界で死別した人と再会する。
・人生を振り返って反省した後、再び新たな課題を持ってこの世に生まれてくる。
・生まれ変わりをくり返しながら、魂はしだいに成長していく。
・魂が完全に成長したならば、生まれ変わることはなくなる。
「生まれ変わり生きがい論」は飯田史彦の独創ではありません。臨死体験の事例集レイモンド・A・ムーディ・Jr『かいまみた死後の世界』や、退行催眠によって前世の記憶がよみがえったというブライアン・L・ワイス『前世療法』といった本の焼き直しです。
実はこれらの本、大学教授や医学博士が実例と称するものを並べ立てて、科学的に死後の世界が証明されたと言っていますが、人間は生まれ変わりをくり返しながら、低い段階から高い段階へと魂(霊性)が進化すると説く神智学からニューエイジと続く流れにあるものです。
ニューエイジの影響が大きいオウム真理教や幸福の科学といった新々宗教も、こうした死後観を教義の中に取り入れています。
この地上の生活というのは、訓練なのです。あの世に還ってから、よりすばらしい生活をするための訓練期間なのです。 大川きょう子『ほんとうの自分をさがして』
つまり、「生まれ変わり生きがい論」とは宗教の一種と言っていいでしょう。しかも宗教といっても、カルト宗教に通じる危険性があります。
ということで、問題点として4点あげてみましょう。
1,科学的という嘘
2,現実に目をつむる
3,今をおろそかにする
4,金儲けをしている
目的を持って生まれた人はない 池田清美
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1,科学的に証明されたという嘘
『生きがいの創造』で飯田史彦は
「本書は、「死後の生命」や「生まれ変わり」のしくみに関する科学的研究の成果」
であり、
「できるだけ学術的かつ客観的な立場を守るために、名の通った大学の教官、博士号を持つ研究者や臨床医の研究を中心に引用しています。」
と言ってます。
しかしながら飯田史彦も大学の教官ですから、「生まれ変わり生きがい論」は科学と無縁だし、死後の世界を科学的に解明することは現時点では不可能だということはわかっているはずです。つまり意識してこういう嘘をついているわけです。
そして、
「死後の生命は存在しないことは永遠に実証できない」
とも言っています。
たしかに死後の生を否定することはできません。しかし、死後の生命が存在することも永遠に実証できません。そして検証できない例をいくらあげても、それでは証明にはなりません。自分に都合のいい半面しか言わないわけで、こういうところが飯田史彦のずるいところです。
もっとも前世の記憶が本当かどうかは、歴史的事実と照らし合わせれば簡単にわかるはずです。ところが不思議なことに、そうした科学的検証作業を前世療法家はしていないようです。
飯田史彦があくまでも科学性を主張するのはどうしてかというと、多くの人には宗教に対する抵抗感があり、宗教色があれば広く受け入れられないため、科学的装いをこらし、教授や博士という肩書きで権威付けているわけです。
もちろん、大学の教官や博士号を持つ研究者の研究がすべて正しいわけではありません。間違いもあります。けれども読者はこういう肩書きに弱いことを、飯田史彦はちゃんと知っているんですね。
冒頭に紹介したサイトでも、
「著者は福島大学経済学部助教授であり、出版社も信頼のある松下幸之助のPHP出版であることを考えれば、うさんくさい同種の本とは一線を画している良書であると言えるでしょう。」
と書いてますから。
しかし飯田史彦本人は本の内容が科学的でなければ、客観性もないし、論理的にもつじつまが合わないことを承知しています。ですから、
「本書は「わかりやすさ」と「人々に希望を与える内容」を心がけていますので、本書の細部を批判することは、いくらでも可能です。」
と逃げを打ち、そして、
「「死後の生命」や「生まれ変わり」が本当にあるのかどうかという「真理」については、私自身も、「いずれ死ねばわかることでしょう」とお答えすることしかできません。私は「真理」には関心がなく、生きがい感の向上という「現象」にこそ、関心を抱いています。」
と話をそらします。
死んだらどうなるのかについては関心がない、生きがい感の向上のための手段として生まれ変わりを主張しているだけのことだ、というのも「科学的な研究の成果」と言っているわりにはいい加減な話です。
ところが飯田史彦の説く生きがいがこれまた大問題のしろものです。
飯田史彦はどういう研究をしていたかというと、
