-西中国キリスト教社会事業団と歩んだ道-

  • 事業団の歴史を学ぶ
  • 2015年度教会のあゆみ
  • 教会活動総括案
  • Ⅵ.教会活動総括案
  • 事業団の歴史を学ぶ

    広島西部教会牧師 山根眞三

    • 西中国キリスト教社会事業団の歴史について考えることが求められましたが、私は歴史的視点を殆ど持ち合わせていないので、 所謂ウィットネス・証人としての発題をすることで許していただきたい。
      事業団の歴史について考えなければならないのは部落解放への取り組みから始まったと言って過言ではありません。 事業団の定款を見つめることから始めなければならないでしょう。定款には第1条目的として、 キリスト教信仰にもとづき以下の事業を行うとあります。この表現はとても大切なところです。教会の幼稚園の殆どは キリスト教精神にもとづきと記されているはずです。
      事業団の歴史は広島キリスト教社会館の始まりから知っておかなければならないでしょう。詳しくは林さんから発表されるのでしょう。

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    戦後多くの教会が被爆から立ち上がることに精一杯であったことは事実です。 そのような状況の中、アメリカのメソジスト教会から派遣されたメアリー・ジョーンズさんは部落差別そのも のについて深い理解があったわけではないのですが、日本で大変深刻な差別状況にある被差別部落の人々、地 域へ、差別そのものへの厳しい洞察力と福音の力から得られる愛と奉仕のミッションを受け、被その働きを始 めました。その働きは保育事業、学童保育にとどまらず、日常生活全般へと広められておりました。所謂セツ ルメントのような働きが社会館を通して行いました。それらを記した看板がしばらく保存されていたのですが 、今はないようです。  広島市内の教会はそのような社会館の活動を支えることで、宣教の重要な働きである人権への活動に具体的 に参与することができるようになったのです。  戦後教会はキリスト教ブームに乗っかって様々な活動を展開するようになりましたが、残念なことに部落解放が 教会にとっての大切な課題とはなっていませんでした。そのようなキリスト教界の現状の中で、福音によ る人権の回復、人権の確立を教区の課題として歩んでいた西中国教区は社会館の働きを教団に知らしめていくこ とになったのです。その当時の働き人は、館長がトムソンさん、福島町伝道所の牧師として東岡山治さん、事務 職員として蛯江紀雄さんがおられました。蛯江紀雄さんの存在がその後の清鈴園建設と運営に大きな意味を持つ ことになります。その後東岡さんは転任されて行かれました。東岡さんの後任に長島伊豆男さんが赴任されました。 当初は被差別地域で宣教されることの意味を東神大の学報に掲載されておられました。そこに記されていた召命感は ある意味で正しく評価されなければならないと思っています。 ただ、この文章の一部の表現が問題となり、長島さん・福島町伝道所と社会館との距離感が出てくることになりま した。

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    東岡さんはこの状況に厳しい批判を提示され、ひとり社会館の問題だけではなく、教区がきっちりとした問 題意識を持たないでいた結果なのだとの批判をもされました。これを機に、社会館で『部落解放を目指す会』が月 に一度設けられることになりました。社会館の活動を考え、水曜日の夜にしたのですが、多くの教会が定期集会が あると、即ちこのことで定期集会を月に一度変更するという努力もなく出席者は10名前後でした。牧師の参加はい つも2~3名程度でした。さらに教区では年に一度部落解放を目指す会が社会館で持たれました。現在の現場学習 会に続くものです。 福島町伝道所が社会館から出ていくまでは、伝道所と社会館は車の両輪のような働きをしていました。広島西分 区では伝道所が社会館と共にある間、牧師館の家賃援助として福島町伝道所を支える献金を集めていました。分区 内の教会は伝道所が部落差別に積極的に関わる働きのフィードバックのようなものとして積極的に献金をしていまし た。この献金が現在の伝道協力資金の前身となっているのです。また、一時は伝道所からも部落解放についての働き の一環として、部落での活動を報告してくださっておりました。残念なことに伝道所は社会館から出ていかれて社会 館に委ねられていたと思われるミッションの一部が欠落していったと思います。それまで館長としてトムソンさん、 梶原さんと牧師でない人が担っておられましたが、牧師が館長を担うことが努力されるようになったのです。宗像館 長が牧師として館長としての働きを展開されました。現在の社会館のそのような機能は西島牧師が主事として担っておられるようです。  1968年第15回教団総会は清鈴園建設を教団として決議しました。鈴木正久著作集の中にも記されているこ とですが、当時鈴木議長は第二次世界大戦下における日本基督教団の戦争責任を議長名で告白さ れました。鈴木議長は戦争責任の具体的な行動の努力をはじめられました。その一環として鈴木議長は被爆地である ヒロシマの訪問を求め、西中国教区の杉原さん、岩井さん達に連絡され、杉原さん達は高齢の韓国人被爆者や被爆高 齢者達のところに鈴木議長を案内されました。その案内において鈴木議長は杉原さんをはじめとして同行の人々に、「 あなた方が案内してくれた被爆孤老の方々はどのように配慮されているのですか」と、衝撃的な問いを出されたそうです 。それは教区内で一度も考えられ、議論もされたことのない課題だったからです。鈴木議長を東京に送り返された後、教 区ではそれを戦績告白の具体化として取り組むことを考えられました。その運動を「鈴木議長の名にちなんで、大きな鐘 を鳴らせなくても、小さくて清い鈴の音を鳴らす運動としてヒロシマに原爆孤老ホーム建設のための清鈴園運動」と名付 けられました。

