善か悪か



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事の善悪について
人が一般的に持っている感覚とはちょっと離れた記述が聖書にはある
その意味するところは何なのか
長年の疑問を、昨年思い切って大先輩の先生に尋ねてみたところ
なるほどと思えるヒントを頂くことができた
これはルカによる福音書16章の1節から始まる例え話だ

*****

あるお金持ちの主人に雇われている支配人の不正経理が発覚した
主人は彼に会計報告の提出を要求するとともに、解雇通告をする
クビになると知った支配人は今後の自分の身の振り方を心配する
「どうしよう、土を掘るには力がなく、物乞いするのも恥ずかしい」
(↑このセリフは実にリアルだ)
そこで彼はある案を思いつく
この主人はお金持ちなのでたくさんの人々に貸しがあった
それで支配人はその負債者たちを呼び集めて
彼らの借用証書の負債額を勝手に減額する不正処理を行ったのだ
こうすることで支配人は負債者たちに恩を売り
職を失ってからは彼らがきっと助けてくれるだろうともくろんだわけだ
ところが、この不正な支配人の利口なやり方を主人は誉めた
そして更にこう続く
「不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい
そうすれば、富がなくなった場合、あなたがたを永遠の住まいに迎えてくれるであろう
小事に忠実な人は大事にも忠実である
そして、小事に不忠実な人は、大事にも不忠実である
だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら
だれが真の富を任せるであろうか」

*****

人間的な常識で考えれば
利口というよりも汚いやり方だと思える方法を主人は誉めた
聖書の例え話に出てくる「主人」とは神の雛形だ
だからここではこのやり方を神が誉めているということなのだ
なぜ??・・・うーん、、、さっぱりわからん・・・・
というわけで長年放置してきたわけだが
ある先生からのヒントで、一気に光が見えてきた

〜以下、ヒントとなる話の概要〜
ここでポイントとなるのは「不正の富」という言葉だ
お金そのものは無機質なものだから
「きれいなお金」も「汚いお金」も本来お金としての区別はない
お金がきれいになったり汚くなったりするのは
あくまでも使い方によって人が感じる主観によるものだ
むかし戦後間もない時代には、いわゆる闇市というものが存在しており
そこでは常に不正な売買が横行していた
人間的に考えれば、不正な手段で得るお金は汚いお金ということになるだろう
ところが、その汚いお金なくしては多くの人々は生きることができなかった事実がある
不正は不正だとわかっているが
きれいごとだけでは人は生きていけない
そんな汚いお金は要らないと断るのは格好はいいけれど
本当に生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされたら
たとえ不本意であっても、生きるために汚いお金を手にすることは
仕方のないことだろう
実際に自分がその立場になったらと考えれば
誰もそれを責めることはできない

ここで先ほどの聖書に戻ってみる
職を失った支配人は自分が生きていくために不正を行った
この時の彼自身の本心は
多分、ただ自分が生きることだけを考えていたのであろうが
結果的にはたくさんの負債者を助けることとなっている
つまり、自分も生き、負債者も生きる「全員生存の道」を選択したわけだ
ここで一番損をするのは主人だが
元々お金持ちなので損をしたとて大したダメージはないと思われる
(何と言っても支配人のやり方をほめているくらいだ)
一見汚いやり方に見えるこの不正劇
どう見ても善人とは思えない支配人ながら
最低限みんなが生きるためのポイントを押さえているところに
「小事に忠実」との評価があるのだろう
とりあえずはみんな生きなくてはならないのだ

もし支配人がもっと利己的な方法を選ぶなら
たとえば主人のお金を奪って逃走するとか
あるいは別の人々に対して罪を犯すかもしれない
また、みんなが生きるどころか
自暴自棄になって人を殺し、あるいは自分も死んでしまう「全滅の道」もある
生きることは、命を与えられた人間に課せられた義務だが
その義務を果たすための行為を
人間的な思いだけで善悪の判断を下すのは難しいと思う
これは神の領域だ
そして、それが正しいのか正しくないのかは
その後の結果として必ず現れてくるだろう

不正の富によって生かされた支配人はその後どうなっていくのだろうか
無意識のうちにも最低限の「小事に忠実」であった彼は
やがてその心が変えられて「大事にも忠実」となる可能性を秘めている
その道筋は「永遠の住まい=天国」に通じるものだ
そこではもう「富」に左右されはしない

聖書は本来「罪びと」「病める人」のためにあるものだがら
どうしようもない程(人間的に)最低の状態からでも
どう変わっていくのかは未知数だ
そんなのは人が勝手に図れるものではないだろう

聖書の(キリスト教の)イメージというのはどうしても「きれいごと」が先立ち
偽善的だと思われている傾向がある
ところが、聖書は実に現実的だ
神は人間の心の中をすべてお見通しなのだから
いろんな意味で清く正しい人間など最初から期待されてはいない
だから聖書の本質を知っている人は安心するのだ
自分にも生きていく道があると

人間の行為には
一見悪いことのようで、実は人を生かすものもあれば
いかにも良いことを言っていても、口だけで人が生きない場合もある
どちらを選ぶかと聞かれれば
とりあえず口だけの偽善者にはなりたくないと思うのだった



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