「もともと私は、「人間の価値観」をキーワードとして、企業の革新を、経営者や上司による、一種の「望ましいマインドコントロール」としてとらえようとしたのです。」
と語っています。
自分の望む方向に人を巧みに誘導して、自分の言いなりにするのがマインド・コントロールです。
飯田史彦は経営者側に立ち、企業の生産性を高めるために、従業員の生きがい、働きがいを与えることでマインド・コントロールをするという研究していたわけです。
それはどういうものかというと、
・苦しいことがあっても、自分の課題だと思って、文句を言わずにじっと我慢して会社のために働こう。
・いろんなことがあったけど、苦労を通して多くのことを学んだんだから、過去を振り返らずにもっと前向きに生きよう。
この生きがいは上から授ける生きがいであって、自分で求め、見出していく生きがいではありません。
「生まれ変わり生きがい論」も同じ流れにあります。成長するということは、国や会社に従順な人間になり、社会のために役立つ人になるということです。だからこそ船井幸雄が『生きがいの創造』を推薦したわけでしょう。
現実の問題に目をつむり、現実を見なくなることによって自己満足が与えられる生きがいですし、そうした生きがいは奴隷の幸福を生み出すものにすぎません。
『金日成のパレード』という映画を見まして、奴隷の幸福のいい例が北朝鮮だと感じました。
2,現実問題に目をつぶってしまう
自分の責任で苦が生じることはありますし、苦難によって人は成長することもあります。あるいは、振り返ってみて、あのおかげでと思うこともあります。だからといって、苦によって人間は成長すると単純に言い切っていいものでしょうか。
「実家の父は、私や母・家族にとってはただ怖い存在であり、母を一生泣かせ、子供たちには怒鳴ったり、暴力をふるったりで、小さい頃受けた仕打ちが、私の人生に大きく災いしているとずっと思っていましたし、そんな父に愛情など感じたことはありませんでした。
しかし、あの父があっての自分であり、自立心が育ったことも、忍耐力をつちかったのも、父によって勉強させられた結果だったのかと思った瞬間、父を許せるような気がいたしました。」
こうした考えには問題がないわけではありませんが、こうした形で今さらどうしようもない過去のこと、暴力をふるう父親を受け入れることもあります。
だからといって、時間がたって、冷静に振り返る余裕が生まれたならばともかく、苦しみのただ中にある人に
「すばらしく高度な試験問題に挑戦している、勇気にあふれたチャレンジャーなのです。今回の人生で、その問題に挑戦することを選んだのは、あなた自身であり、だれのせいでもありません」
とおだてるべきでしょうか。
まして、あらゆる苦難は成長のために自分が選んだ、あるいは前世の行為の結果なんだと言い、すべてを個人の責任にしてしまうことは大いに問題です。
たとえば、先に紹介したように、夫の暴力に苦しむ女性が、これも自分で選択した試練だ、耐えられない試練はない、と考えて、夫の暴力を耐えるべきでしょうか。
あるいは、世界中には飢えている人、戦争で苦しむ地域、医療を受けられない人が多いわけですが、彼らは飽食の日本人よりも困難な課題を選んだチャレンジャーだと言うのでしょうか。もしもそうならば、彼らは自ら求めてり困難な人生を選んで生まれてきたのだから、そうした境遇にあることは自業自得ということになります。
栄養失調で死にかけている人、親から虐待されている子ども、そうした生命の危機を常に感じながら生きている人に、「誰のせいでもない、自分の責任だ」と言うとしたら、その人はあまりにも無神経としか言いようがありません。
インドのカースト制という差別制度も同じような考えです。インドの輪廻思想、業思想がカースト制を肯定する基盤となっています。
なぜならば、前世の行いによって現在の境遇が決まったんだから、不平不満を言うべきではない、と言っているからです。さらには、黙ってしいたげられ、耐えていたら、来世では今よりよい境遇に生まれる、とも説きます。
これは支配者が自分の都合のいいように支配するためのおとぎ話にすぎません。
そもそも貧困、差別、飢餓、戦争などで苦しむことは、個人の責任ではありません。国や社会の問題です。
「生まれ変わり生きがい論」は、国や社会が解決すべき問題を個人の問題にして責任の所在をすり替え、抗議の口をふさぎ、現実から目をそむけさせ、現在の自分の境遇を仕方ないものとあきらめさせようとすることになります。
個人的な問題でも同様です。
