善か悪か



<4>

つい先日のこと、夫と話をするうちに
“そんな時代もあったねと、いつか話せる日が来るわ”・・と
お互いが中島みゆきの歌を思い出して思わず苦笑した

今思えば、あの頃わたしたちを悩ませた喧騒は何だったのだろう
最も殺伐とした時代からすでに16年が経ち
考えることも思い出すこともしたくないと無理やりふたを閉じた記憶も
今はまるで第三者のような目で冷静に見ることができそうな気がする

誰かの正義のために、別の正義が犠牲になる
そういう理不尽な現実が世の中にはしばしばある
これは戦いの原理だ
戦いとは、お互いが守りたいものを守るために
そして、その守りたいものが違うために起こるもの
この場合、どちらの正義も互いにとって正義であり
相容れることもなければ
引いた方が負けて悪となる
だから負けたくなければ自分の正義を真と信じてとことん戦うのだ
それによってどんなに犠牲が出ようとも
犠牲が増せば増すほど
これまでの犠牲に報いるべく戦いは更に熾烈になる

16年前はちょうど暗黒の介護時代の真っ最中でもあり
夫もわたしも心身ともに疲れきっていた
そこへたたみかけるように次々起こる理不尽な出来事
それでもきっと夫が助けてくれるだろうと期待する一方で
それまで正義だと確信していたことが通用しない現実に
一体何が正しくて何が間違っているというのか
わたし自身は思考が混乱状態になっていた

正義が勝つなんて嘘なのか・・

そう思ったわたしには
たとえ勝ち目はなくとも
徹底的に戦うことしか考えられなかった
黙って屈辱の中で生きるよりは
後先考えずに自爆した方がずっとマシだと思えたのだ
当時はまだ若かったし
どこまでも正義を振りかざしていけば
きっと神さまが味方してくれるはずじゃないか
そうじゃなくちゃおかしいじゃないの?!と
まるで天に向けて問い詰めるような思いでもって
わたしは夫も一緒に戦ってくれることを強く望んだ

ところが意に反して夫は全く戦おうとしなかった
一度だけ与えられた弁明の機会もただ淡々と事実を述べたのみで
攻撃をかけるようなそぶりも一切なし
その余りに冷静なやりとりに拍子抜けしたわたしは
燃え盛る怒りの炎を消火器で消されたように
ただ沈黙せざるを得なかったのだった

「話の通じない相手とは戦わないで距離を置く」
それが夫の鉄則だ
夫は普段、自分にしか関わりのないことであれば
理不尽な事柄について毅然と対応し
自らがどう思われようが恐れることもなく戦う人だ
実際に2、3年前、繁華街で突然意味もなく若い男に殴られた時も
間髪入れず殴りかえして追っ払っている
しかし
どんなに心のそこから怒っていても
後先考えずに無茶な行動することはまずない
怒れば怒るほどいよいよ冷静になるところがわたしとは全く反対だが
それでももし無茶をすることがあるなら
それは後の結果まで冷静に見極めた上で絶対必要と感じ、確信的にやっているのだ

子どもの頃から理不尽な思いをする経験を積んできた夫は
ただ正義感だけで世の中が渡っていけるなど
そんな甘い考えは持っていない
わかりあえない相手とはどこまでも平行線のままだ
例えこちらが誠意をつくしたとしても
その誠意に感動して相手が改心するなんて滅多にあるもんじゃないし
向き合うだけで毒ガスを発生する「まぜるなキケン」の組み合わせもあるだろう
わたしはこの辺の認識が甘すぎた

「話の通じない相手とは戦わないで距離を置く」
それはいつしかわたしの鉄則にもなっていった

今思い返してみてもあれは本当に変な時代だった
人生なんでもありだなとしみじみ思う
だから、今は何があってもあまり驚かなくなったし
自分が理解されようとも思わなくなった

