「生まれ変わり生きがい論」批判 4

 3,今をおろそかにしてしまう

 生まれ変わりを何度もくり返すというのなら、一度や二度の失敗は大した問題ではないことになります。やり直すことができるのですから。
 しかしそれはまた、この生、そして死というものが軽いものになりはしないでしょうか。たとえば、コンピューターゲームで、主人公が死んでもリセットしてやり直すのと同じことです。今回は課題をうまくクリアできなかったけど、次にはがんばろうみたいな感覚です。

 森達也『
』『A2』というオウム真理教の信者や地域住民を取り上げたドキュメント映画の中で、ある信者が「我々は100年単位ではなく、1000年、2000年の長いスパンで考えているんだ」ということを言っていました。
 100年、つまり人間の一生だけで考えると、人を殺すことは悪いことになりますが、生まれ変わりを何度もくり返すという長い視点で見れば、殺人もその人のためを思ってしたことになる、というわけです。

事件は救済であり、グルのマハームドラー。輪廻を見据えた長いタイムスパンでの計画」(『オウムをやめた私たち』)

 そして、この世での今この時の生よりもあの世(天国、中間生)での生を重く見るならば、この世での生は軽んじられます。
 たとえばエホバの証人が輸血を拒否するのは、たかだか100年の命よりも、いつかおとずれる最後の審判、そしてその後に続く天国での永遠の生を選ぶからです。

 あるいはこういう例があります。

1986年、真理の友教会という宗教集団の信者である女性七人が、病気で亡くなった教祖の後を追うように集団で焼身自殺した。彼女たちの生活は教祖のそばに仕え、教祖の地上での仕事を助けるのが役割だとされていた。真理の友教会の教えによれば、人間のほんらいの住処は天国であり、この地上へはなんらかの役割を与えられてきているのである。死はその役割が終わったことを意味した。」(芹沢俊介『オウム現象の解読』)

 人は役割を持って生まれ、役割を果たして死んでいく、という真理の友教会の教えは、飯田史彦の「生まれ変わり生きがい論」と同じ構造です。

死は地上での仕事の終わりを意味するのです。真理の友教会の理念では、死はちっとも大きな意味をもたないのです。帰るべき天国と遣わされて仕事の役割を終えた地上との間をつなぐ位置、地上と天国とをつなぐ点のような役割しか与えられていません。」(芹沢俊介オウム現象の解読

 この考えだと、死というものは次の生への通過点、ある部屋から別の部屋へ移る扉のようなものにすぎません。

 しかし、反復不可能な一回限りの生だからこそ、今を大切に生きるということがあるのではないでしょうか。
今日ばかり おもうこころを わするなよ さなきはいとど のぞみおおきに」(「蓮如上人御一代記聞書」)
 いつまでも命があると思っていると、今という時をおろそかにしてしまうといういましめの歌です。

 ヴォルテール「
カンディード」は、主人公のカンディードがさまざまな苦難に遭いながら旅をし、最後に
何はともあれ、わたしたちの畑を耕さねばなりません
と、今しなくてはいけないことを大切にするという言葉で終わります。

 死後の世界(天国)や生まれ変わりを強調すると、今を生きることをおろそかにすることになりかねません。

4,成長ということについて

 『生きがいの創造』やスティーヴン・T・デイヴィス編『
神は悪の問題に答えられるか』を読んで感じるのは、人間は成長するものであり、成長するということが善だという前提です。この前提は正しいのでしょうか。

@人間ははたして成長しているのだろうか
 かりに人間が生まれ変わりをくり返しながら成長しているとしても、現実を見るならばさほど成長しているようには思えません。
 もしもそうならば、釈尊やイエスの教えは過去のものとして葬り去られているはずです。歴史を学ぶ必要もありません。

 『生きがいの創造』を読むと、人間はいかに成長しないかがよくわかります。そのいい例が、
マスターたちは、私が肉体を持って86回生まれていると言っています。
と語る女性です。
 この女性は86回も生まれ変わったのだから、さぞかし成長しているかというと、約3800年前に水害で死んだために、いまだに水が怖いんだそうです。この調子で成長するとしたら、魂が完成するまであとどれだけ時間をかければいいのでしょうか。