「重い精神病や肉体的な障害などのように、深刻な問題を持つことは、進歩のしるしである。こうした重荷を背負うことを選んだ人は、たいへん強い魂の持ち主だ。なぜなら、もっとも大きな成長の機会が与えられるからである。」
飯田史彦は励ましているつもりでしょうが、そんなことを本気で信じているのでしょうか。
児童虐待はどうでしょうか。親から虐待され、時には殺されてしまう、そうした苦しみを自分から選ぶものでしょうか。あるいは拷問、強姦などを経験することも進歩のしるしなのでしょうか。餓死する子供たちはどうなのでしょう。飯田史彦はそうしたことも「だれのせいでもありません」と言うのでしょうか。
そして、もしそうした犯罪や戦争の被害者になることが自分で選んだ試練なら、加害者は私の成長のためにわざわざ手伝ってくれたわけですから、加害者に感謝しなくてはいけないことになります。
そもそも、世界には成長を促す以上の苦しみがあふれているように思います。戦争、飢餓、貧困で苦しむ人のほうが圧倒的に多いということをどう考えればいいのでしょうか。
成長のためにわざわざ苦しい人生を選ぶ優れたチャレンジャーが多いということでしょうか。
おまけに、成長のためにより困難な課題を選ぶというのなら、成長するにしたがって課題はより困難なものになるわけです。となると、世の中はどんどん悪くなるわけですし、人はもっともっと苦しまなくてはならないことになります。これが世界の成長ということなんでしょうか。
さすがに飯田史彦もそこまで言うつもりはないらしく、飯田史彦は『ブレイクスルー思考』で、魂の成長という解釈(ご都合主義的解釈)では説明できない重すぎる苦難については、ブラックボックスに入れるとよい勧めています。わからないことは考えずにそのままおいておきなさいというわけです。
これは思考停止です。現実を見るな、何も考えるな、ということです。しかし、都合の悪いことには目をつむるならば、今を生きることをおろそかにすることになります。
3,今をおろそかにしてしまう
生まれ変わりを何度もくり返すというのなら、一度や二度の失敗は大した問題ではないことになります。やり直すことができるのですから。
しかしそれはまた、この生、そして死というものが軽いものになりはしないでしょうか。たとえば、コンピューターゲームで、主人公が死んでもリセットしてやり直すのと同じことです。今回は課題をうまくクリアできなかったけど、次にはがんばろうみたいな感覚です。
森達也『A』『A2』というオウム真理教の信者や地域住民を取り上げたドキュメント映画の中で、ある信者が「我々は100年単位ではなく、1000年、2000年の長いスパンで考えているんだ」ということを言っていました。
100年、つまり人間の一生だけで考えると、人を殺すことは悪いことになりますが、生まれ変わりを何度もくり返すという長い視点で見れば、殺人もその人のためを思ってしたことになる、というわけです。
「事件は救済であり、グルのマハームドラー。輪廻を見据えた長いタイムスパンでの計画」(『オウムをやめた私たち』)
そして、この世での今この時の生よりもあの世(天国、中間生)での生を重く見るならば、この世での生は軽んじられます。
たとえばエホバの証人が輸血を拒否するのは、たかだか100年の命よりも、いつかおとずれる最後の審判、そしてその後に続く天国での永遠の生を選ぶからです。
あるいはこういう例があります。
「1986年、真理の友教会という宗教集団の信者である女性七人が、病気で亡くなった教祖の後を追うように集団で焼身自殺した。彼女たちの生活は教祖のそばに仕え、教祖の地上での仕事を助けるのが役割だとされていた。真理の友教会の教えによれば、人間のほんらいの住処は天国であり、この地上へはなんらかの役割を与えられてきているのである。死はその役割が終わったことを意味した。」(芹沢俊介『オウム現象の解読』)
人は役割を持って生まれ、役割を果たして死んでいく、という真理の友教会の教えは、飯田史彦の「生まれ変わり生きがい論」と同じ構造です。
「死は地上での仕事の終わりを意味するのです。真理の友教会の理念では、死はちっとも大きな意味をもたないのです。帰るべき天国と遣わされて仕事の役割を終えた地上との間をつなぐ位置、地上と天国とをつなぐ点のような役割しか与えられていません。」(芹沢俊介『オウム現象の解読』)
この考えだと、死というものは次の生への通過点、ある部屋から別の部屋へ移る扉のようなものにすぎません。