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    この運動を具体的に展開することになりました。1968年の教団総会で教団としての運動と決議さ れたのですが、この総会で決議されたもう一つが万博キリスト教館への出店でした。これが後に大きな問題と なりましたが、今回のテーマではありませんので割愛します。1969年7月14日鈴木議長永眠。  清鈴園を建設するにも具体的な建設場所、土地をどうするかが大きな問題でした。常置委員の河村虎太郎先 生が廿日市の奥に所有しておられた土地をご寄付くださることになりました。清鈴園が廿日市の山にある理由 です。そのような土地ですから借財の大きな担保にはなりません。その担保として提供されたのが社会館の土 地でした。当時広島西部教会に三井銀行の方がおられ、建築のための借り入れが実現しました。清鈴園建設の 運動は単なる原爆孤老ホームを建設するためのものではありませんでした。若い私は清鈴園運動のこのモティー フに心から感動しました。 清鈴園を建設することは、西中国教区の平和運動そのものであると。建設後は将来 的に清鈴園のそばにピースセンターを建て、そこに平和についての資料を収集するという将来像をすら描いて おりました。 若い私は、その清鈴園についてのある種の壮大な計画に圧倒されていました。建築後園長は蛯江 紀雄さんが就任しました。彼は清鈴園に込められた祈りと思いを実現するために大変な努力を払われました。広 島の否日本の老人政策をリードするほどの高い理想を抱いていました。事実、清鈴園から発する情報、実践は広 島のまた日本のそれをリードするほどのものとなっていきました。  清鈴園が完成後、全国から若干の疑義がよせられました。それは、清鈴園は被爆孤老のための老人ホームの建設 と謳われていたのですが、完成後実際に認可されたのは、所謂老人ホームだったからです。当時の厚生行政には原 爆孤老という特定の老人を対象とする法律はなく、現在広島市で運営されている被爆者に特定されたホームも後に 特別行政措置として誕生したもので、清鈴園は時代の先を走っていました。  清鈴園が完成後課題となったのが運営委員会でした。個々の施設の委員会は独立し、ほぼ理事会機能を持つも のとして考えられました。清鈴園運動を支える会は本来、清鈴園の運営等を支えるための後援会だけではなく、清 鈴園運動-そこには将来的にはピースセンターの建設・平和関係資料の収集というものがあって、しかも教団総会 で承認された全国展開の委員会でしたので、当初は潤沢な献金が集まっておりました。このようにして、ある安定 した事業団の運営が進んでおりました。  そのような中、ロバート・マクウィリアムスさんと周防教会は、身体障碍を持った方が自分で生活する場を提供 したいと、亀の里を建設しました。これは有志ボランティアによって建設されたものです。