 私たちはもしもやり直すことができたら、同じ過ちは繰り返さないと考えがちです。しかし人間は愚かであり、弱いものです。同じ失敗をしては同じ後悔をすることをくり返すのではないでしょうか。人間は経験から学ぶことができないようです。
 まして前世の記憶が全くないのだから、生まれ変わったとしても、一から学び直さなくてはいけません。86回生まれ変わったぐらいでは成長できないのももっともです。

A苦難は人を成長させるか
 そもそもどんな苦難であろうと、苦難はすべて人間を成長させるものでしょうか。
 苦難はたしかに人間を成長させることがあります。しかし、ある程度以上の苦しみは人間を損なってしまいます。

 たとえば児童虐待です。虐待を受けた人は成人してからも自己評価が低く、ウツに苦しみ、対人関係を作ることが下手で、突然怒りが爆発することがあります。さらには自分の子供を虐待することさえあると言われています。
 あるいは原爆で一瞬のうちに死んでしまった何万もの人たち、ナチスの強制収容所ですぐさまガス室送りになった何十万人の人たちはどういう成長を遂げたのでしょうか。その苦しみについて考えるだけの余裕はなかったと思います。

B私以外の存在は私を成長させるための道具なのか
人生が修行の場であるならば、なぜ幼くして死んでしまう人たちがいるのだろう。その人たちには、それ以上この世で生きながらえて、成長する必要がありません。なぜなら、自分たちの死が、両親の成長を早める材料になっているからです。」

 つまり、死んだ子供は親が成長するための材料ということです。子供だけではありません。他人はすべて私が成長するための材料、道具、手段ということになります。他人の苦しみも、私を目覚めさせ、教えるためだというわけです。
 それにしても「材料」という言葉をこんな意味で使うとは、あまりにも無神経だと思いませんか。

すべてのことには意味があり、自分の人生は、自分が自分に与えた問題集であること、そして自分を取り巻く人々は、愛してくれる人も、敵対している人も、みな理由があって自分の成長のために存在してくれていることを知った時、私たちの人生観は大きくゆさぶられます。

 すべての人、すべてのもの、すべての出来事は、私が「成長するために存在してくれている」とはなんと私中心の世界観なんでしょうか。世界には私しかいないかのようです。


4,金儲けということについて

 本を売る、講演をする、こうしたことで金儲けをするのはまだ許されるかもしれません。世の中にももっと変な本がありますし、おかしいことを言っている人はいるのですから。
 しかし、催眠術によって前世の記憶を思い出させるという退行催眠を勧めるのはどうでしょうか。

日本には、国家が認定した公式な催眠療法など存在しないので、「催眠療法による生きがい療法」も、実は、ほかの催眠術師が手がけているのと同じ民間療法の一つにすぎないのである。退行催眠を通じて結託した奥山と飯田は、言うまでもなく正規の教育や訓練を受けた催眠療法の専門家ではない。
 それでも、数多くの患者を集めている。無資格者同士が鎬を削り合う世界では、たとえ専門外であっても「医師」や「大学教員」の肩書があれば、治療の中身は二の次なのかもしれない。
」(福本博文『ワンダー・ゾーン』)

 催眠療法の危険性については近年特に注目されています。たとえば催眠によって子供のころまで記憶を遡ったところ、父親から性的虐待を受けたとか、父親が人を殺すのを目撃したことを思い出したという事例が多くあります。
 しかし、それは実際にあったことではなく、術者の暗示によってそういう物語が作られたにすぎません。
 いわれない罪に問われた親たち、またこのために二重人格になってしまったクライアント、いずれも安易に催眠療法を行ったための被害者です。
 催眠療法をするにはそれまでに何度もカウンセリングをくり返し行い、催眠療法の危険性をきちんと説明した上で行われるべきです。

 それなのに、初診の方にすぐさま退行催眠を行う奥山医師は医の倫理に反すると言えるのではないでしょうか。単に金儲けのためとしか思えません。

たとえ効果がなくても二時間三万円を徴収すると宣言しているのに、それでも患者からの予約電話は鳴りつづけている。(福本博文『ワンダー・ゾーン』)

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