しかし、反復不可能な一回限りの生だからこそ、今を大切に生きるということがあるのではないでしょうか。
「今日ばかり おもうこころを わするなよ さなきはいとど のぞみおおきに」(「蓮如上人御一代記聞書」)
いつまでも命があると思っていると、今という時をおろそかにしてしまうといういましめの歌です。
ヴォルテール「カンディード」は、主人公のカンディードがさまざまな苦難に遭いながら旅をし、最後に
「何はともあれ、わたしたちの畑を耕さねばなりません」
と、今しなくてはいけないことを大切にするという言葉で終わります。
死後の世界(天国)や生まれ変わりを強調すると、今を生きることをおろそかにすることになりかねません。
4,成長ということについて
『生きがいの創造』やスティーヴン・T・デイヴィス編『神は悪の問題に答えられるか』を読んで感じるのは、人間は成長するものであり、成長するということが善だという前提です。この前提は正しいのでしょうか。
①人間ははたして成長しているのだろうか
かりに人間が生まれ変わりをくり返しながら成長しているとしても、現実を見るならばさほど成長しているようには思えません。
もしもそうならば、釈尊やイエスの教えは過去のものとして葬り去られているはずです。歴史を学ぶ必要もありません。
『生きがいの創造』を読むと、人間はいかに成長しないかがよくわかります。そのいい例が、
「マスターたちは、私が肉体を持って86回生まれていると言っています。」
と語る女性です。
この女性は86回も生まれ変わったのだから、さぞかし成長しているかというと、約3800年前に水害で死んだために、いまだに水が怖いんだそうです。この調子で成長するとしたら、魂が完成するまであとどれだけ時間をかければいいのでしょうか。
私たちはもしもやり直すことができたら、同じ過ちは繰り返さないと考えがちです。しかし人間は愚かであり、弱いものです。同じ失敗をしては同じ後悔をすることをくり返すのではないでしょうか。人間は経験から学ぶことができないようです。
まして前世の記憶が全くないのだから、生まれ変わったとしても、一から学び直さなくてはいけません。86回生まれ変わったぐらいでは成長できないのももっともです。
②苦難は人を成長させるか
そもそもどんな苦難であろうと、苦難はすべて人間を成長させるものでしょうか。
苦難はたしかに人間を成長させることがあります。しかし、ある程度以上の苦しみは人間を損なってしまいます。
たとえば児童虐待です。虐待を受けた人は成人してからも自己評価が低く、ウツに苦しみ、対人関係を作ることが下手で、突然怒りが爆発することがあります。さらには自分の子供を虐待することさえあると言われています。
あるいは原爆で一瞬のうちに死んでしまった何万もの人たち、ナチスの強制収容所ですぐさまガス室送りになった何十万人の人たちはどういう成長を遂げたのでしょうか。その苦しみについて考えるだけの余裕はなかったと思います。
③私以外の存在は私を成長させるための道具なのか
「人生が修行の場であるならば、なぜ幼くして死んでしまう人たちがいるのだろう。その人たちには、それ以上この世で生きながらえて、成長する必要がありません。なぜなら、自分たちの死が、両親の成長を早める材料になっているからです。」
つまり、死んだ子供は親が成長するための材料ということです。子供だけではありません。他人はすべて私が成長するための材料、道具、手段ということになります。他人の苦しみも、私を目覚めさせ、教えるためだというわけです。
それにしても「材料」という言葉をこんな意味で使うとは、あまりにも無神経だと思いませんか。
「すべてのことには意味があり、自分の人生は、自分が自分に与えた問題集であること、そして自分を取り巻く人々は、愛してくれる人も、敵対している人も、みな理由があって自分の成長のために存在してくれていることを知った時、私たちの人生観は大きくゆさぶられます。」
すべての人、すべてのもの、すべての出来事は、私が「成長するために存在してくれている」とはなんと私中心の世界観なんでしょうか。世界には私しかいないかのようです。
4,金儲けということについて
本を売る、講演をする、こうしたことで金儲けをするのはまだ許されるかもしれません。世の中にももっと変な本がありますし、おかしいことを言っている人はいるのですから。
しかし、催眠術によって前世の記憶を思い出させるという退行催眠を勧めるのはどうでしょうか。