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    兎のように速く走れなくとも、亀のように一歩一歩の歩みを大切にしたいと名付けられたものです。障碍を持った 方々の一歩一歩を大切にしようとしたものです。現在の亀の里の前身となります。当初は事業団の定款にも謳 わず、独立したものとしておりました。この後援会は当初兎の会と言われておりました。事業団の活動を広く すすめるいったんとなりました。  清鈴園の蛯江紀雄園長への地元の信頼が厚く、廿日市高齢者ケアセンターの建設へと進んでいきました。ケ アセンターの建設は事業団の事業が飛躍的に拡大していくことになりました。大変大きな規模の高齢者ケアセ ンターでしたが、清鈴園委員会はそれをも含めて清鈴園委員会が運営については責任を持つことにしました。 働き人の数から言えば二つの委員会にするのは難しいので妥当な結論だったのでしょうが、私 はその方針には同意しかねましたが、それはなんとかの遠吠えにしか思われませんでした。 事業団の働きが進んでいく中、後援会の資金収集の差が現れ、特に保育所と学童保育の活動しかない社会館は いつも大変金銭的に切迫した状態でした。保育所のボーナスを支給できない状況だった時、めぐみ幼稚園はま だ順調だった時代に、立て替えをしなければならないほどでした。嘘のような話です。そのような状況を打開 すべく、各施設の経理規模にあわせて融資金制度を作成し、それらを積み立てて、経理がショートしそうな時 には融資金会計から借り入れる制度を新設したのですが、私が理事を辞めている間にその制度は廃止されてし まいました。その理由はよく分かりません。その時代から、各施設委員会の調整役程度でしかなかった理事会 の権限が現在のように強くされ、事業団全体を一体化した経営が必要だと言われるようになりました。 私が昔、社会館委員長をしていた頃には、杉原さん、藤田さんと当時の教区のあまり表現はよろしくありませ んが、重鎮だった人は社会館委員、清鈴園委員を兼務して横断的な委員会活動をしておられました。残念なが ら最近は、事業団を一体化して見渡す人が殆どいなくなってしまいました。 そのような中で、学童保育と保育所だけでは社会館の経営が近い将来行き詰まってしまうだろうと、蛯江紀雄 さんから意見を伺いながら、社会館も高齢者介護等の働きに打って出ることにしました。学童保育の中心的な 働き人である林さん、萱嶋さんにそちらで働いてもらうことにしました。かりんがそれです。それはある程度 あたり、財政の厳しい学童保育を継続し続けることができました。ただ少し残念なことは、林さん、市川さん 、谷田さん、萱嶋さんが展開していた時代の社会館の解放意識と若干のズレがあるように思える点にあります 。

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    社会館から牧師、あるいはキリスト者の働き人がいなくなった後も、西嶋牧師が福島町伝道所と車の両輪の ように進めてきた社会館現場の動輪を肩代わりしてくださっているように思います。 さて、さらに澄田さんが益田教会に赴任され、彼はねむの家の設立に努力されました。 当初澄田さんはその運営は益田教会及び地域で独立的にやって行くといわれましがた、 そうはいかないことになりました。社会館で長い間大変良い働きをしておられた高橋し おじさんがねむの家の事務を引き受けられ、事業団一体への道がそなわったものと思っ ています。 これらのように事業団の根底には徹底した福音による人権への配慮が根底に流れており ました。社会館で言えば部落差別をはじめいかなる差別をも許さない。清鈴園では戦争 責任具体化そして平和への飽くなき希求としての高齢者介護等、亀の里は障碍を持った 方が普通の社会で生きることが出来るノーマライゼーションの徹底した実現等。残念な がら現在の事業団の経営理念から、それらの哲学、神学が欠落してしまったように思え てなりません。蛯江紀雄さんがあれほどの働きをすることが出来たのも、それらの哲学 ・神学を支えとしていたからだと思っています。また、牧師たちも現場を理解するよう にして、蛯江紀雄さんを支えたものでした。私が事業団の監事の時は、施設長には必ず 教会に行くことを求めました。その事業団の現場である社会館から福島町伝道所が出て いき、牧師の働きをする人がいなくなりました。また、清鈴園から蛯江さんがいなくな りました。村岡さんは礼拝に出席しておられるのですが。 事業団にとって、また施設長、施設の指導的立場にある人が礼拝で福音と出会い、その 福音が現場に何を求めているのか、深いところで理解してもらいたいと願って私の発題を終わります。