あの頃のわたしは
多分「負けること」が悔しかったのだと思う
本当にたくさんの負けを経験してきたけれど
ではそのために具体的に何を失ったのかと考えてみれば
当時わたしが恐れていたようなことは何も起こらず
守るべきものはみな守られ
結果的には何も失ってはいなかった
失われたものがあるとすれば
それはわたしのプライドくらいだろう

何はともあれ
夫もわたしもこうして今も生きている
いや、生かされていると言った方が正しい
そうでなければ今の平穏な日々は何だろうか
そして、この事実がすべての答えだ
あの時信じていた正義も
また選んだ道も間違ってはいなかった・・と

あれからすでに長い年月が過ぎ
人間的な意味での名誉の回復の折はすでに失われた
では、あの無茶苦茶な出来事をすべて許したのかといえば
そんなことはないと思う
だからといってその恨みのために一歩も進めないようなこともない
ただ漠然と心に残るのは
ひとつの「時代」を確実に越えたという実感だ

普段どんなに立派な発言をしていても
いざという時の行動で人の評価はなされるものだ
表向きの良い人も、事と次第によっては豹変し
善人が一転して殺人者にもなる
これが人間の現実の姿だ

あの理不尽な出来事に対してどうして夫が戦わなかったのか
以前その答えを求めた時、夫は言った
「多分、臆病だからだろうよ」
その返事があまりに“夫らしくない”じゃないかとわたしは思ったが
大切なものを失わないために
臆病である必要は確かにあると納得する
臆病であるうちはとりあえず間違いを犯さないから

一方で
“勇気と自殺行為は違う”
そんな言葉が頭をよぎる
誰も守れない、何も生み出さないような特攻なら
ただ犠牲が重なるだけだ

生きるということは決してきれいごとではない
だから辛いのだ
現実を見ることも、冷静に分析することも・・
それでも、直視しなければ生きてはいけない
あまりに美しくない現実であったとしても、だ

2で引用した聖書のみことばに登場するあのあくどい支配人の姿は
この現実の中でもがきながら生きる人間のひな形なのだろう
彼は自ら起こした横領事件で主人から解雇されることになった
だが、彼がそうするに至った背景や心情は定かではない
今の時代にあってもさまざまな事件がある
「欲に目がくらんだ」「魔がさした」「ああするしかなかった」と
常識的には受け入れられない理由でもって人は簡単に道を踏み外す

そんな支配人が自ら生きるために次に選んだ方法もまた不正であった
そして、その支配人の不正行為によって助けられる負債者たち
更にそれを良しとする主人
彼らの間に成り立つ不思議な均衡
何が善で何が悪なのか、そこには人間の常識を超えたものがある

実際にわたしたちは食べ物にしろ環境問題にしろ
みな他の何かを犠牲にしながら生きている
そんな人間に100パーセントの善人などいるはずがない
この世は不思議なバランスの上に成り立っているけれど
誰かが押し、誰かが引いて均衡が保たれている
引いた者が単純に負けなのではない
そこはただ単に損得だけでは計れない世界でもある

普段、教会に持ち込まれる相談事の大半は人間関係だ
「わたしは間違っているでしょうか?!」
そう問いかけてくる人のほとんどが
「いいえ間違っていませんよ」との答えを切望している
だが、その最終判定は神の領域だ
ならばわたしたちにできることは
燃え上がる怒りの炎で自滅する前に消火器を使うことだろう

怒りの祈りは呪いに近い
持てる力をふりしぼって怒りに集中するところには
少なからず“悪意”が介入しているのが見える
それに当人は気づかないのが怖い
人は一見冷静に見えても、ひとたび感情をつつかれると一気に崩れるから
悪意に対抗するには知恵の言葉が必要だ

いざという時に潔く引ける人には安心感がある
「この人なら大丈夫」
お金で買うことのできない信頼とか人望とかいうものは
そういうところから培われるのだろう

事の善悪を追求し始めたら、もう何が何だかわからなくなる
神の領域に人間が勝手な答えを出すわけにも行かない
しかし、答えは遅かれ早かれ必ず出る
それを待ち望み、真摯に受け止めて行きたいと思う



   <3へ     おわりにへ>



<戻る