「日本には、国家が認定した公式な催眠療法など存在しないので、「催眠療法による生きがい療法」も、実は、ほかの催眠術師が手がけているのと同じ民間療法の一つにすぎないのである。退行催眠を通じて結託した奥山と飯田は、言うまでもなく正規の教育や訓練を受けた催眠療法の専門家ではない。 それでも、数多くの患者を集めている。無資格者同士が鎬を削り合う世界では、たとえ専門外であっても「医師」や「大学教員」の肩書があれば、治療の中身は二の次なのかもしれない。」(福本博文『ワンダー・ゾーン』)
催眠療法の危険性については近年特に注目されています。たとえば催眠によって子供のころまで記憶を遡ったところ、父親から性的虐待を受けたとか、父親が人を殺すのを目撃したことを思い出したという事例が多くあります。
しかし、それは実際にあったことではなく、術者の暗示によってそういう物語が作られたにすぎません。
いわれない罪に問われた親たち、またこのために二重人格になってしまったクライアント、いずれも安易に催眠療法を行ったための被害者です。
催眠療法をするにはそれまでに何度もカウンセリングをくり返し行い、催眠療法の危険性をきちんと説明した上で行われるべきです。
それなのに、初診の方にすぐさま退行催眠を行う奥山医師は医の倫理に反すると言えるのではないでしょうか。単に金儲けのためとしか思えません。
「たとえ効果がなくても二時間三万円を徴収すると宣言しているのに、それでも患者からの予約電話は鳴りつづけている。」(福本博文『ワンダー・ゾーン』)
『生きがいの創造』の問題点をもう少しあげてみます。
1,生まれる前から未来が決定している
「これらは、すべて生まれる前に計画ずみのこと」
と飯田史彦は言っています。
どういう人生を送るかを自分で選ぶわけですから、生まれる前からどういう人生かが決まってしまっているわけです。つまり未来はほぼ決定していることになります。
たとえば、両親が離婚する、交通事故にあって半身不随になる、親に虐待されて殺されるなど、あらかじめ決まっていることになります。
2,カルマの法則
飯田史彦は、苦難は生まれる前に決めた課題によって遭うばかりではなく、前世で悪いことをした報いとして苦しむことがあると言っています。
たとえば夫を亡くして悲しむ女性は、三千年前マヤ文明の指導者として多くの人をいけにえにしたことの報いとして、夫の死別を悲しんだそうです。
「かつて自分が他人に与えた「死別の悲しみ」という試練を、今度は自分自身が味わうことによって、他人への同情心をつちかう計画を立てていたのである。」
こういうことをまともに信じると、
「私は以前、友人の事業の応援や、連帯保証人になったため、実質二千万円近いお金を失ったことがあります。その時、その人たちを恨む気持ちにはどうしてもなれずに、もしかして前世の因縁によるかも……という思いが、漠然とですが感じられたのです。」
というふうに、いわれのない罪の意識に苦しむことになります。
しかし飯田史彦は、
「彼女に借金という試練を与えた人たちでさえも、感謝の気持ちで許すことができた時、彼女は確かに、成長の階段を一歩のぼったのです。」
などと言うんですから困ったもんです。
もっともカルマの法則を言っている人はすくなくありません。たとえば江原啓之です。櫻井義秀『霊と金』に、江原啓之『日本のオーラ――天国からの視点』の視点を次のようにまとめてあります。
①同性愛者には人を差別してきたカルマが見える。だから差別を受けることでカルマの法則を学ぶのではないか。
②アメリカの9・11テロも広島の原爆もカルマの法則で捉えられる。奪ってきたものがあるから、奪われる。戦争という形で魂の浄化が果たされる悲劇がある。
③社会貢献や慈善事業はカルマ落としになる。国税も稼いだ人に国がカルマ落としをさせるようなもの。
これも無茶苦茶ですよね。
3,生まれ変わりと死後の世界との矛盾
亡くなった人と会うためには、その人が生まれ変わるまでの間に死なないといけません。
となると、生まれ変わるまでの時間、つまり死後の世界にどのくらいとどまるのかが問題となります。
「最短で十ヵ月、最長で八百年以上、平均で四十年。ただし、肉体にやどらないでいる期間は、過去数百年のあいだに確実縮まってきており、短期間の休養で次々に生まれ変わらなければならなくなっている。
近代では、数年から十数年、二十数年で生まれ変わることが多いようである。」
ということで、死後の世界で再会するためにはなるべく早く死なないといけないのかもしれませんね。
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